『1級身体障害者』が『自殺』をする為に全国を旅した話【フル】

プロローグ


これから、私が自殺未遂をした時の体験談、その前の自分の人生についてお話しようと思います。この物語は、ほぼノンフィクションです。

私は腎臓が死亡してしまって、人工透析という延命治療を行っている1級身体障害者です。

週に三回、1日五時間の延命治療が必要で、その副作用として重度の睡眠時無呼吸症候群、うつ病、強迫性障害(不潔恐怖症)、アトピーなどを発症して生活を送っていました。

私は自分が自殺未遂をするまで、

「死ぬ覚悟があれば何でも出来る。だから一時的な感情で自殺をするのは命の無駄使いだ。」

そう思って生きてきました。健常者の方も、このように考えている人は多いのではないでしょうか。

しかし、現実は健常者が考えているほど甘くはないのです。

例えば、想像してみて下さい。

もしあなたが、一生40度の熱を出しているような状態で髪の毛も全て抜け落ちて生きていかなければいけない病気や身体障害を抱えたとする。その状態からは、どうやっても逃げ出すことが出来ない。

その治療(延命治療、実際に治るわけではなく、命をつなぎ止めるだけの措置)の苦しさは、インフルエンザや風邪にかかっているような苦しさがあり、毎日、クソ不味いゴムのようなビーフステーキを何枚も食べさせられるようなものだと想像してください。(※重度の病気にかかったことの無い人でも想像しやすそうな文章にしました。実際の苦しさとは異なります。)

あなたはそれでも、

「死ぬ覚悟を決めるより、そのまま生きていればいいことがあるさ。」

なんて思えるでしょうか。

少し大げさに書きましたが、自殺を決意する人の中にはこのように、

「今の苦しい状況を抜け出す方法が無い。だから、死のう。」

と考える人も少なくないのです。

もちろん、自殺者の中には、まだ助かる方法があったのに、という方はニュースなどではなんとなく見かけます。しかし、本当に追い詰められている人間というのはそんなところまで気を回す余裕なんて無いのです。

私の場合も、

「逃げることの出来ない状況」

つまり、自分の身体障害を乗り越える気力が様々な理由から無くなったが故に、自殺を決意しました。

「自殺」というよりは、人工透析という辛い延命療法から抜け出したかった。だからそれを拒否したのです。

拒否する=死を意味する病気、それが「慢性腎不全」です。
しかし私は、人工透析をしなくても1週間は生きていける。その間に今まで我慢して出来なかった「旅」をして、そのまま静かに死のうと思っていました。


私の生い立ち


まず、自殺未遂の話に入る前に私の生きてきたバックボーンを知ってもらう為に、自分の生い立ちについて話そうと思います。

私は地元の地主で薬剤師の父親と普通のOLの母の元で生まれました。

地主と言えば聞こえはいいかもしれませんが、「部落」と呼ばれる、昔でいうエタ・ヒニンの地域です。

士農工商制度というのはご存知でしょうか? 武士の位が一番高く、農民の位が一番低いといった日本の旧身分制度です。

その農民たちの不満を解消する為に、農民よりも更に低い身分を作りました。それがエタ・ヒニンです。

身分の低いエタ・ヒニンの人達は当時の、今で言う限界集落的な場所へと追いやられました。それが「村八分」という言葉の語源だと言われています。(諸説あります。)

農民からも差別され、屠殺(とさつ 牛や豚を殺して肉にする仕事)など、人のやりたがらない仕事ばかりをさせられていたのです。

そのような低い身分を先祖に持っていたのが私の父です。

今の時代ではだいぶ少なくなってはきましたが、部落地域に住んでいる人は平成になっても差別され続けました。

うちの母の家計は武士を先祖に持つ家系ですので、母は結婚に猛反対されたそうです。両親や親戚などに。

しかし、部落の人達、特にうちの親父の親父(じいちゃん)は土地を沢山持っていて、国からも今まで差別をしてごめんなさい、的な多額の賠償金を貰っていたので親父は金持ちだったのです。

そういったお金の面もしっかりしているし人間的にもおかしくなさそうだと思って(本当はとてもおかしな親父だったらしいですが…)反対を押し切って結婚しました。ですが、私が2歳の頃に離婚しています。

私には9つ上の兄がいます。

兄と私は母と父の離婚問題の際に、父方に人質として捕らえられていました。そして、離婚調停が終わった頃に実の父親に捨てられ、そこに母が現れ、母、私、兄の3人で暮らすことになったのです。

母は昼間に保険屋、夜は水商売をしながら子供を育てていました。

今では離婚なんて当たり前。バツイチなんていう言葉があるくらいですが、当時は離婚をしているというだけで凄く肩身の狭い生活をしていたものです。

私も兄も離婚していることは口には出すな、と言われていたものです。ですが、分かりますよね、そういったことってなんとなく傍から見ていたら。

まぁ、私や兄が離婚のことで何か言われたりすることはなかったように思いますが、母は差別をされていたそうです。

水商売にはワケありの人が多いので別に差別はなかったらしいですが、保険屋ではとても差別されたそうです。(保険屋もワケありの人が当時は多かったですけどね。)

そうやって苦労してお金を貯め、母は部落に住んでいた頃の差別などを思い出すのも嫌で、地元で一番治安が良いとされている地域へと引越しをしました。

そこはお金持ちが多く、周りは主治医や弁護士、社長などの息子や娘ばかりでした。

でも、みんな優しい人たちばかりでした。

私は(母には申し訳ないけれど)ちゃんとした教育を受けていなかったので、箸もペンもちゃんと持てず、勉強もあまり出来なかったのですが、小学校では担任の先生が隣についてしっかりと勉強を教えて下さったので、勉強だけは普通に出来るようになりました。

先生の言うことをちゃんと聞く子供だったのも良かったのかもしれません。小学校の頃は教師に恵まれていたのは不幸中の幸いでしたね。

皆さんは「学童保育」を知っていますか? 小学校が終わっても家に親がいない子供を預かってくれる、放課後の保育園のようなところです。

私は、小学校が終わっても家には母がいないので(片親で夜遅くまで働いていたので当然ですよね)学童保育に通っていました。

学童保育にはワケありの子供達が沢山いて、自分と同じような境遇の子達で溢れかえっていました。

小学校2年生くらいまでは小学校と学童保育の往復で、家には夜にしかいない生活を私は送っていました。兄は一人家にいたので寂しい思いをしていたかもしれません。

9つ離れている兄は、うちが金持ちだった時代を経験しています。その時に英才教育のようなものを受けていたので頭はとても良く、ピアノもやっていたので絶対音感もある天才肌です。

しかし、そういった英才教育や離婚問題がアダになっているのか、今でも精神的にとても弱いです。

逆に私は小さな頃から身体も弱く、勉強も小学校低学年まではあまり出来なかったけれど、精神的にはそれなりに強いです。

私の暮らしていたお金持ちの多い地域。私自身は団地暮らしだったのですが、公園などで知らない子達と勝手に知り合って家に遊びに行ったりしていたので、そこでコミュニケーション能力が養われたように思います。ですので、今でも人見知りはしないし、誰とでも仲良くなることが出来ます。

人間関係に恵まれていたこともあり、小学生の頃は友達の家でゲームをするなど、普通に生活をしていました。学校の勉強にも普通についていけていましたしね。

私は習い事でスイミング、サッカーをやっていたのですが、サッカーを習っていた頃に生まれて初めて「イジメ」というものを経験しました。勿論、私がイジメを受ける側です。

集団で暴力、誹謗中傷は当たり前。馬乗り状態で私の上にイジメっ子が乗り、唾を垂らすなど、散々な目に遭っていました。

しかし、当時の体育会系の習い事はそういったことは自分で解決しなさい。出来ないなら勝手に辞めなさい。私たちは止めませんから。そうやって強い精神を鍛えるのです!(キリッ)といった、今からすれば時代錯誤な教育方針だったので、誰も止めてくれませんでした。

