雑木林とカブトムシ


小学三年生の夏、僕は雑木林の近くの珠算塾に通っていた。

雑木林にはカブト虫がいた。朝早く黒い大きなコウモリ傘を手に家を出る。足をマムシに噛まれても最小限の傷ですむように分厚いゴムの長靴を履いていく。草むらに分け入ると、誰にも教えたくないクヌギの木がそこにはあった。

雑木林の甘い匂いがする。密度の濃い樹液が幹から滲み出ている。コガネムシが集まっている。スズメバチもきた。身を潜めるようにしてスズメバチが飛び立つのを待つ。目をこらすと、カブト虫が自分の背丈よりもずっと高い幹の樹液を吸っている。

僕はコウモリ傘を逆さまにして静かにクヌギの根元に広げる。そして、思いきり幹を蹴る。蹴って、木を揺さぶる。

ドサっとカブト虫が傘の中に落ちる。

「来た!」

この一瞬に戦慄が走る。

何物にも代えがたいこの感触を求めて、翌日も、その翌日も僕は雑木林に入っていった。カブト虫がいないときには飛んでくるときをそこでじっと待った。


期待感に胸が膨みあっという間に時間が過ぎていく。次第に珠算塾には遅刻するようになり、行かなくなり、夏の終わりにはやめてしまった。


「おとうさんが子供の頃はな、クヌギの木がこのあたりにあってな」

それから数十年後、伐採され整地された雑木林の跡を小学一年生になった長女と歩く。少年の日にときめいた記憶は決してセピア色に褪せることはない。

鮮烈なあの感触を、大人になった今でも追い求めている。

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