20世紀最後の夜を墓場で過ごした話

僕は20世紀最後の夜を墓場で過ごした。
2000年12月30日,ある地方都市の金融機関で債権管理の仕事をしていた。債権管理とは,わかりやすく言えば借金の取り立てのこと。これには毎月正常に返済が行われているものとそうでないものがある。そうでないものをご存知の通り不良債権という。
債権というものは3カ月延滞すれば,正常に戻る可能性はほとんどない。延滞が3カ月積み上がる辺りから法的手続きの執行が現実性を帯びてくる。だから,債権管理の基本は月々の延滞をいかに防ぐかということになる。
特に12月は年の暮れということもあって,既に不良債権化しているものは仕方ないとしても,正常債権の1カ月延滞は絶対に発生させてはならなかった。だから,12月に延滞が発生するとそれこそ血眼になって集金に走る。電話をかけまくり,事業所や自宅を訪問し何が何でも延滞の発生を防止しなければならない。
不良債権の中で回収の見込みがないものについては,会計上損失として処理される。これで会計上その債権はないことになるのだが,もちろん債権そのものが消滅することはない。もし,損失として処理された債権が回収できた場合,それは回収金額の100%を利益として計上できる。
当時,1億円の経常利益を上げるためには確か約100億円の貸し出しが必要だと言われていたと思う。これを逆に考えれば損失として処理された1億円の債権が回収できれば,それは100億円の新規融資の実行と同じ利益を上げたことになる。「だから俺たちはその辺の営業よりもよっぽど会社を儲けさせてやってるんだ。」と回収のプロである直属の上司は言った。
とにかく12月,この月は正常債権の延滞を確実に防ぎ,そして不良債権の回収も可能な限り進めなければならない。だから文字通り営業エリアを駆けずり回る。しかし,12月30日に借金取りが来るのを歓迎してくれるところなど一つもない。断じてない。だからと言って,早めに支店に戻るわけにもいかず,僕はどこかで時間をつぶそうかと考えた。
ファミレスや喫茶店,誰に見られるかわからないし,外回りの上司と鉢合わせしたら最悪だ。コンビニ,そんな長い間店の中にいられない。公園,年越しのこの時期,金融機関の人間が暗い所にいたら誰に狙われるかかわからない。そこで思いついたのは墓場。12月30日の夜にこんなところに来る人間はいないだろう。安全だ。
墓場はとんでもなく寒かった。明日の夜の半分は21世紀だから,20世紀最後の夜となるのは2000年12月30日である今夜だ。冷たい風を避けるため,墓と墓の間に座って,自販機で買った缶コーヒーを握りしめてじっと堪えた。腰かけた石から寒さがじわじわと尻にしみてくる。堪え切れずに体育座りの姿勢から大きな黒い鞄を抱えたままそのままゴロンと横になってみた。やっぱり寒い。今度は体の側面から寒さが体に伝わってくる。
一体自分は何をやっているんだろう。どんなに債主になじられ嫌われようと,僕ががんばって回収を進めれば会社は利益を上げることができる。会社のためと言えばそれまでだが,では,自分は何のために生きているのか。会社の利益を最大化するためだろうか。
会社は儲かればもうかるほどよい。昨年比3%増益であれば,来年度の目標は5%になる。永遠に達成されない目標。まったく馬鹿げている。呪われている。無限に成長していかなければ存在できない会社という組織。終わりなき成長が宿命づけられた資本主義経済。この永久運動の中で擦り減っていく自分。こんなことのために人生を無駄にしたくない。でも,どうして,いつから世界は,社会はこんなことになっているのだろう。納得できる説明がほしい。なんで僕は今,墓場でぶるぶる震えながら寒さに堪えているのか。
なぜ,資本主義経済は無限の成長が宿命づけられているのだろうか?