周りの人間も、自分がイジメ被害に遭いたくないから一緒にイジメを行ったり、できるだけ避けたりしていました。

そういったことが嫌になり、当時はサッカー選手になりたいと思っていたのですが(でも、凄くサッカーは下手でした 笑)その夢は諦め、サッカーを習うことも辞めました。(スイミングも辞めました)

ただ、そうやって運動をずっとやっていたのと、忍耐力だけはあるので、運動神経はあまりあるほうではなかったけれど、唯一得意だと胸を張れる競技がありました。

それが「マラソン」です。

小学校の時は常にマラソン大会では3位以内に入っているくらい得意な競技でしたし、大好きな運動でした。

ですが、小学校6年生の終わり頃にこのようなことが起きてしまいました…。

私はその頃にIgA腎症という慢性腎臓病にかかり、将来的には絶対に人工透析導入になる。身体障害者1級になる、という宣告を受けたのです。

原因は不明。急に血尿が出だしたので、働いている最中の母を呼び出して病院に行ってみるとIgA腎症と診断され、将来的に絶対に人工透析という延命治療が必要になる、と宣告されたのです。

そして、私は入院することになりました。


入院生活


病院という場所は消灯時間がとても早い。しかし、小学生が消灯時間を守ってすぐに眠るはずがありませんでした。

小児科内の電気が落ちたのを確認後、私達は遊びの為の準備を始めるのです。

消灯は夜の21時。小学校低学年の子はこのくらいの時間で就寝するのですが、私達みたいな高学年や中学生にはまだ寝るには早すぎる時間です。

消灯後も、夜勤の看護師さんが定期的に見回りにくるので、ベッドの中に荷物などを詰めて、あたかも人が寝ているように装う。

まぁ、この程度の小細工ではすぐにバレそうですので、万が一バレた時には、

「トイレに行っていた」

という言い訳や、

「親に公衆電話から電話をかけていた」

という言い訳を用意していました。私達の時代にはまだ携帯電話は普及していませんでしたからね。

私達が消灯後に向かう先は、私の病室の隣の、

「女子部屋」

です。

昼間はみんな学校で授業があるので(院内学級)、接触する時間があまりありません。

しかし私達、小学校高学年以上の子達は思春期真っ盛りです。異性ともっと話したいに決まっています。特に、病院内なんて辛い治療との戦いばかりで他に娯楽が無いですからね。

私だけがこういうことを考えていたのかと、入院した当時は思っていたのですが、どうやら考えることは他の子達も同じで、消灯後に女子部屋に集まるのは恒例行事になっていたのでした。

看護師さん達が巡回するのは1時間毎だというのは小児科内では常識でした。1時間以内に部屋に戻るなりして対策を行えば、次の日のことを考えて夜更かし
をしすぎないようにしても、2時間くらいは異性と交流出来る。

そうやって、看護師さんの巡回を警戒しつつも、私たちは女子部屋へと集まっていたのです。


女子部屋にて


元々、私が入院していた病院はそこまで大きな病院ではありませんでした。そして、基本的に小児科というのは他の病棟に比べて患者数は少ない。高校生以上は大人の病棟になりますので。

特に、低学年の子達は真面目に消灯後に寝るので、集まる不良高学年生達(笑)は、女子4人男子4人程度でした。この人数だから、女子部屋に集まってもあまりバレなかったのだと思います。

そこで集まってすることは、特別なことじゃありません。まずは、みんなで声をあまり上げないようにヒソヒソと会話をする。しかし、それだとずっと会話はしにくい。

そこで、私達は目当ての女子をこっそりと病棟から連れ出していました。そこからの行動は各自バラバラです。

私の目当ての女の子は、「白血病」の女の子。
入院生活が長い為なのか薬の副作用なのかは分からないのですが、身長は小学校4年生で150センチ無いくらい。体重も痩せていて、肌の色も白かったのを覚えています。

しかし、見た目に「病人」って分かるほど酷く痩せてはおらず、むしろ私服でその辺を歩いていたら病人だなんて分からないような可愛らしい女の子でした。

私自身が「白血病」についてあまり詳しくないのですが、映画で観る白血病患者は髪が抜け落ちて抗がん剤治療に苦しんで、無菌室に入れられて他の人と接するのは禁止されているようなイメージでした。ですが、その子は髪も普通にロングヘアーですし、無菌室ではなく大部屋で入院生活を送っていました。

治療が順調だったのかな? その時は良く分かりませんでした。今でもよく分かっていません。

性格も明るく、よく喋る。私の喋りが明石家さんまなら、その子はビートたけし。そのくらい二人共よく喋る性格でした。そういう共通点もあってなのか、入院してすぐに意気投合しました。

名前は「あやか」 どういう漢字で「あやか」書くのかは当時も今でも知りません。

今思うと、「恋」をしていたのかな? 当時はそういうことまでは意識しておらず、とにかく自分が仲の良い異性と二人きりで話したかった。その為だけに連れ出していました。

二人きりじゃないと出来ない話もあるし、病気の悩みは同性に聞いてもらうよりやっぱり可愛い女の子に限るよな、なんてことを考えていたので。

女の子達も同じようなことを考えていたようで、やはり悩み事などは仲の良い男子に聞いてもらいたいみたいでした。

そうして、私は「あやか」を屋上のある階まで連れ出しました。

屋上にて
病院の屋上は、夜になると扉に鍵をかけられて外には出られないようになっています。飛び降り自殺する人なんかがいますからね。しかし、エレベーターは普通に動いていて、外には出られないのですが、屋上のある最上階までは行くことが出来ました。

最上階は全面ガラス張りで、扉を開けなくても屋上を見渡すことが出来ました。

その風景を見ながら、漫画なんかでよくあるような、

「主人公と幼馴染の女の子が会話する」

というような気分で会話を楽しんでいたのです。歯を磨いたあとですので、お菓子やお弁当(笑)を食べることは出来ませんが、ペットボトルの飲み物なんかを持参していました。

私「なぁ、他の奴らから聞いたけど、あやかの病気って白血病なんだろ? でも、髪とかちゃんと生えているし、抗がん剤治療をしているような感じもしないんだけど何でなんだ?」

私は、疑問に思っていたことを質問してみました。
(私の離婚した父親は薬剤師です。そこで母も手伝っていたので、家に医学書や薬学書が結構あったので薬の副作用などが気になったのです。)

あやか「みんな勘違いしてるんだよ(笑)私の病名は”再生不良性貧血”っていうんだって。私もよくわかっていないんだけど、白血病と間違える人が多いみたい。だから、私は髪の毛がちゃんと生えているの!」

そうだったのか。噂に惑わされて白血病だと決めつけてしまっていたけれど、そういえば本人から聞いたことはありませんでした。
(※白血病は体の中に入ってきた異物を攻撃する白血球が異常増加して、正常な細胞まで攻撃してしまう病気。

再生不良性貧血は血小板、白血球、赤血球などが異常に減少する病気。貧血の凄く酷い奴ってイメージ。ごめんなさい、未だに良くわかっていません…。)

あやか「それよりも、だいちゃんは慢性腎臓病なんだよね? この病院でも人工透析を受けている人を見かけるけど、凄く辛そう。ほとんどお年寄りがかかる病気なのにね。だいちゃんも、もしだよ。あくまでもしだけど、腎臓病から腎不全になって人工透析になったらって考えたことない?」

(※人工透析は週に3回、1日4~5時間ほど腕に太い針を二本挿し、機械で血液内の老廃物を取り除く延命治療。完治することはない。腎臓病は、腎臓が病気の状態。腎不全は腎臓が死んでしまった状態。

腎臓は、血液内の老廃物を尿として体の外に出す働きをしている臓器の一種)

私「う~ん。俺も病気になったばかりでまだよく分かってないんだよ。なんか、尿に血とかタンパク質が混じっているな~ってくらいにしか感じてない。体も別にキツくないしね。病気がもっと酷くなっていったら分かるんだろうけど。」

