ボクが社会人になった日

僕は大学に入学した時から、どうしても国際政治に関わりたかった。
ぜっったい、リーマンにはなりたくなかった。
受験を控えた高校3年の冬。
僕は、潰しのきく文系だった。
一番潰しのきく法律科のほうがいいかな、程度にしか将来を考えていなかった。

そんな僕の魂を揺り動かしたのが、ベルリンの壁崩壊(東欧革命(1989年)革命)をはじめて見た時だった。
駅の今はないホットドッグ屋の大きなブラウン管テレビで、この映像を衛星放送なるもので初めてみたとき、よくわからないが人目をはばからず大泣きしてしまった。
ヨーロッパ・ピクニック計画~ベルリンの壁崩壊

自由になるために無残に殺されていた人が、壁をこえて自由になる・・・
いまでもよくわからないが、ひたすら大泣きし、周囲に変な奴!
とみられていたことをいまでも覚えている。
専攻は、まったく就職先がない国際政治学を専攻しよう!と固く決めた。
そして、2浪もして家から通える小さな大学で国際政治を学ぶことになった。
ほんとうにうれしかった。
(僕は1浪の年末にある病気で、集中治療室に入院せざるをえなかった。
それから一生、内部障害をもっていて、実家から通えないとだめな状況だった。
かつ大きな大学だと何かあっても放置されて、と心配された。
また、小さい大学なら顔見知りもいっぱいできて、いざっというときは助けてくれるかな、とも考えていた)
だから大学卒業後も、国際政治に関わるため2年間本当に必死でがんばった。
その方法は二つだけだった。(と、その当時は考えていた)
一つは、大学教授。だから一番教授になりやすい大学院に行きたかった。
もう一つは公務員。スーザン・ストレンジに感化されていたので、国際的な通商産業を扱うことができる省庁にいちばん出世しやすいコースで行きたかった。
結果は、大惨敗だった。
(このときお世話になった教授など、大迷惑をかけた人たちに謝っていないことを今でも悔いている)
どうしようか、とまよっているときに、仕方なしに就職説明会へ行った。
とくに就職するつもりもなかったので、入り口で立っていた。
そしたら、担当の方が声を掛けてくれた。

その人に「海外に留学したいので、そこで役立つスキルを身につけたいです」
となぜか答えていた。
「じゃ、トレーニングがしっかりしているこの会社なんかどう?」
ぼくは、その会社に行くことになった。
ただ、「どうせ1年くらいしかいないし」と考えていた。
しかし、「1年くらい」は大きな勘違いだと思い知らされるのに時間は不要だった。
その会社に行ってからは本当に、本当に大変だった。
毎日毎日、上司にしかられてばかりいた。
仕事を覚えるために努力はした。
だけど、僕が担当したユーザが使用する汎用機(ACOS-2)。
これは僕には、どうしょうもないバケモノだった。
だから、「どうせ1年くらいしかいないし」と我慢していた。
とくに厳しかったのが、僕を担当してくれた上司(おっかない上司)だった。
毎日毎日、とくにお昼の時間は、必ず叱られていた。
ただ、この上司はお叱りの中に、
・ 上司への応対の仕方
・ プログラムの作り方
・ 仕事へのとりくみ方
など、「仕事」を本当に一から教えてくれた。
いまでも忘れもしない1年目の冬。
ぼくは、留学の準備があるし、もうそろそろここから逃げ出すか、と考えていた。
が・・・
仕事帰りの電車(ユーザ先へ電車で通っていた)でのお叱り終わりに、
その上司は、僕を見てこう言った。
「いつまでも目の前のことから逃げていたら、一生逃げるだけの人生よ」
初めてこの上司に認められたい!と心底思った。
それが、ボクが社会人になった日だった。
追記:
それから、本当に本当に死に物狂いで仕事を頑張った。
仕事のために全国を駆け回った。英語の勉強もがんばった。
その上司と一緒に大学院(MBA)まで通った。
そして・・・
大規模ユーザを担当できるようになり、社内はもちろんお客さんまで信頼を獲得するようになった。
僕は転職を決意した。
転職するために退職届けを出力した際、いつも出すプリンターではなく、なぜかその上司の横のプリンターにでてしまった。
やっぱり叱られた。
ただ最後にこう言われた。
「がんばってね、応援する」
追記2:
世界に日本を紹介する、訪日観光を支援する会社を創業しました。

著者の山口 章さんにメッセージを送る

メッセージを送る

著者の方だけが読めます

みんなの読んで良かった!

STORYS.JPは、人生のヒントが得られる ライフストーリー共有プラットホームです。