ウェーバーは資本主義的精神の発生についての説明をプロテスタントのカルヴィニズムにおける予定説に求めた。これがかの有名な「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」だ。予定説とは「神に救われる人間は既に決まっており現世での善行や悪行には左右されない。」というものである。つまり,神の意志というものは,ちっぽけな人間の行いくらいで変えることはできない不可知かつ絶対的なものであるという意味らしい。
どんなことをしていようが,それは救いと全く関係がないとすれば思うがまま享楽的に,そして怠惰に生きても問題ないことになる。救われるべき人間は既に決まっているのだから。この予定説はニヒリズムの蔓延を予感させるが,現実にはそうはならなかったようだ。
最終的に誰が救われるのか知る由もないという凄まじいプレッシャーの中で,カルヴァン派の人々は「救済を予定された者とは一体どのような人間だろうか」と考えた。そして,おそらくそれは享楽に耽るような人間では決してなく,禁欲と規律の中に自らを置き,己に与えられた職分に全力を尽くす人間なのではないかという考えに至った。そして,もしも自分が救済を予定された人間であるならば,己の職分に全力を尽くしていれば必ず成功を収められるはずだと。何といっても神に選ばれている者が失敗するはずがない。
だから,これらの人々は正しき行いによって得られた利潤は,神がそれをお認めになっているという証拠であり,それをさらに増やすことは神の栄光を称揚する行為であると考えた。神の栄光は永遠に拡張されていくべきものであり,それにはもちろん終わりがない。
つまり,カルヴァン派の人々にとって利潤の追求は,自分が救済を予定されていることの確証を得ることと同義であり,悪しき行いによって利殖を貪ることは忌むべきこととされた。資本の蓄積とは,救済を予定された者が実行する厳格かつ禁欲的な労働行為の結果として起こるものであり,実はそれ自体が目的ではない。目的は禁欲的な労働行為そのものであり,利潤はその行いが正しかったと神がお認めになっていることの実在物であると。浪費する,あるいは貯め込むことが目的ではないのだから,聖なる利潤はすぐに禁欲定期な労働とともに次の経済活動に投下される。すると,利潤はさらに拡大する。神の栄光はますます称揚され,拡張される。
救済を予定されている者は神の栄光(=利潤の蓄積)の拡張に貢献できる人間であるはずだろう。神がお認めになっている証拠である利潤の増加によって,救済についての確証を得たい。このような考えが資本の蓄積と投資の循環という行動様式の原型になっているのではないかとウェーバーは分析した。
しかし,この神の栄光の拡張を原動力とする資本の蓄積と投資という行動様式は,一度動き始めたら,それを始めたカルヴァン派の人々による禁欲的な労働行為から遊離し,斜面を転がり肥大化する雪玉のような自己運動を始め,誰にも止められないものになってしまった。もはやそこに神の栄光と救済への確証はない。
資本主義経済の無限の成長には,絶対に知りえないとされた救済についての確証(それ自体矛盾している)を得ようともがき苦しんだカルヴァン派の人々の狂わんばかりの葛藤が根源にある。絶対に知ることができないと自ら規定しておきながら,それについて確証を得ようとし,自らを律し鞭を入れて労働に励む。これは一種の狂気だろうか。
資本の蓄積は市民社会の形成と産業革命の母体となり,常に新たな市場を必要とする肥大化した生産力は植民地主義と帝国主義を生み出した。植民地主義が「想像の共同体」である国民国家の成立に寄与した後も,この資本の蓄積と投資という自己運動は弱まるばかりかさらに勢いを増し,〈規律・訓練〉を徹底することよってさらなる生産力を国民から引き出し,時にはそれを戦争に動員してきた。そして,今日のグローバル資本主義は世界を疾風のように駆け巡る。
ちなみに,80年代のアニメ映画「アキラ」の中の登場人物である鉄雄(41号)は自らの中で膨張を続ける超能力をコントロールできず,身体が風船のように膨らんでバケモノのようになって爆発する寸前に,再び覚醒したアキラ(28号)によって,超自然的な世界に連れて行かれた。これは一種の救済だろうか。とっくに正しき行いと神の栄光は忘れ去られ,際限ない膨張を続ける資本主義経済にも,いつか救い(あるいは審判)の日は訪れるのだろうか?
数時間墓場で時間をつぶした僕は手ぶらで支店に帰り無能の烙印を押され,その年の業務を終えた。
救いの確証を得るため禁欲的に利潤の追求に勤しんだカルヴァン派の人々は,20世紀最後の夜,極東の島国の墓場の中で寒さに震える男のことなどもちろん想像しなかっただろう。

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