長期入院している小児科の子達はほかの病気にもやたらと詳しくてビックリしました。自分が病気だと、他の人の病気も気になるのでしょうね。

そういうのもあってなのか、「あやか」は私の身体のことを、他の誰よりも心配してくれていました。自分の身体も大変だろうに。

屋上(最上階)での会話は、こんな風に病気の話ばかりで、特にロマンチックな展開なんかはありませんでした。まぁ、まだ小学生でしたしね。しかし、小学生だからこそ、別にイチャイチャしなくても二人きりで会話が出来るだけで幸せでした。

夜の星を見ながら異性と二人きりでの会話。私にとって、これはとても贅沢なことでした。

今時の小学生みたいに、付き合うだとかなんだとかいう話は私達の小学生時代は付き合うだとかといった話が出ること自体とても珍しいことでした。特に、長期入院していると一般の健康体の子よりも精神の発達が遅れるようで、良い意味で純粋な子が多かったように思います。

あやかも凄く世間知らずでしたけれど、純粋な子でした。

あやか「私はまだ入院が長引くと思うけど、だいちゃんは退院自体はすぐに出来るんじゃないかな。他の腎臓病の子も普通に学校に通ったりしてるし。退院したら、もう会えなくなるのかな。なんだか私、それを考えると寂しくて、だいちゃんがもっと入院してくれればいいのにって考えちゃう(笑)本当は、退院を願わないとダメなのにね…。」

私「バーカ。あやかの家がどの辺なのか知らないけど、どうせ市内だろ? 会おうと思えばいつでも会えるだろ。退院しても、お見舞いにくらい来てやるよ。」

自分なりの精一杯の励ましの言葉でした。

あやか「嬉しい…。信じてるからね? 約束、破っちゃダメだよ!」

そうやって、私達は「指きりげんまん」をしました。

あやかの指は、冷たくもあり、でも私にはとても心地の良いものでした。

私「やべ! 夢中で話してたからもう2時間くらい経ってるぞ…。早く病棟に戻らないと! 多分、バレてるだろうなぁ…。行くぞ! あやか!」

そうして、屋上を後にして、就寝。夜がふけていきました。

あやかとの約束は今でも果たせていません。

あやかはもう、この世にはいないから…。

退院後 別の病院にて


退院して、すぐに普通の生活を送ることが出来るわけではありませんでした。

「慢性腎臓病」という病名までは分かっていたけれど、その中にも色々な種類があります。それを特定する為には、

「腎生検」

という検査を受けなければなりません。

「検査」というと聞こえは良いけれど、手術室に入って麻酔も行い、背中から腎臓に向けて針を挿して、腎臓から組織の一部を取る。

出血も多い為、検査というよりは手術に近いのです。

これが、私が生まれて初めて受ける「手術」でした。

腎生検の前には様々な準備が必要です。多くの検査も受けなければなりません。

採血は1日に何度も行われるし、点滴とは常に二人三脚状態。トイレに行くときも常に一緒です。

「女子か!」

そんな突っ込みを入れたくなりました。

採血とは別に、検査薬を入れるための注射も頻繁に行われました。それを私は小学生の頃に受けていたのです。

そして、医療関係者だって人間ですからミスはあります。ですが、小学生だった当時の私は、ただでさえ嫌な注射や採血を、看護師の失敗でやり直さなければならないのが辛かったです。

子供はと残酷なもので、

「失敗されてまたやり直すの!? 何のために看護学校に通って勉強してきたんだよ!!」

と新人看護師を傷つけるような発言をしたのを覚えています。さすがに、大人になった今は後悔していますけどね。

検査の中で一番辛かったのは、深夜に1時間ごとに起こされて、検査薬を注射したあと水を1リットルほど無理やり飲まされ、無理やり尿を出し、検査をする。それを朝方まで何度も繰り返すことでした。

注射が嫌なのはもちろん、水を毎回1リットルも飲むのは拷問ですし、ろくに眠ることも出来ません。まだ手術前の準備段階だというのに心身共に消耗しきっていました。

手術当日


手術当日には普段、仕事で忙しい母もかけつけました。さすがに気になったのでしょう。リスクの高い手術では無いけれど、万が一ということもありますしね。

そして私は、筋肉注射という筋肉に直接注射をする、注射の中で最も痛いとされている注射を2本打ち、精神を安定させるための薬を吸入するためのマスクを付け、手術室へと運ばれました。

私の受ける「腎生検」は部分麻酔です。針を挿す部分だけに麻酔をする。だから意識はあります。まぁ、手術の風景が見えないようにタオルで隠されていますし、腎生検は背中に針を挿すので特に何かが見える様なことも無いのですが。

そして、手術が始まりました。

部分麻酔の手術全般に言えることですが、どうしても麻酔の届かない、効かない部分もあるので、下半身麻酔や全身麻酔の手術より、痛かったです…。
腎生検も、腎臓自体に麻酔をするわけにはいかないので、腎臓から組織の一部を剥ぎ取る時はとにかく激痛が走りました。

しかし私は元々、痛みに強い方だということもあるけれど、暴れてしまう方が手術失敗の危険性があると、子供ながらに考えていました。マセたガキだでしたからね(笑)だから、痛くても我慢して、ピクリとも動かないようにしていました。

そして、手術は無事に終了。

終了後、担当医であり執刀医の医師が、

「色々な子を見てきたけれど、だいすけ君は心臓が強いですね。(精神力が強いという意味)」

母にそう伝えていたらしいです。


手術後


当然のことながら、手術をして「はい退院!」というわけにはいきません。
腎生検は手術後に動くと大出血してしまい、時には死に至るので、動けないように両脇を重りのようなもので固めて、寝返りすら打てないような状態にする必要があります。

その間、全く動いてはいけません。

ご飯だけでなく水ですらも丸1日取ることができず、全ての身体に必要なものは点滴で代用。当然、お腹も減るし喉も渇きます。これもまた苦痛でした。

トイレにもいけないから、尿は「し尿瓶」に入れる。これがまた恥ずかしいのです。しかも両脇の固定物のせいで尿道が圧迫されているからなのか、尿意があっても尿が出ないのです。

仕方がないので、看護師さんに手伝ってもらいながら尿をするのですが、当然チンチンは丸見えです。しかも、看護師に触れられるので当然、勃起したりします。恥ずかしい…。

小学生ながらにも、恥ずかしくてたまりませんでした…。

母は私を心配して、私の絶食期間が終わるまで1日中つきっきりで看病してくれました。椅子の上で仮眠を取りながら。

ベッドや布団の上で横たわれないのだから、さぞかし身体もキツかったと思いますよ。

病気は自分が苦しいだけじゃなく、家族や周りの人にも迷惑がかかってしまいます。そういったことを小学生ながらに学ぶことが出来ました。

この時、私は母の偉大さを知ったのでした。


小児病棟での出来事


この病院でも、子供達の話題は異性のことばかりでした。

女子病棟の誰々ちゃんが好きだから、今度告白する。

退院したら、デートするんだ! 

