後悔のない人生を!

幸せとは何か?
誰もが一度は考え、
誰もが常に追いかけてる、
超曖昧でポジティブそうな言葉。
仕事で成果がでたとき、
好きな人に告白して成功したとき、
ノーベル賞に輝いたとき、
有名になってちやほやされたとき、
たぶんこんな感じで、
幸せって種類も違えば大小もあり、
人によって幸せと思う事って違うんだと思う。
さらにいえば状況によっても大きく変わる。
ふだんは当たり前として気もとめてなかったのに、
突然不幸が起こり、それが幸せだったときづくこともある。
ガンになって余命申告された途端、
これまで特に気にもとめなかった周りの景色が
とても神々しいものに見えたり、
当たり前に周りにいた人たちが
とてもかけがえないのないものに
見えたりする、というのはよく聞く話だ。
おれも今では当たり前に食べてる5ドルのチキンライスも
かつて貧乏まっしぐらだったときは、
5ドル払うことさえ容易にできる状況ではなく、
月に一度奮発して食べたときは
とても幸せな時間だった。
今は何とも思わない。
なんなら体に悪そうって敬遠しさえしている。
もちろん幸せというもんは
自分のおかれた状況だけでなく、
自分のその時の感情によっても大きく変わってくる。
富士山を一人でのぼったとき、
自分はさほどの感動をおぼえなかった。
でも屋久島を一人でのぼったとき、
最後に見た縄文杉は本当に見てるだけで
じーんとくるほど感動した。
それは富士山は自分が思ってたほど苦労せず
登れたのにたいし、屋久島は無謀な環境下で登ったため、
今日たどり着かないと死ぬ、と思ったほど、
苦労して登りきった山だったから。
苦労して買ったポルシェは感動するだろうが、
宝くじが当たって買ったポルシェは感動は小さい。
もてすぎる男が美女とゴールインするより、
もてない男が美女とゴールインする方が感動はでかい。
そうなんだろう。
つまり幸せなんてもてる男でももてない男でも
有名でも有名じゃなくても、金があってもなくても
健康であってもそうじゃなくても、
誰にでも必ずあるもので、
それはそのときの自分の状況からかけ離れた
手に届かないものほど
大きくみえるってのが真理だろう。
つまりここで言いたかったのは
そんな幸せなんて考えたり、
追い求めたりすること自体が
ばかばかしいってことだ。
それは絶え間なく流れる波のように、
自分の状況や性格が変わりながら、
永遠に浮き沈みしていくものだから。
不幸(苦労)がでかけりゃ幸福もでかい。
幸福を求める事は不幸(苦労)を求めることでもある。
でも誰も不幸なんてできれば味わいたくもない。
こんなもんは「死」と一緒に天に任せてしまおう。
じゃぁ人は何を目指して生きていけばいいのか、
そう考えていくとやっぱり
「後悔のない人生にできるかどうか」
に尽きると思う。
書き換えることのできない過去を、
振り返りながら生きていくほど、
悲しく、無意味で、つらい人生はない。
幕末の志士達は短命で終わった人が多い。
暗殺されたり切腹したりした志士がごまんというる。
でも彼らは不幸だったのだろうか、
長く生きれず後悔した人生に終わったのか。
そうではなかっただろう。
人から見たら短命でかわいそうにも思えるが、
彼らはそれも覚悟で自分が生きたいように生きたのだ。
当時「死に方」が「生き方」より重視されてるほどで、
彼らは自分の生きたいように生き、
死にたいように死んでいったのだ。
「後悔のない生き方、自分が納得のできる生き方」
とは、「やりたい」「行きたい」「一緒にいたい」といった、
自分の「○○たい」という欲求に正直に生きる事であり、
その中で経験していく幸と不幸の絶え間ない波を
乗りこなしていくのが、健全な人生なんだろうと思う。
これは周りの評判や、実現可能かどうか計算してては
決して到達のできないものだと最近強く思う。
人間は臆病で弱い。
自信がないと周りに流されてしまう。
日本はとくに周りというものが作り上げる空気が
異常に強い。
おれはそんな「出る杭は打つ」「横並びを良しとする」
「道連れ」文化をぶちこわすことに携わっていきたい。
まずは「海外に出たい」「自分の可能性を試したい」って
欲求を持つ人たちを開放できればと思う。
そういう自分自身、
日々「~したい」って気持ちが、
周りの空気や臆病なもう一人の自分に
かき消されないよう、自分と対話しながら、
生きていきたい。

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