自分では上手くやれていると思うすべての人たちへ

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こんにちは。医学生兼ライターの朽木(@amanojerk)です。

ライターとしてのお仕事の傍ら、医学生として、外来や病棟で触れる医療の様々についてお話ししています。

今回は「幸福な老後」について。


※個人情報への配慮

この記事は具体的な患者さんを話題にするものではありません。個人を特定できる情報は秘匿されており、患者さんの属性はフィクションです。ご了承ください。


どう生まれるかは選べない。どう死ぬかは選ぶことができるかもしれない。でも、死ぬことなんてふつう選びたくないし、選ぶべきでもない。

だからこそ、人生はときにわりと困難なものになる。幸福かどうかを決めるのは自分に他ならないのだとしても。

往診という言葉を聞いたことがあるだろうか。

往診とは「医師が患者の家に行って診察すること」で、これは現在も存続する医療のスタイルだ。決して古き良き時代の町医者に限定された話ではない。

往診という言葉を意識せず生活できることは、それ自体ある意味で幸せなんじゃないかと僕は思う。

そういう人はおそらく、ふだんは健康であり、調子が悪くなったときに自力で、あるいは協力してくれる誰かと病院に行き、また健康に戻ることができるのだから。


往診の必要がある患者は、さまざまな理由により、病院に行けない人たちだ。自分とは関係ない、と思うだろうか。そんなことはない。

「どれほど医療を必要としても病院に行けない」そうなる可能性はすべての人に平等にある。

いま、どれだけお金を持っていても 、どれほど周囲に愛されていても、関係ない。頼るべき人も物もない人生を想像できるだろうか。

往診では、さまざまな患者の社会的背景に直接介入することになる。

そもそも、医療を患者の自宅、少なくともパーソナルスペースで施すのだから、 嫌が応にもその暮らしぶりを目の当たりにする。

路地裏のプレハブ小屋で、精神発達に障がいを持つ60歳の息子と暮らす、足の悪い80歳の女性Aさん。

認知症が進行し、家族のこともわからなくなった90歳の女性Bさん。Bさんの娘はそれでも、自分にとって特別な存在だから、かつて母親が望んだとおりに、自宅でさいごまで看取りたいと介護している。

自分の暴力が原因で妻と離婚し、3人の子どもとは絶縁状態だが、腰のヘルニアで歩くこともままならなくなった、一人暮らしの70歳の男性Cさん。

たとえばこれらの患者は、自力で病院に来ることができない。

協力を求める相手もいないか、いてもそもそも協力することができない。あるいは、病院に行かないことを望んでいる。

それでも、この人たちが病気や怪我をすれば、医療が必要になる。さて、あなたはこの人たちを不幸だと思っただろうか。


でも、どうかな。

たとえば、自業自得のDVによって家族を失い、手を差し伸べる親戚縁者もいないCさんは、かつて小さな工場を経営していた小金持ちだ。

大きくはないがセンスのいい一軒家に住み、高級そうな腕時計をして、ベランダに立ち寄る猫に、宅配させた牛肉を与えている。

往診する医師らに当たり散らすこともあるが、こちらもプロであるから、手慣れた医療者に上手にあしらわれる。そんなときはちょっと嬉しそうだ。

認知症のBさんを献身的に介護する娘は、かなり疲れている。ミドル・クラスの家庭で生活に困ることはないが、自分の仕事との両立は難しく、義母の介護に旦那は消極的だ。大学生の息子は祖母の臭いを嫌がり、実家に寄りつかなくなった。

さいきんになってようやく、せめて夜だけは、母親の不穏を抑える睡眠薬を投与することを受け容れた。それでも、母親を施設に入れるつもりはない。

近所からゴミ屋敷と呼ばれるプレハブ小屋は、たしかに精神に障がいのある60歳の息子が集めてくる壊れた傘やボロボロの雑誌で溢れ返っているけれど、老年のAさんと息子はよく話し、よく笑う。底抜けに元気で、明るい。

僕には、幸せそうに見える。

どんな人生を送ってきたかどうかは、残念ながら僕たちの老後にはそんなに関係がないようだ。より正確に言うなら、僕たちの老後が幸福かどうか、または、幸福に見えるかどうか。

あなたがパートナーを愛する気持ちが本物でもそうでなくても、たとえば相手が死んでしまえば、ひとりの老後の寂しさを埋めるのは記憶だけになる。そしてそれも、少しずつ失われる。やがては完全に。

家族を大事にしていても、最後を看取ってもらえるとは限らない。確固たる個人の人格を有する彼ら彼女らは、仕事の都合で都会を離れられないかもしれないし、遠くに嫁いでしまっているかもしれない。

一方で、お金はある一定の満足を与えてくれるだろう。 身も蓋もないが、物質的な豊かさはひとつの指標になり得る。少なくとも、ないよりはあったほうがいいかもしれない。

それでも、生活保護で暮らし、80歳の母親にもしものことがあれば、60歳で精神障がい者であるところの息子の人生もまた危ぶまれる、あの家族は、どんなに汚い粗末な家屋で生活していても、笑っている。楽しそうに。

最後に、もうひとり。

若年生アルツハイマーと診断された50歳の女性は、入居する施設でいつも怒っている。

かつて教師だったという彼女は、ことあるごとに「ちゃんとしなさい 」「ちゃんとしなさい」と繰り返す。家族は一度も見舞いに来ないという。職員にも態度が悪く、ときとして暴力を振るう彼女は、誰からも愛されていないように見える。

でも、彼女はひとりの男性ヘルパーを、自分の恋人だと思っている。

腕を組み、甘える。彼にだけは温かい気づかいをする。「いってらっしゃい」と、穏やかな笑顔で、言う。

医療の立場から人々の生活を見ると、わかるのはわからなくなることばかりだ。自分の人生が幸福だったかを判断できるのは自分でしかない。

最後に残るのが自分だけだったとしても、僕は他人を大切にできるだろうか。他人のために心から献身できるだろうか。そんなことをよく考える。

あとは自分が何に価値を置くかということになるのだろう。

漠然とした「幸せになりたい」という言葉の先にあるものは、意外と深く、重い。

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