あの時なんで法学部に行ってしまったのか、法学部で何を学んだのか、何故Web制作者になったのか1

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高校の2年目は、地下鉄サリン事件で締めくくられた

通学はいつも、7:36井土ヶ谷駅発浦賀駅行きの京浜急行に乗っていた。起きるのは大抵7:10くらいで、10分くらいで歯磨きと着替えを済ませて出かけていたから、その事件を知ったのは学校に着いてからだった。
校長からの緊急放送が入って、「帰宅時は気をつけるように」というお触れが出たが、どう気をつけて良いのかよく分からなかった。

それからは何かもうすごいことになっていた

テレビはサリン事件で持ちきりだった。朝起きて確認するのは時刻表示だけだったけれど、それでもお隣の東京で起きた事件は何が何だか分からないけれどショッキングだったし、その後に起きた模倣犯的異臭騒ぎは高校の最寄りの根岸線(京浜東北線)にも及び、本郷台の駅には当の異臭電車が置かれる騒ぎも起きた。

あらゆるものがどんどん変わっていった

高校3年になってからも、駅構内のゴミ箱はどんどん撤去され、それは京浜急行にも波及した。事件のあらましが明らかになっていく中、自分は受験生になっていた。

行方も知れない将来だった

横浜でも進学校だった母校にはジアタマのいいやつが多くて、指定校推薦で7月を待たずに早々と進路が決まる人も多かった。
そんな中、自分は予備校やら塾やらを嫌い、勉強も一点豪華主義(高校3年の時は古文・漢文にはまっていたので、10だったが、他は・・・言うまでも無い)だったし、部活は楽しかったが休日出勤(?)までするほど好きでは無かったし、有り体に言うと両親と同じ公務員にでもなるんじゃないかと、ぼんやりした将来だけが横たわっていた。
従って、学部を選ぶのも本当に適当だった。

おいら
代数幾何(だいすうきか)はダイスキカ?
おいら
代幾(ダイキ)なんてダイキライ。

などとオヤジギャグを連発しつつ、数学は全て睡眠時間に充てていた自分ではあったが、PC98全盛期に未だMSX-BASICでプログラミングをしていて、年上のお兄さん達(MSX-FANの常連さん)と「墨守同盟」というMSX同人誌にプログラムを投稿したりしていて、ソフトボール部と一緒に数学部(という名前ではあるが、実際はPC98でゲームをする部活)にも所属していたから、すっかり理系という周囲のイメージがあったみたいだった。
MSX同人誌のお兄さんで、2~3級上の人が「大学へは"遊びに行く"という理由でもいいから目的を持って行った方がいいよ」などと耳障りの良い言葉になびいて、とりあえず進学だけしておこうかなという甘ったるい考えだった。
数学も物理もさっぱり分けが分からなかったことと、その数年前に亡くなった池波正太郎小説を小学校から読んでいたこともあって、とりあえず大学には進学してみて、適当に歴史でも専攻するのかなぁと思っていたのだが・・・。

その年の夏、英語の姉ちゃん先生が死んだ

当時28歳のお姉ちゃん先生は、たまに部活で残っていると余ったお弁当を分けてくれたりしていた。
夏休み前には生活指導担当として、「9月にはまた全員が元気にここに集まれるように」と言っていたのに、急性膵炎で突然亡くなった。8月5日のことだった。
進路を一番相談しやすい姉ちゃん先生が、あまりにあっけなく逝ってしまった。
(その夏、佐嶋忠助役の高橋悦史さんも亡くなった。大好きだったのに。)

巷はWindows95に賑わっていた

当時パソコンをいじるやつはそれだけで「オタク」と目されていたので、競争率が圧倒的に低い「横浜市ソフトウェア・アイディア・コンテスト」で佳作だか何だかに適当なプログラムで入賞し、持ってもいないPC98用のWindows95と、そのソフトを大量にもらった。
そもそもその日は鬼平犯科帳映画版の封切り日で、授賞式よりそちらの方がよっぽど気になっていた自分は、ジーンズにTシャツに雪駄履きという完全になめた格好をして新横浜での授賞式に参加し、やっぱり男性に間違えられて授与者を慌てさせた挙げ句、地元テレビのインタビューに後輩を取り残したまま、伊勢佐木町の松竹(今はパチンコ屋になっている)に行ったのだ。もういない高橋悦史さんの姿は、痛々しいほど細かった。
部活を引退したものの、受験勉強もせずにそうやってブラブラしていたので、大学の名前も殆ど知らなかった。

オウム真理教の仕業だとわかって

巷はまた賑わった。
でも、あんなことをした人達を裁判にかけなければいけないことと、弁護士が弁護するということは、当時の自分には全く理解不能だった。前例に従って量刑するだの何だのと報道されるたびに、そんなものなら人工知能でさくっと判決を出せるのではないのかと思った。
人工知能で、サクッと裁判ができるようになるのではないか・・・?
少し法律を勉強して、ある程度のアルゴリズムと法律データが揃ったら、それも無理じゃ無い気がした。
それが運の尽きだった。
「法学部」の響きは、「文学部」よりかっこよく思えてきた。
それが、高校3年の12月のことだった。

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