ネガティブな感情が実はとてつもなくメリットになっていた私

「ねばならない」
これが幼いときからの私の信念のような言葉でした。


正義感の塊で、少しの不正も許せない。
もちろん自分も、他人も。どんな人であっても。
警察のように目を光らせて
何か不正を見つければ
取り締まる!そんな性格でした。



幼い頃の私の話しから始まります。


記憶なので、もしかしたら
そうではないのかもしれませんが、
私は、学校生活というものに
あまり良い思い出がありません。



仲良しの子は何人かいましたけれど
親友と呼べるような子はいませんでしたし
女子に嫌われていました。
男子は可もなく不可もなく。




小学校から中学校まで
遠足もお弁当を一緒に食べてくれる友人を
いつもギリギリまで探さなくてはなりませんでしたし
授業でグループになるという時も
さて、私はどのグループに入ったら良いのだろう、
と、自分の身の置き場にいつも困っていました。



クラスの中で、私以外の女子全員で
鍵付きの交換日記をしていたり
身に覚えの無いラブレターを私名義にされたり
話した事も無い子から悪口が広がっていたり
小学校や中学校ではよくある
そう言った的になる様なそんな子供でした。



黄色と青の靴下を
バラバラに片方づつ履いて
私的にはイケている!
とおもっていたのですが
周りの子達に大笑いされてしまって
心が大きく傷ついたのも
つい先日のように覚えています。



今では、こんなこと
ファッションの一つとして
当たり前になりましたけどね。。。



自分がこれはいい!と思った事は必ず否定され
これはステキ!と思った事も笑われたりしました。


知らない間に、どんどんと自分の言葉で話す事をやめ
いつも人の顔色を見ながら
あ、怒られなかった、あ、無視されなかった
あ、話ししてもらえた、仲間に入れてもらえた
そんな風に他人の顔をみながら、
媚びながら、
自分以外の軸で生きる事を選択しはじめました。



自分の主張を通しても、それが受容されるどころか
拒否され、丸ごと人格を否定されるということを
何度も幼い頃に体験していると
「なんだか分からないけど私が悪いのだな」
という着地点におちついてしまうようです。



そうすることで、その状況を受け入れられるように
自分に言い聞かせているのでしょう。
それ以外納得方法がありませんでしたから。



何かあっても、理不尽なことがあっても
「よくわからないけれど私が悪いのだな」
そう思う事で、全てはきっちりと丸く収まりました。



どんなに納得がいかなくても

「私が悪い」「私が我慢すればいい」

それが全てを帳消しにしてくれました。




引寄せの法則というのがありますが、
まさに、「私が悪い」が自分の中に育ち始めると
私が悪いと思わざるを得ない状況を
どんどん引寄せてきます。


そしてそれがいつの間にか定着し、
当たり前になって行きます。



ただただ、一生懸命に目の前の出来事が
穏便に、波風立たずに、
もし何か、人を怒らせてしまったり
嫌われてしまうようなことがあれば
それを徹底的に丸く収める事に
心血を注ぎました。



いつも誰かの顔色をみて
いつもその場の空気を読んで
いつも邪魔にならないように、
嫌われないように、じっと息を殺すように
怯えながら
そんな風に生きて来ました。




「自分の意見は押し殺さなくてはならない」
「言いたい事は言ってはならない」
「相手に合わせなければならない」
「空気を読んで相手が何を思っているかを察知しなければならない」
「言う事はきかねばならない」
「自由にしてはならない」
「主張してはならない」
いろいろな「ねばならない」がだるま式に増えて行きました。


そうすると、大きくなるにつれ
この私のルールを犯している
周りの人間が許せなくなってきました。


言いたいことを言ったり、
自分のしたいことをして楽しそうにしている人
自己主張する人
相手のペースは考えずにしたいようにする人
...もう、広辞苑よりも分厚くなってしまったであろう
私のルールブックは、ありとあらゆる人を
裁くようになりました。



あいつが悪い!
あの人が悪者だ!



しかし根本には、
「常に私は悪い」
がありましたので、

自分がこれ以上悪くならないように戒め、
正しくあることに勤め、襟を正し、
真面目に生きるということにつながって行きました。



社会人になると、時間は正確に、
仕事もミスも無く、無駄口もせず、
言われた事を言われた以上に
人の言ったことは全て記憶して
自分のミスにつながらないように、
私の正しさを徹底しました。



いつしか、そんな風に生きる
ベテランになっていました。



ベテランも板についた20代半ば、
ある時、ある人にこんな事を言われました。

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あなたは、どうしてそんなに小さく生きているの?



本当はもっと自由なはずなのに。
正しいとか、間違っているとか
そう言うのは誰かが決めたルールの中でしか
いきていない。



人は、自分の生きて来た経験則で
自分の価値観でモノを言う。
今日こうだといっても、明日は違うと言う
今日は好きでも、明日は嫌いかもしれない。
人のルールにいちいち振り回されているのは
自分を生きてない人だ



自分軸で生きてない
他人軸で生きている人は、
信念も無ければ人生観も無い
だからいつまでたっても自分を信じられないし
自信もつかない、



自分の言動に責任も持てないし
自分で人生を作ろうともしない
決断もできないし、
決断を人に委ねて
それを人のせいにする。


自分軸で生きない人間は、無責任だ

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こんな風に言われました。




私は青天の霹靂。
というか、腹が立ちました。
猛烈に怒りが湧いてきました。
怒りすぎて泣きました。



あんたに何が分かるのよ!
無責任?
他人軸?
冗談じゃない
みんながみんなあんたみたいに
心臓に毛が生えている訳じゃない!!!


