クリスマスの思い出

僕は昭和35年の12月、クリスマスのちょうど一週間前に生まれました。(なんとも慌ただしいときに生まれたものです)

生まれ育った北海道の札幌は師走ともなると、あたり一面まっ白い雪に覆われホワイトクリスマスにはお似合いの街でした。


さて、僕の父さんは腕がいい大工職人だったのだけれど喧嘩っ早くて博打好きで「問題あり」の人でした。

よく建設現場で親方と喧嘩しては給料未払いのまま辞めてきてしまうわ、きちんとお金が入ってきてもそのまま札幌の競馬場や場外馬券売り場に行ってすってんてんに負けて帰ってきてしまうわといった有様で。

そんなわけで、子供の頃の僕の家庭はほんとうに貧乏でした。


生活費は母さんが近所のけばけばしいキャバレーでホステスとして働いていたお金が頼りで、小学生の僕は母がお店に出かける際に卓袱台の上に置いっていったカップラーメン、もしくは渡された50円玉や100円玉数枚で夕食を弟たちとなんとかするというのが日常でした。


父さんは毎晩どこかへ飲みに出かけていていたし、母さんもキャバレーからの帰りが遅くて深夜の帰宅。それに二人とも帰ってきた時はたいてい酷く酔っ払っていました。


そんな日常でしたが、その時の僕には慣れっこになっていたのかなんとも自分が不幸だとか他の家の子が羨ましいとか思った記憶はありません。(酔って帰ってきた安っぽいドレス姿の母さんに、これまた酔った職人服を着た父さんがバケツで冷水をぶっかけるといった夫婦喧嘩を目にするのは本当に嫌だったけれど)


ただ、その貧乏暮らしのなかで当時小学生の僕が「謎」と呼んでいた理解できない不思議なことが、いくつかありました。


そのひとつは、ときどき背広を着た偉そうな顔をした人がアパートに数人やってきて、なにかを懇願する母をふりきって居間のカレンダーの裏の漆喰壁に赤いペラペラの紙をぺたりと貼って帰っていくのです。


カレンダーの裏に貼るというのは、その赤い紙を訪ねてきた人の目につかないように隠すためというのは後で大人になって知ったことです。


その赤い紙を貼られた前後にはなぜか家のテレビや箪笥など家財道具の一つか二つかが姿を消していました。

子供ながらに

「ああテレビが観られなくてつまんないな」と思った記憶はあります。

大人になってそれは「差し押さえ」というものであり、テレビや箪笥は返ってくるときもあり、返ってこないときもありました。


もうひとつ子供の僕にとって謎だったことがあります。


それは、毎年クリスマス近くになると、夕方暗くなってから父さんがやおら居間にある大きな冷蔵庫を背負ってどこかへ出かけていくということです。


大きいと言っても、子供の僕から見て大きく感じただけで今でいうと高さ1メートルほどのワンドアの普通のタイプだったと思います。


父さんは、その白い四角い冷蔵庫にアパートの玄関先で現場で使う太いロープをからめ、「やっこらせ」と気合を入れ、母さんの手を借りながらまるで病気になった大きな子供を背負うようにして戸口を出て行って、小雪降る雪道に足をとられながらよろよろと、重さで千鳥足になりながら夜の闇に消えていきました。


そしてクリスマスの当日。



僕と弟たちの枕元には赤いブーツにお菓子を詰めたものやプラモデルの箱がありました。


後に大人になった僕は街中などでその安っぽいブーツのお菓子詰め合わせを見かけるとなんだかほんわかした気分になったものでした。


クリスマスの夜は母さんはキャバレーには行かず、父さんも家にいました。


卓袱台の上にはいつものカップラーメンや小銭ではなく、誇らしげに砂糖でできたサンタが乗った小さくて丸いべったり甘いクリームのケーキがあり、家族みんなで部屋を暗くしてロウソクを囲みました。


これが僕のクリスマスの思い出です。


父さんはとっくに他界してこの世にいませんが、あの時の冷蔵庫をおぶった不格好な姿は今でもはっきり憶えています。


「質屋」という言葉と存在を知ったのは、僕がだいぶ大きくなって大人になってからでした。








 




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