墓碑を読むとその街の歴史がわかるという話

墓碑を読むのが好きだ。墓地に行き、墓碑を読むことで、その土地の歩みを知ることができる。
長く滞在する土地では、必ず墓地に行き、葬られている人の墓碑を読んで歩く。ロンドンのグリニッジの墓地では大英帝国時代の墓碑が興味深い。バンコクでは中華系タイ人の墓碑がそのままバンコク発展の歴史を物語っている。
セブでも古い墓碑はほとんど中華系住民のものだが、それ以外に多いのは太平洋戦争の犠牲者の墓碑。爆撃により、艦砲射撃により、戦闘に巻き込まれて、ほとんどが1945年セブ島に米軍が上陸してからのものだ。
そして、今日、実家の墓参りに行った。菩提寺にある墓地の墓石に刻まれた戒名をざっと見回すと、「報国院」「護国院」「忠君居士」「功烈居士」などの勇ましいものが多い。前大戦の戦死者の墓石だ。ここには自分の家の墓も含めて、100基ほどの墓があるが、その中の3分1ほどにこうした勇ましい戒名を見つけることができる。
こんな小さな町の小さな墓地にしてはすごい数だ。中には一家族の墓地に3つもこのような戦死者の墓石が並んでおり、昔はいくら兄弟が多いといっても、一家で3人も戦死者を出してはたまらないと思う。
ひとつひとつ墓碑を読んでいく。「日露ノ役、遼陽周辺ニテ」「日露ノ役、旅順要塞、首山保ニテ」「第2次上海ノ役ニテ」、「ガダルカナル島ニテ」、「台湾東方海上ニテ」など、日本近代史をそのままたどることができる。こうした戦死者の墓石は、○○家先祖代々という一家の墓石とは別に立てられているので見つけやすい。
以前少し書いたが、地元には戦前陸軍歩兵18連隊というのがあって、日露、日中、太平洋戦争に動員され、最後はサイパン島で玉砕している。自分が子どものころは、この18連隊帰りの年寄りがたくさんいて、子どもを見つけては暇つぶしに戦争のことをよく話していた。
ひとつの墓碑を見た。「昭和19年比島レイテ島ニテ戦病死」。レイテ島といえばセブ島と狭い海峡を隔てて目と鼻の先にある島だ。レイテは太平洋戦争末期、フィリピン最大の激戦地で大岡昇平の「レイテ戦記」には凄惨な戦闘経過が記されている。
セブ日本人会は毎年8月にレイテ島に慰霊旅行に出かけており、その遺骨のほとんどが今なおレイテの山中に眠っているという。さて、この墓碑「昭和19年比島レイテ島ニテ戦病死」としか刻まれていない。
日露戦争、日中戦争初期の墓碑には「昭和14年○月○日、上海近近郊○○ニテ討伐作戦遂行中、便衣兵ノ銃撃ヲ受ケ、左胸部貫通銃創、即死、享年二十三歳」など戦死の経緯が詳しく記されている。おそらく家族の元に届く戦死公報にはその経緯が詳しく記されていたに違いない。
しかし、この墓碑には本当に「昭和19年比島レイテ島ニテ戦病死」としか記されておらず、戦死した日付もない。墓碑を読んでいくと昭和19、20年戦死の墓碑はどれも似たようなもので、ひどいものは「南方海上ニテ戦没」としか記されていない。乗っていた輸送船が沈められたために、このようにしか刻めなかったのか。だから、この墓石の下には遺骨が納められていないと考えて間違いない。
「昭和19年比島レイテ島ニテ戦病死」
この墓石の下にもおそらく遺骨はなく、今だにレイテ島の山中で「草生す屍」となっているのだろう。戦死した日もわからず、「戦死」ではなく「戦病死」ということは飢えと敗走の中でジャングルを彷徨った挙句、命を落としたことを人づてに聞いたからなのだろうか。
この墓石が立てられたのは昭和30年8月。終戦から10年が経ち戦後の苦労も一山を越した時期に建てられている。家族を失って遺骨も戻らない墓を10年後に建てた遺族の気持ちはどのようなものだったろうか。
もしかしたら、いつかひょっこり戻ってくる信じて待ち続けた末での10年後の墓石建立なのかもしれない。なにしろ、遺骨、遺品なし紙1枚のみの連絡だったであろうから。このような昭和30年8月建立の墓石が他にも2基あった。
これまで関連付けて考えてもみなかった愛知の地元とセブ・レイテの島々。僕は、セブから年に数回地元に戻るが、この墓石の人物は70年前同じ故郷、同じ町内を出て二度と戻ることはなく、今だに山中に眠っている。彼も出征前にはこの菩提寺に立ち寄り、先祖の墓に参ったことだろう。
8月の暑い日、地元の墓地でこの墓碑を見つけたのも、もしかしたら偶然ではなく、何かに導かれてのことかもしれない。
セブに戻ったあと、時間ができたらレイテ島にも行ってみようと思った。

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