私の苦労なんて分かりもしないくせに
○×※¥&∞¢♣▽;…



多分こんなことを言ったような気がします。
あまりにも私が怒ったので、
謝ってくれるかと思っていたら、


その人が一言





「じゃーそのままでいれば?」




ビックリしました。
こんなに怒っている私を気にもせず
目の前でこんなに取り乱している人がいるにもかかわらず
至って冷静にいられるこの人を見て
私は世の中にこんな人もいるのか、と
愕然としました。



カルチャーショックというのでしょうか。
私の辞書の中には
「怒っている人には謝れ」
「怒っている人は、とりあえずなだめろ」
「怒っている人には、取り繕え」
こんな事しかなかったので
とにかく驚きました。


私はこんな風に言ったと思います。


「だって、私が悪いから
私が想い通りにすると怒られるし
嫌われるし、我慢しなきゃ」



するとその人は


「どうして自分が悪いって思うの?」




答えられない自分がいました。



だって、私が悪いから。




理由がありそうでない。
なんで私は自分を悪いと思うんだろう?
あれ?
あれ?





そのあとすぐ、私はその状況をまるで
空を高く飛んでいる鳥が見下ろすかのように
状況を感情抜きで把握出来た瞬間がありました



俗にいう「気づき」というものを
得たのかもしれません。



あ、そうか。
私はものすごい狭い世界の中に
いきていたんだな。



そんな事をまず思いました。



そして、いつの間にか、周りに受け入れてもらう為に
自分と言う個性を殺してしまい
そうやって生きて来た。


そういうシナリオが見えました。



その後すぐにこんな風にも思いました
では、周りに受け入れてもらう為には
自分を押し殺さなくてはいけないのか?
個性を出している人は
周りに受け入れてもらえないのか?



そんな事無い。




私は、なんだか、解放されたような
不思議な気持ちになりました。
でも、どうやったらいいかわからない。。。




私は「自分が悪い」と決めつけることで
相手を観察し、相手が何を求めているかを
感覚感情を踏まえて明確にキャッチする
というスキルを身につけ
雰囲気にあった行動をとるというスキルも身につけた。
控えるべき時や、話しても良い時。
周りに迷惑をかけないというスキルも身につけた。


何歩も先回りして、
この発言がこの人にどう影響するか
これをいうと、、、どうなるか
瞬時に頭の中で計算して
言葉を選び、慎重に人と接するということをしていました。



「私が悪い」というネガティブな感情は
一見とてもバツが悪いような気もしますが
ふたを開けてみると
実にたくさんの能力を私に身につけさせてくれたのだと
感謝出来る出来事へ変わったのでした。



きっと、もしかしたら
こんなスキルは、悲惨な体験からではなくても
学べたのかもしれないけれど、



一番大切な思春期を、
幼いときからの学生生活を犠牲にすることで
ものすごいスキルを身につけたのです。



ネガティブな思いだったからこそ
私にとっては生きるか死ぬかくらい重大で
不安や恐怖、悲しさや怒りがあったからこそ
乗り越えても来れたし
後先も考えずに、それをやって来れたのだと思いました。



じゃーこのままでいれば



その一言から多分数分しか経ってないのだと思うけれど
私は数分前の私とは別人のようになったのです。



気づくと人はもう元には戻れません。
知らなかったときには
どうやっても戻れないのです。



このままは嫌、
自分を生きて行きたい。
人の意見に左右されずに
自分の意見を持ちながら
周りと調和して行きたい


私は、自分を悪いと思わずに
自分を押し殺さずに
お互いの個性を認め合える
そんなところで生きて行きたい


目の前がパァ〜〜〜〜っと開けたような気がしました。


ネガティブな思いは
爆発的な威力もあるし、
人を行動させる原動力にもなる


だけどその時に私が思ったのは
もう嫌な思いをしなくても
学べる事は学びたい。


同じ修行でも、夢中になれる
楽しい修行が良い。
そんな風に思ったのです。




もし、ネガティブな感情にまとわりつかれて
どうしようもない思いでいる方がいるならば
もしかしたら、何かスキルを得ている最中なのかも知れません。


何度も嫌な目にあって、
「懲りた」とその気づかされるべき出来事に気づくまでは
何度も何度も同じような出来事を
くり返してしまうというのはよく聞く話しです。



懲りた。となる前に
さて、自分は何の「きづき」を与えられているのだろう
と自分を俯瞰してみるのもアリだと思います。
感情に巻込まれない「俯瞰」ができるようになってから
自分を見つめる作業が楽になりました。



「ねばならない」
このフレーズが出てきたら
間違いなく感情がねっとりとまとわりついている
とてもネガティブな感情が隠れています。



「ねばならない」をいかに解きほどいて行くか、
私は自分のルールブックをいかに薄くするか
それをいま実践中です。

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