というようなマセた話から、年の離れた看護師さんに恋をする子供までいました。

中には手鏡を使って看護師さんのスカートの中を盗撮して病院を追い出された奴もいました。(大きい手鏡を用意してくれたら、大金を払う、と周りの子達に言っていました。凄い徹底ぶりですよね…。)

そしてなぜか、有線放送? で昼間からちょっとエッチなアニメが流れていました。

週末の夜には、「ギルガメッシュナイト」という、女性の裸の沢山出るエッチな深夜番組をやっていたので、その時間に合わせて目覚ましをかけている子もいました。寝ている人間からしたら迷惑極まりないんですけどね…。

エロ本を隠し持っているなんていうのは結構常識でした。さすがに中学生以上の年齢の子ですけどね。

入院していると、どうしても性的な発散が出来ない。だから、そういったものに敏感になってしまうのでしょうね…。

そうこうしているうちに、私はこの病院を退院し、普通に学校に通いながら通院することになりました。

ただこの時は、この入院生活での私生活に対するブランクが、あれほどまでに新しい中学校での生活に悪影響を及ぼすとは考えもしていませんでした…。


小学校生活最後の春休み


小学校生活最後の春休みが始まりました。

私は春休みの途中までは検査などで忙しくしていたのですが、6年生の春休みは長めですので、少しは小学校の同級生達と春休みを楽しむことが出来ました。

入院中も、私は学校では結構威張っているような人間で、正直心の中では私のことを嫌っていた奴も結構いたんじゃないかと思うのですが、小学校のクラスメイト達は大半がお見舞いに来てくれました。

しょっちゅう喧嘩をしていて、でも嫌いになれなかった、私よりもっと威張っている(笑)クラスのまとめ役「徳永」辺りが声掛けをしてくれていたのでしょう。

「持つべきものは悪友だな」

そんな、紗に構えたような感謝を心の中でしていました。

私は春休み中の禁止事項として、

「絶対に運動をするな!」

ということを主治医からキツく言われていました。しかし、友達とボーリングに行く約束をしていた私は、

「ボーリングくらいならいいよね? そんなに身体使うスポーツじゃないし。」

と主治医に懇願しました。

しかし主治医は、軽い運動でもしてはいけない、と断固としてボーリングを許可してはくれませんでした。まぁ当然ですね。何か起きたら主治医の責任になるのですから。

しかし、小学生だった私がそんな主治医の気持ちなど考えることが出来るわけもなく、

私「ボーリングには絶対に行く!!」

主治医「ダメだ!! 言うこと聞かないなら入院させるぞ!!」

私「入院するかしないかなんて主治医が決めるものじゃなく、患者やその保護者の意思だろ!! 出しゃばんなよ勤務医のくせに!!」

主治医「勤務医でも俺は主治医としての責任がある。いや、なくてもお前は絶対にボーリングには行かせん!! 無茶するに決まってるからな!!」

このような、主治医との攻防戦を繰り返し、結局私の方が折れてボーリングは諦めて…
諦めませんでした。

主治医に内緒でボーリングに行ったのです。

他にも、映画、遊園地、いつも友達と集まって喋っていた公園、様々な場所を巡って小学校最後の思い出作りを一生懸命に行いました。

そうやって遊んでいる間は、自分が病人だなんていうことを忘れることが出来ました。現実逃避することが出来たので…。

また中学校で一緒になる子もいれば、離れ離れになる子もいる。

悪友「徳永」はアメリカ留学することが決まっていました。

私は小学校6年生の頃のクラスが大好きでしたから、1日も時間を無駄にしたくなかったのに、まさか入院しなければならなくなるなんて全く想像していませんでした。ずっと健常者として過ごしてきた私が、想像出来るはずがありませんでした。

「大切な時間が盗られた」

そんな気持ちで心の中がいっぱいでした。

だからこそ、春休みは好きなだけ、病気のことを忘れて、思いっきりはしゃぎました。

「さようなら、楽しかった小学校生活」

そして、私は中学生になりました。


新中学校1年生


新しい中学校生活が始まりました。

小学生の頃は、転校生、転入生を除けば6年間あまり生徒が入れ替わることがない為、同じ学年の中で知らない子のほうが少ない、といような状態でした。

しかし、中学生になってからは別の小学校の生徒だった子達も入ってきます。

本当に新しいことの始まり、という感じです。

クラスも小学生の頃は1クラス30人制の5クラスだったのが、中学生になると7クラスに増えました。1クラスあたりの人数も若干増えました。

私は少し不安でした。

確かに小学生の頃は病気でも周りの子達は仲良くしてくれました。しかし、その子達ともクラスはバラバラ。まとめ役の「徳永」も日本にはもういない。何人かは小学校6年生の頃に同じクラスだった子と一緒にはなったけれど、それでも「私が病気」だということを知らない子達の方が多い。

私はそんな中で本当に上手く学校生活を送れるのだろうか。

不安はどんどん大きくなっていきました。


「嘘つき」「ハッタリ野郎」のレッテル


入学してすぐに、クラスの皆はどの部活動に入部するか、という話で持ちきりでした。

うちの中学校は塾などの勉強をこなしながらスポーツもする、というのが当たり前だという子達で溢れかえっていました。運動神経もよくて頭も良い子がとにかく多かったのです。

運動部じゃないというだけで「舐められる」というような風潮もありました。しかし、私は主治医に運動は止められています。話に入っていけない…。

そんなことを考えていると、クラスメイトの一人から話しかけられました。

クラスメイト「大輔は部活、なに部に入る予定なの?」

当然、声をかけてきたこの子は、私の病気のことなんて知りませんし、多分中学生が理解出来るようなものでもありません。

ですが、変にプライドの高かった私は、例え病気が原因だろうと、

「運動部には入れないんだ。」

みたいなことを言うと、周りの子達から舐められるのではないか? イジメられてしまうのではないか? と警戒しました。

ですので、つい私は、

「陸上部の長距離に入る予定だよ。」

と、気がついた時には言葉にしてしまっていました。本当は主治医に止められているのに…。

しかし、陸上の長距離・マラソンが小学生の頃から得意で、病気じゃなければ陸上部長距離に入りたかったのは本当です。まぁ、学校側も病気のことは知っているだろうから入部なんて無理ですのですけれどね…。

しかし、すぐに部活に入らなければいけないものではありません。入部まで少しばかり猶予がある。

その間に主治医に入部許可を貰おう。

そんなことを考えていました。

中学校生活が始まってすぐの体育の授業は、「体力測定」でした。

1500メートル走も競技の中にあります。取り敢えず、また主治医の言うことを破ってこの競技に出よう。

本当は「体育の授業」自体を主治医に止められていました。ですが、中学生くらいの年齢で体育の授業に参加せずに、毎日のように見学をしていると、

「またさぼり~? さぼり~? 貧弱なの~?」

などと、病気の人間に対しても冷たい連中がいます。実際、最初の体育の授業で見学をしていたら、早速一部の馬鹿な連中からこのように絡まれたので。

そういったことが嫌で、私は主治医の言うことを守らず、体育の授業にも参加するようになってしまっていました。

「マラソンが得意とか言ってるみたいだけど、それもハッタリで本当は運動音痴だからずっと体育の授業をサボってたんじゃないの~?」

ある日の体育の時間、一部の馬鹿な連中が突然、このようなことを言ってきました。

確かに運動はめちゃくちゃ得意なほうではありません。しかし、マラソンが得意なのは本当で、それだけが自分の中での唯一の自信でした。その自信をこの言葉によってグチャグチャに壊されそうだと感じた私は…
キレました。

「1500メートル走、2クラス中の上位3位以内には入ってやるよ。」

そうタンカをきってしまっていました。ちなみに、体育は2クラス合同で行われ、その2クラスでの勝負になります。

今までの実力なら、そのくらいの順位は難しくない。小学生の頃は学年でも3位以内に入っていたからです。しかし、私はついこの間まで入院していた人間です。特別なリハビリをしたわけでもありません。本当に大丈夫か?

