堺空港の思い出5 堺空港駅今昔

前話: 堺空港の思い出4 駐車場相場
堺空港25周年ということは堺空港駅/堺空港線もまた25周年となる。
堺空港建設の話が出始めた1968年、空港にはどうアクセスするかということも議題になった。
建設地の石津近くには南海が走っている。そこで南海が乗り入れるという話になった。堺市内の南海線には将来を考えて線路を増やすスペースを戦後復興で確保してあり、空港鉄道を走らせても充分まかなえるとされていたのである。
ところが国鉄がこれに異議を唱えた。大阪和歌山だけを走る南海だけでは心もとない、それに直近で3大事故を起こした南海は大丈夫なのかと主張した。
空港近くの堺工業地帯への貨物鉄道計画や成田新幹線への対抗として堺新幹線をという声もあり、1974年の建設決定では南海/国鉄双方を走らせるということにした。当時の発表書類によると計画は以下のとおりである。
1)堺空港線を以下のとおり建設する。
南海:湊駅から堺空港駅
国鉄:百舌鳥駅から堺空港駅
※途中、築港新町の関西電力前に築港新町駅を設け、両者はここで合流する。
2)輸送力強化と踏切対策のため、従来の路線を以下のとおり改良する。
南海は南海本線住吉公園駅(現 住吉大社駅)から湊駅まで線路を増設する。また高架にする。
国鉄は阪和線天王寺駅から百舌鳥駅まで線路を増設する。また、高架にする。
3)南海、国鉄とも難波/天王寺両駅より10分程度の間隔で運転する。
4)将来輸送力が不足した場合、東海道新幹線を新大阪より大阪湾岸沿いに堺空港駅まで延長する。
ここで建設が延期となるが、これを前提として大阪府と堺市は土地を確保した。他方、空港工事の予算がつくのを待とうと従来の路線の高架工事も延期になってしまい、議論になった。80年頃の新聞に「開かずの踏切なぜ残る」と題した記事がある。
空いた線路スペースを使って湊駅から築港新町まで貨物線が敷かれ、丸善石油(現 コスモ石油)や関西電力の貨物輸送が行われた。
1982年の建設開始時の資料では新幹線の話は見送りとなっている。成田新幹線凍結が念頭にあったのだろうか。いま、JR駅の横に空き地があるのはその名残らしい。
以後、国鉄はJRになりながらも工事が進んだ。
線路の増設は1年遅れではあったが、高架と堺空港線の建設は開港に間に合った。
花博やシルクロード博で初めて乗ったという人も多いだろう。
本格的な24時間営業に合わせ、南海とJRが交互に終夜運転をする話もで始めている。堺空港駅は眠らない駅になるのだろうか。


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