日本語教育に「スパーーーンと入る」はない

 昔、といっても今から10年ほど前、まだまだ駆け出しの日本語教師だった頃、私はある日本語学校で非常勤講師をしていた。
 その学校では、月2回、土曜日に講師の勉強会(という名の半強制参加の研修会)が行われていた。勉強会は、概ね次のような手順で進められていた。
1)教務主任の先生から参加者にテキストに掲載されている文型や機能語が割り振られる。
2)参加者は割り振られた文型や機能語の導入を準備する。
3)勉強会当日に準備してきた導入を参加者の前で発表する。
 わざわざ勉強会が催されていたということから考えて、その学校は、在籍講師の研修に熱心な学校だったのだろう。また、当時、教務がかなりいい加減な学校もあった中で教務に熱心に取り組む、良心的な学校だったのだと思う。しかし、私は、勉強会に参加するたびに、何か言い知れぬ違和感を覚えていた。
 違和感の原因の一つは、教務主任の先生による「模範演技」だった。勉強会では、一つの文型、あるいは機能語につき、2~3名の講師が「導入」を発表することになっていた。各講師は、それぞれ自分が準備してきた「導入」を他の講師の前で披露する。そして、教務主任の先生から高評をいただく。各講師によって行われた「導入」は、ほとんど評価されない。各講師による「導入」が全て終わった後、教務主任の先生が「模範演技」、つまり、模範的な「導入」を披露する。私はいつも思っていた。

(それが答えやったら、何もみんなにやらせることないやん)
しかし、「模範演技」が行われること以上に私が違和感を覚えていたのは、「模範演技」終了後に発せられるキメ台詞的な一言だった。

教務主任
こうやって「導入」すれば、どんな学生にも、スパーーーンと入りますから!
当時は、「スパーーーンって、あんた」と違和感を覚えつつも、一方で「そんなもんかな」とも思っていた。しかし、今ならはっきりと言い切れる。
ありえへん
学生は一人ひとり異なるし、同じ学生であってもその状態は日々異なる。したがって、「どんな学生にでも」ということはありえない。そもそも学生は容器ではないのだから、何かが「スパーーーンと入る」ということはありえない。そして、何より、絶対に正しい答えがあるという発想自体がありえない。
 日本語教育学的に言えば、「教師トレーニング」という教師養成(研修)観と「教師の成長」という教師養成(研修)観の対立ということもできるだろう。しかし、そんなことがわかったのは、後年のことで、勉強会に参加していた当時の私は、ただただ「なんだかなあ」と思っていただけであった。だが、この「なんだかなあ」という違和感は、実は結構、重要な感覚だったのかもしれない。
 日本語教育の世界では、とかく「日本語教師の専門性」が話題になる。けれども、「日本語教師の専門性」を問う前にまず一人の人として目の前の相手に接しようとすべきではないか。そして、人と人のやりとりに絶対はないことを知るべきではないか。そうすれば、少なくとも「スパーーーンと入る」がありえないということはわかるはずである。

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