頭では分かっていたのですが、当時の私は血気盛んな中学生。少し舐められただけで、すぐに頭に血が登ります。私の生まれつきの悪い癖です。しかし、タンカを切った以上、結果を出さなければ大恥をかきます。

どのみちやるしかない。

しかし、この時の私は、本当に口だけの情けない人間だったのです…。


1500メートル走 当日


私は今までずっとやってきた走り方でいつも通りスタートをきりました。
いつも、

「スタートはまず全力で走り先頭に出てからペースを整える」

というのが私の1500メートル走のスタイルです。スタートで人混みに飲み込まれると、それだけでタイムが悲惨なことになるのでね。

しかし走っていると段々、身体に違和感を感じてきました。何だか今まで走ってきた時と感覚が違う。

脚が…重い…。
息が…苦しい…。
心臓が…張り裂けそうだ…。

最初の、たった400メートルくらい走った辺りからこの様なことを感じていました。

そして、次第に目の前が真っ暗になり…
私はリタイアしてしまったのです。

タイムが遅いだけならまだ納得がいきます。しかし、まさかたったの1500メートルすら完走出来ないだなんて…。

もちろん病気のブランクのせいです。しかし、そのブランクを計算に入れずに、頭に血が登りタンカを切った。そして事前練習もほとんどしていなかった。

思い返せば、病気以外の原因はいくらでもあります。

馬鹿にしてきた奴らを見返すことの出来なかったことよりも、自分自身に腹が立ちました。なんで完走すら出来ないんだよ…。

ただでさえ当時の私の性格は荒く、人に好かれるようなタイプではありませんでした。そこにダメ押しで、

「ハッタリ野郎」

という称号まで得てしまいました。中学校に入学したばかりでこれは最悪な出だしです。

小学生の頃によく遊んでいて、

「陸上部に入ろう」

と一緒に話していた友人達は、

「1500メートルも完走出来ないような奴、陸上部に入る資格無いから。」

そう言い放って、私の元から離れていきました。

そして、まだ私が陸上部に入るのを諦めていないという話をしていることを嗅ぎつけると、

「まだ言ってるよ。俺より遅いのに。」

と、その元友人達は、事あるごとに陰口を言うようになっていきました。
入学早々、私は一緒に陸上をやるはずだった友人達を失ったのです…。


教師との喧嘩の日々


何でもかんでも病気のせいにしてはいけない。そんなことは分かっていました。

それでも、私にとって、

「マラソンをまともに走ることが出来なくなった」

ということは、人格を否定されたのに等しいことですのです。得意なことがマラソンしかない人間。

マラソンで上位にいつも入っているから、自分のアイデンティティを保っていられました。それを全て失ったのです。

私は荒れました。

たかがマラソンだろ? そう言われそうですね。ですが私にとっては、それほどまでに「マラソン」という存在が大きかったのです。

その”たかがマラソン”が原因で、ただでさえ荒かった私の性格は、どんどん凶暴性を増していきました。

ことある事に、担任を含めた教師達と喧嘩。小学生の頃は、教師に反抗なんてしたことがなかったのに。

当時の私は授業中でも腹が立ったらすぐに教師に向かって文句を言い、授業を中断させていました。ただの問題児です。

当然、最初に私をからかってきた連中以外の、そして陸上部とは全く関係の無い他のクラスメイトも、私を避けるようになっていきました。

そして、私は独りになりました。


沢山のものを失って


休みの日に家で意気消沈していると、

「ピーンポーン」

と何故かチャイムの音が鳴りました。普段なら家に私一人の時は居留守を使うのですが(変なセールスとかくると相手をするのが面倒ですので)その日は何故か、チャイムの音に反応して扉を開けたのです。

そして、そこに居たのは、

クラスメイトの韓国人「ユン」と他県? から引っ越してきたばかりの変わり者「細谷」でした。

ユンとは小学生の時によく喧嘩をしていて、仲があまり良くありませんでした。

「細谷」に関しては、下ネタが激しい奴だったので、私が一方的に嫌っていました。生理的に受け付けていませんでした。

そんな、特別に仲の良いわけでもない二人が、むしろ私と仲の悪い二人が何故、私の家なんかにわざわざ、しかも休日に訪ねてきたのでしょうか。

それはとても単純なことでした。

私がクラスで最近、上手くいっていないことを気に掛けてくれていたのです。

ユンは韓国人だから、きっと今までの人生の中で差別を受けたりしたこともあるでしょう。

細谷は家庭が転勤族だから、クラスに馴染めない辛さも味わったことがあるのでしょう。

そんな二人だからなのか、私のことを気遣ってわざわざ遊びに来てくれたのです。なんだか、今まで私が二人のことを嫌っていたのが本当に恥ずかしかったです。

その時、私は自分は人を見る目がなかったんだなと、痛感させられたのです。

仲が良いと思っていた連中からは簡単に裏切られ、嫌いだった奴から歩み寄ってもらった。私は情けない人間だな、と自分のことを蔑む気持ちもありましたが、それよりも、

「ありがとう」

という気持ちの方が勝っていました。自分が弱っている時の、こういう人間の「優しさ」って本当に心に響くのです。

二人のおかげで、

「明日からは今のクラスでやっていけそうだ」

という勇気をもらうことが出来ました。


次の日


今まで迷惑をかけたクラスメイト達に、一通り謝りました。

不本意ではなかったのですが、

「陸上部に入る資格なんてない。」

と言ってきた連中にも、

「俺はまだ(陸上部長距離に入ることを)諦めてないから」

とだけ伝えました。その連中が心の中でどう思っていたのか、その時すぐに察しはついたけれどね。

そういった行動(謝罪)、そして自宅訪問してくれた二人のおかげで、また今まで通り、クラスに馴染めるようになりました。

でも、それで終わりではありません。私がやらなければならないのは、

「陸上が得意なんてハッタリでしょ~?」

と罵ってきた連中、そして陸上部に私を入れたくないと言っている連中(病気のことがなくてもね)を見返してやることです。

その次に挑戦すべきは、秋の体育祭の1500メートル走です。

次は、何を言われても熱くならない。タンカを切らない。とにかく、まずは1500メートルを諦めずに最後まで走り抜くことが先決。でも、なるべくなら昔みたいに上位に食い込みたい。

そういった思いから、私は体育祭に向けて少しずつ、陸上(マラソン)のトレーニングをするようになっていきました。

この当時、何度も書いてきたように陸上部に入るのを主治医に禁止されていた為、仕方なく「軽音のバンド部」(実際は「音楽部」という名前で、楽器は3年生しか使えず、1年生はリコーダーの練習ばかりさせられていた)という部活に入っていました。

相変わらず、部活の中でも先輩達としょっちゅう揉めていたけれど(部活自体、そういう気性の荒い先輩が多い場所だったので。先輩だけはね。)それなりに楽しく部活動をすることが出来ていました。(同級生はみんな真面目で良い奴らばかりでしたので。)

ただの言い訳になってしまうのですが、部活が終わるのは夕方。一応、部活動での楽器の練習や学校の勉強もあります。ランニングは毎日30分続けていたのですが、練習量が少なすぎると感じていました。

本当にこのままで大丈夫だろうか?

そんな不安を抱えたまま「体育祭」当日がやってきました。


体育際当日


体育際当日、1500メートル走には7クラスから各2名ずつ、合計14名が参戦することになっています。その参戦者のほとんどは夏休みの猛練習を耐え抜いてきた運動部員達です。

私はというと、ランニング以外はずっとリコーダーの練習をしていました。
そんな状態です。走る前から結果は明らかでした。

それでも、挑戦することに意義がある。そう思い込むことに必死でした。

この体育際はステップアップみたいなもので、私の中での本番ではありませんでした。次に繋げる為の練習試合です。無様な結果でまた馬鹿にされ・罵られるのも覚悟の上での参戦でした。

しかし、現実は思った以上に残酷で、順位は

「最下位」

わかっていたことですが、やはりこのままでは見返すことなんて出来るはずがありません。何がダメだったのだろうか? 自分なりに振り返ってみました。

「軽音の音楽部になんて入って中途半端な練習しかやっていないからダメなんだ。」

そう考えた瞬間、私はすぐに退部届けを出しに行きました。

それは、文化祭の終わった10月の終わり。秋の出来事でした。

そして私は、本格的な自己練習を始めました。

(何度も書いているけれど、私は主治医に運動自体を止められています。腎臓病が原因で。それでも、陸上だけは、マラソンだけは辞めることが出来ませんでした。陸上をしなくてもどのみち腎臓が死ぬ運命にあった私は、太く短い腎臓の運命を選んだのです。)


夜の公園での出逢い


最初の頃は、学校の終わった夕方に中学校近くの住宅街を、ストレッチ後に5キロくらいランニングをしていました。

この住宅街は上り坂も多いので上り坂はダッシュで駆け上るという条件を付けて練習していました。…何故かジーパンにTシャツという姿で(笑)(これは今でも不明です。せめて学校の体操着で練習すればいいのに…。)
しかし、自分の通っている中学校の近くということもあり、他の部活動の連中から頻繁に目撃され、時には知り合いの女子からの応援もあって嬉しかった反面、

「面白半分だよなぁ、あれ」

と、ひねくれた感情を抱き、恥ずかしくなってマラソンの練習場所と練習の時間帯を変えました。

私の通っていた中学校の隣には公園があり、グラウンドがあり、その周りをランニング出来るような環境になっています。そこに練習場所を移して、私は他の部活の終わる夜の20時辺から練習するようになっていました。

ある日、私がいつものように練習場所のスタート地点に向かっていた時、なんだかジャージを来た人影の集団が見えました。

なんだろう。

しかし、よく見てみると、

小学生の頃からの同級生の「岩下」と陸上部長距離のキャプテン「牧迫(まきさこ)先輩」、副キャプテン「内野先輩」と短距離のキャプテン「岡本先輩」でした。

私「岩下お前、陸上部に入ってたのか。確かに、小学校6年生最後の辺はマラソン頑張ってたもんな~。」

岩下「だいちゃんの方こそ、こんな所で何やってるの。噂には聞いてるよ。まだ陸上部長距離に入りたいって顧問の山本先生に言っているって(笑)」

私「そうなんだよ。次の、冬のマラソン大会で絶対に結果を出さないといけない。もしこれでダメなら、大人しくまたどこかの文化部にでも入るか、家で勉強でもしておくよ。」

岩下「俺たち最近、夜に陸上部員で集まってここで練習してるんだけど、だいちゃんもよかったら一緒にどう?」

願ってもないチャンスでした。陸上部員でもないのに、陸上部の先輩方と一緒に練習が出来る。これほどまでに幸運なことがあるでしょうか。

そして、他の先輩方も私に話しかけてきました。

内野先輩「おいおい、俺のこと忘れたのかよ。小学校低学年くらいのとき、ドッジボールとかしてよく遊んだだろ(笑)」

そう、私は忘れていただけで、内野先輩とは面識があったのです。

岡本先輩「そのドッジボールの練習を手伝って鍛えてやったのは俺なんだけどな。忘れられていて寂しいぜ(笑)」

私は公共団地に住んでいたのですが、そこの団地はとても広く、そして知らない子供同士でも団地内では友達になって遊ぶ、という習慣のある地域でした。そのおかげで、年齢の離れた沢山の子達とも幼い頃から遊ぶ習慣がついていました。その環境がその時にとても役立ったのです。

ですが、牧迫先輩だけは初対面でした。

というより、私を陸上部に入れたくないと言っている連中の一人だと話では聞いていました。

私「牧迫先輩は、俺が陸上部に入るのは反対なんですよね。話で聞いています。それをきいて凄くショックで、でも諦めきれなくて、音楽部も辞めて陸上の練習を始めました。反対されているのは、噂ではなくて本当ですか?」

私はストレートに訪ねました。

牧迫先輩「確かに反対はしていた。だけど、だいすけのことよく知らなかったから、適当に発言してしまっていたんだ。ごめん。部活辞めてまで陸上やりたいっていうやる気のある奴ならむしろ歓迎だよ。あとは、顧問の山本を説得出来るといいな。」

こういう優しい言葉を頂きました。

牧迫先輩、本当は気が優しくて、むしろ優しすぎるくらいの性格で、人の悪口を言うような人じゃなかったのです。ちょっと口走ったことに尾ひれが付いていって話が大きくなったのでしょう。

あと考えられるのは、私を陸上部に入れたくない連中が話を誇張して噂を流したか。

こうして私は、新たな「陸上を共に頑張る仲間」を得たのです。これは自分にとっては大きな進歩でした。

ですが、私にとっての本番は「冬のマラソン大会」です。

私は、このメンバーと共に、冬のマラソン大会に向けて練習を始めました。
練習内容は、ストレッチ、筋トレと1日10キロメートルのペース早めのランニング。途中の上り坂では必ず全力ダッシュで上るという”自分ルール”付き。

それ以外、特に難しい練習をしたわけではありませんでした。でも、これを続けるだけで体力がどんどん増しているという実感を、練習している時から得ていました。

内野先輩「だいすけ、頑張ってるな。岩下、負けんなよ(笑)」

この練習を私達は、

「夜練」

と名付けました。

そして、冬のマラソン大会の本番が始まるのです。


マラソン大会、影の陸上部員


学校の体育の授業でマラソンを行う時期がやってきました。

マラソン大会は、「練習」でまずコースを覚え、「本番」を走るという2回に分けた構成になっています。(練習と本番は別々の日程で行われます。)

マラソンは7クラス中、隣同士の2クラスが合同で行います。

1・2組 3・4組 5・6・7組(ここだけ3クラス)という具合です。

初日は、練習です。でも、私にとっては今までの練習の成果がどのくらい出ているのか知るために、かなり重要な日です。ここで悪い成績を残すと本番に響く。

私はかなり緊張していました。

まず、スタートする位置を自分達で決めるところから私の学校のマラソンは始まります。

やる気の無い人間は後ろの方に並び、やる気のある人間は前方に並ぶ。私は当然、前方に並びました。

ここで並ぶ位置にも、かなり頭を使いました。

私の学校では、インコース(内側)だろうがアウトコース(外側)だろうが真横に並んでのスタート。そして、直線ではなくカーブからのスタートという特徴があります。

この場合、インコースだとスタートを走る距離が一番短い、という利点があるけれどその反面、

「人混みに飲まれる」

というリスクがあります。

アウトコースだと、人混みには巻き込まれにくいけれど、スタートを走る距離が一番長くなってしまい出遅れる可能性があります。そしてそのスタートの、ほんの少しの距離の違いがマラソンになるとタイムに悪影響を及ぼすことになりかねません。

以上のことを踏まえた結果、一番バランスの良い「最前列の真ん中」を私はスタート位置に選びました。

並んでいる最中に、

「あいつ、体育祭で最下位だったくせに前列に並んでるよwww 恥をかくだけなのに。」

「どうせ途中でリタイアするんだろ。最初から後ろに並べばいいのにwww」

というような陰口が聞こえました。しかし、私は全く気にしませんでした。もうそんな陰口には慣れてしまったのと、毎日マラソンの練習を行っていたおかげで、自分に自信が付いていたからです。

そして、とうとうマラソン大会の初日がスタートしました。

やる気の無い連中の中に、ただ目立という理由だけでスタートだけトップに立つ奴が現れました。小学校の頃から毎年見る光景です。

しかし、私はそういった連中よりも前に飛び出したのです。

私は、どんどん後続を引き離します。まずは第一段階の「人混みに巻き込まれない」という部分をクリアすることが出来ました。

ですが、運動部員でもない私を簡単にトップに立たせてくれるほど世の中は甘くありませんでした。当然、マラソンに真面目に取り組む連中もいます。

「どうせすぐにリタイアするくせに、目立とうとして前に出るなよバーカ!www」

こんな罵声も飛んできました。しかし、私は全く気にしていませんでした。だって、そいつより今、自分の方が前にいるんだぜ? ただの僻みにしか聞こえません。

そんな風に余裕をかましていましたが、すぐに陸上部ではない他の運動部の人間に追い抜かされて、私は2番手になりました。

でも引き離されないようにそこはグッと堪えました。

そいつの背中をずっと追うことにしたのです。

そいつも私のことを意識しているのか、私が前に出ようとする度にスピードをあげ、絶対にトップには立たせてくれませんでした。

そうやって、二人でデッドヒートを繰り広げながら後続を引き離し、二人だけの勝負になっていきました。確実に「夜連」の成果が出ていました。

最終コースには漫画やドラマなどでお馴染みの「心臓破りの坂」がこの学校にはあります。そこでラストスパートをかけ、私は1位に躍り出ようとしました。

しかし、1位のそいつも体力を温存していたのか、ラストスパートを私より早い段階からかけてきたのです。

そしてゴール 結果は2クラス中「2位」

中学校入学当初は、入院明けということもあり途中でマラソンをリタイアしてしまった、という過去が私にはありましたよね。それに比べれば大きな進歩です。

しかし、私はこの結果にまだ満足はしていませんでした。上出来だとは思ったけれど、私の目標は、

「陸上部長距離の奴ら全員に勝つ」

ことだったからだです。私のことを馬鹿にし、入部を認めない奴らや、「岩下」のような奴も含め。

その為には7クラス中3位以内には入る必要があると私は考えていました。(7クラス合同で走ることは出来ないので、マラソン大会の次の体育の時間に3位までの人間だけ発表をしてくれるという形です。)

この第1回目の体育の授業は、序章に過ぎない。

でもこの結果を受けて、今までマラソンの度に私を覆っていた「悪い空気」が「良い空気」に変わるのを肌で感じていました。確実にいい方向に流れている。

そして、マラソン大会の本番を迎えました。
マラソン大会当日
とうとう、マラソン大会の本番がスタートしました。

私は人混みに飲まれないように全力でスタートダッシュをかけました。しかし、さすがにマラソン大会の本番です。ほかの連中も一斉にスタートダッシュをかけてきました。

マズイ、このままだと人混みに飲まれる。

私は一瞬焦りを感じました。

しかし、それではいけないとすぐに冷静になり、どう対応すべきかを頭の中では計算していました。

「そのまま焦ってダッシュを続ければ、確実に後半まで体力が持たない。スタート地点で争ってはダメだ。争わずに済む方法を考えなければ。」

このような独り言を心の中で言っていたのです。

競馬では、
・スタートから全力で走る走法のことを「逃げ」
・スタートはある程度、力を抜いて後半追い越すことを「差し」
といいます。

5キロメートル以内のマラソンなら断然、「逃げ」が有利です。競馬でも、逃げの出来る体力のある馬は優秀とされています。

数々のレースを勝ち抜いてきたような優秀なサラブレッドは「逃げ」を得意とすることが多いのです。

私の基本レース走法も「逃げ」です。しかし、今回は周りの連中の多くが「逃げ」を使ってきています。

周りと同じことをしていてはダメだ。

「人の行く裏に道あり花の山」

という言葉を私はマラソン大会中に思い出していました。

周りの連中と違うことをするほうが良い発見がある、という意味で私はこの言葉を使っています。

(実際は、周りの人間と違うことをしていたほうが儲かるよ、という証券金融業界の言葉ですのですが…。)

私は一気にアウトコース(外側)に移動して、体力を温存しておいて後から抜き去る走法に切り替えました。

少し無駄に体力を使ったけど仕方がない。時にはそういった駆け引きも必要です。そこがマラソンの面白いところですのですから。

前方にはスタートダッシュを決めたやる気のある連中が固まっています。後方にはやる気の無い連中が固まっている。

私はその丁度、真ん中を位置取って走っていました。

マラソンのコースは、学校内のグラウンドを5週したあと、学校の裏門から外に出て学校の外側をグルッと一周して、正門から戻ってきてゴール、という道筋です。

まず、最初の5週はあまり体力を使わないように、この真ん中の集団の中で走ろう。そういう作戦に変更しました。

スタートの段階で人混みを抜けられていたら気持ちの面でも少し楽になるのですが、真ん中で走るということは人混みの中で走るということになります。

少しそこが不安でした。

そのまま飲み込まれて前方集団に追いつけないかもしれない。そうなれば結果は散々なことになる。

でも、私は耐えました。ここで焦ったら負けだ。そう思ったからです。

もうマラソンに関して、私に罵声を飛ばしてくる人間もいません。そのくらいの結果を練習の段階で出したので。

今は自分との戦いです。

校内グラウンドを5週走り終わり、裏門から外に出る段階で私は一気に動き出しました。

ここでダッシュをかけて、真ん中の集団から飛び出し、前方集団に追いついたのです。

前方集団は、スタートで無理をした連中もいた為、かなり人数が減っていました。私が追いついた時には自分を含めて5人。

この5人での勝負となりました。

この5人の集団は誰一人としてペースが乱れない。誰も置いていかれなければ、誰も飛び抜けることもない。常に横一列の状態が続いていました。さすが大会の本番、みんなやる気が違います。

その状態のまま、最終の「心臓破りの坂」まで5人は辿りついたのです。

心臓破りの坂では横一列のまま、皆一斉にラストスパートをかけました。タイミングはみんなほぼ一緒です。

誰も前を譲る気はありません。この5人の誰もが「1位」を目の前にしているのです。当然といえば当然。

さすがに最後の方になると残っている体力なんて皆ほぼ0に近い状態です。マラソンというよりは短距離走の勝負みたいなものです。

私は短距離走があまり速くありません。私にとっては少しフリな戦いです。

でも、ここで私のどこに残っていたのか分からない「最後の力」が発動したのです。

まず、私がトップに踊り出て他の4人を引き離しました。

しかし、隣のクラスの「柿内)」が最後の力を振り絞って私を追い抜こうとし、隣に並んできました。

「柿内」との1対1の戦いになりました。こいつがラスボス、最後の難関か。

心臓破りの坂後半までお互い並んだまま。もう二人とも体力なんて残っているハズがありません。気力のみで走っていました。

最後は気力ある、精神力の強いほうが勝つ。

そんな戦いでした。

しかし、私は負けるわけにはいかないのです。陸上部の連中全員に勝つ。学年で「3位」以内に入るには単純計算で、私の走っている7組中2組で結成されたグループ内で1位じゃないとダメですのです。

ここで勝たないと私は残りの中学生活を自分の大好きな「マラソン」の無い状態で過ごすことになります。

そんなの嫌はだ。そんな退屈な学生生活、私には耐えられない。

だからここで勝たなければ。

腎臓に負担をかけてまで練習してきたんだ。悪いが柿内、

『お前とは、このマラソンにかける”情熱”が違う』

たかが中学校の体育行事の一部。そんなものにここまで情熱をかけるバカな人間が他にいるでしょうか? いや、いるはずがない。

でも、その「バカの精神(ちから)」が最後に火を吹いたのです。

ほんの一瞬。本当にほんの一瞬だけ、ピストルの弾を発射するかの如く、私は前に飛び出しました。

そのままゴールイン。

私は「1位」を手にしたのです。

マラソン大会後のトイレでは、血尿が今までの中でも特別に酷かったのを覚えています。何せ私は小学生の頃から腎臓が悪いのですから。

でも、私の心の中はそんなものよりも「充実感」で一杯でした。

私はやり遂げた。「夜連」を頑張った甲斐があったのです。

この努力は、後の人生で別の形で必ず役に立つ。私にはそんな”確信”がありました。

そして、マラソン大会は幕を閉じたのです。
マラソン大会終了 結果発表
体育の教師が学年でトップ3までの順位を発表していく。

1位 牧島 大介 (小学校1年生の頃からマラソン大会トップの常連。でもこの当時、陸上部短距離に所属。)

さすがに1位は私じゃないか。でも、私のことを馬鹿にしていた連中じゃない。私はこいつに一度もマラソンで勝ったことがない。納得のいく結果でした。

2位 中島 勝也 (陸上部長距離。1500メートル走が得意。)

2位の奴は、私が陸上部に入ろうとしている事に反対している連中の一人でした。でも、比較的、気分屋なところがあり根は悪い奴ではありません。

しかし、この時点で、

「陸上部長距離の奴ら全員に勝つ」

という目標を達成することが出来ないことが確定しました。

さすがに個人練習だけで陸上部長距離の奴に勝とう、だなんて無謀だったか。

ほかの陸上部長距離の連中も実力者は沢山いる。岩下のような努力家も。

きっと私は3位でも名前は呼ばれないだろう。でも悔いはない。私は今出来ることを全力でやりきったのだから。

その時だった。

3位 山本 大輔

私の名前だ…。私の名前が呼ばれた…。

表向きは涼しい顔をしていましたが、心の中は嬉し涙で一杯でした。

努力しただけじゃない。努力をして結果まで出すことが出来たのです。

この日以来、陸上部員が私の陰口を言うことはなくなりました。

「ハッタリ野郎」

というレッテルも剥がれ、他の連中からも悪口を言われなくなったのです。

今まで腎臓病を患っていることで陸上部長距離に入部させてもらえなかったのですが、この結果をきっかけに陸上部顧問の先生に直談判をして、陸上部長距離にいれてもらえるように頼み込みました。

顧問の先生の答えは「NO」。

しかし、私の頑張りが認められたのか、

顧問「春休みや冬休みだけは陸上部の練習に参加をしていいから、普段は自分で練習するように。そして、大会も練習試合や駅伝などだけは出してやる。」

このような条件をいただくことが出来ました。

そうやって私の中学生活は、

「影の陸上部員」

として、陸上に専念していました。そのような努力家でした。そこだけは自分で自分を誇りに思っています。
波乱万丈な高校受験
母が肝臓病で倒れました。

母の仕事はずいぶん前から上手く行っていなかったらしいです。

上手く行っている時は年収1000万円なんて軽く超えていたけれど、それはバブルだったからです。ずっとは続くはずはありませんでした。
そしてそれだけ稼いでいた7ということは、その分ストレスも抱えていたのです。

そのような生活を送っていたからなのか、母は昔からヒステリーの酷い人でした。そして、束縛も。

そんな母のことが私は大嫌いでした。小中学生がそんな親の苦労も理解出来るはずもないですしね。

その母が倒れたのです。嫌いな母でも、さすがに心配になりました。

母は比較的すぐに退院できましたが、会社でのストレスが原因で自律神経失調症(ずっと目眩がして立てないような状態)になり、精神的にずっと不安定で、私に八つ当たりすることも多かったのです。

そして、母は仕事を辞めました。

それ以外にも、学校では担任とも相性が合わず(学年全体の生徒達から嫌われていた教師でしたので…。)また偶然、クラスメイトとの揉め事が何件も重なって、クラスでも孤立したような状態でした。

そして、私は生まれて初めて不登校児になりました。
不登校中
情緒不安定になっている母に、

「学校に行きたくない」

なんて言っても許して貰えないだろうと判断した私は、ドアを閉める音だけをさせて家を出たように装って、部屋の押入れに隠れていました。

母は、朝の8時半には仕事に出るので(次の仕事を始めていました)、そのあとに家で自由にゲームをしたり、本を読んでいました。

担任の教師は頭のおかしい奴でしたし、私のことも嫌っていたので、休んでも一切連絡をしてきませんでした。

こっちとしては好都合だけれど、普通は学校にくるように家まで説得にきますよね?

母とも口を聞きたくなかったので、母の帰宅する時間帯には知り合いのゲーム屋に行って「マジック・ザ・ギャザリング」というカードゲームをして時間を潰すことが多くなっていきました。

でも、私は高校受験のことを忘れたわけではありませんでした。しかし、精神状態がまともではないときは勉強する為の頭が働かきません…。

そして、不登校期間が続いたせいで学校の勉強にもついて行けなくなっていました。

高校には行かないとマズイ、という気持ちはこの頃はまだありました。そこで、母に頭を下げて塾に通わせて貰えないかとお願いしたのです。

母は塾に通わせてくれると言いました。

そして、夏休みから塾に通うようになりました。学校には相変わらず行っていないけれど。


塾にて


自分から塾に行かせてくれといったものの、1学期の間ずっと不登校だった人間が「進学塾」の勉強についていけるはずがありませんでした。

授業内容も分からなければ、宿題の内容も何一つ分からない。

「分からなければ質問してこい」

と言われても、「全部分かりません」と言うしかなかったのですが、それだと勉強をサボっていると思われてしまっていました。

そうやって、勉強がどんどん嫌いになり、本当に勉強をサボるようになっていったのです。

塾長が他の支店に行かなければいけない曜日を把握し、だんだんとその日だけズル休みするようになっていきました。

私の住んでいた地域の周りの連中は小学生の頃から塾や、くもん式などに通っていて、中学生になってもしっかりと勉強し、部活をしながら塾にも通っているような連中ばかりです。

「塾の合宿」

なんかにも真面目に参加をしていました。

(塾の合宿は、3泊4日で、睡眠時間1日平均5時間で、トイレやご飯以外の時間は夜遅くまで勉強させられる、というものです。)

私は、勉強に対してそこまで労力を注ぐのは一種の宗教だと思っていました。

そんな状況ですから、周りの連中との差はどんどん広がっていきました。

当然、塾でも孤立していました。仲の悪い奴しか入塾していなかったのも一つの原因だったように思います。

元々は人見知りなどする性格ではないのですが、様々なことが重なり精神的にまいってしまい、

「対人恐怖症」

に、この頃は陥っていました。

当然、塾にも馴染めず、そればかりか足を引っ掛けるといった嫌がらせを受けていました。

でも、それに関しては塾長が間に入って止めてくれたので、そこはとても感謝をしています。

そんな塾でのストレス・家庭でのストレス・学校でのストレスが重なり、私自身も、腎臓病のほうではなく肝臓病になりました。

肝数値という肝臓の数値が、正常な状態ならば二桁を超えることは無いのに、私は1000という数字を叩きだしていました。

医師「このままだと入院です。でも、今までが正常だったので少し自宅療養で様子を見ましょう。」

医師からはこう言われました。

肝臓病だけに留まらず追随して、私も母と同じ、
「自律神経失調症」
にかかってしまいました。もうこの時点で高校受験は絶望的です。

「高校には行かずに働くか。」

そんなことを自暴自棄になり考えるようになっていきました。

そういう状態だったので、塾も学校も休み、自宅療養をすることになりました。

さすがに、私がここまで病気を抱えている間の母は優しかったです。
自宅療養中
自宅療養のおかげで、肝数値はすぐに下がり、入院はせずに済みました。

自律神経失調症も治まりました。

精神的にも落ち着いてきて、高校受験のことをまたちゃんと考えるようになってきました。

この頃から、どこの高校に行きたいのか考えるようになっていました。そういえばまだ、行きたい学校を決めていなかったよなって。
でも、この頃はまだどこへ行きたいのか決めることが出来ずにいました。

ですが、せっかく時間があるのだから、簡単なものから少しずつ勉強しよう。どこの高校へ行きたいと思っても大丈夫なように。

私は、歴史の年号暗記の語呂合わせを覚えることから始めました。

国語の成績を上げるには本を読むしか方法はないよなと思い、ブックオフで沢山の本を買って読むようになりました。

独学での勉強方法が知りたかったので、勉強法に関する本、精神的に自分は弱いと思い強くなる為に心理学の本、そして今の自分を変えたいという思いから自己啓発系の本、哲学書など、様々な本を読みました。

そして、勉強法の本に書いていた勉強法、

「色々な問題集を手当たり次第に解くようなことはするな。分厚い問題集・参考書は使うな。薄い問題集を何度も解いて、隅から隅まで出来るようにしろ。あとは行きたい学校や試験の過去問をひたすら解け。」

というのを参考にして、中学校3年間分の内容が薄くまとまった問題集を5教科分買って勉強を始めました。5教科が3年間分、1冊にまとまっている問題集もあったけれど、内容が薄すぎるのと解説が雑だったので購入しませんでした。

そうやって行動に移していくうちに、学校にもちゃんと行こう。そうしないと生活リズムが乱れるから。塾にも行こう。

そんな気持ちが湧いてきて、また元通りに学校に通うようになっていったのです。


学校にて


長い期間、学校に行っていないと、教室に入るのが不安になるものです。どういった反応をされるのだろうか、など色々と考えてしまいます。

嫌がらせをされるんじゃないか。悪口を言われるんじゃないか。

机の上に花瓶と花が一輪だけ置いていたりしてね。ははは…。

しかし、私の通っていた中学校の連中は私が思っているよりも優しい奴らでした。

「身体、大丈夫か?」

普段、あまり話したことのない連中が私に話しかけてきました。

私のことを嫌い、悪口を言っていた連中も私をのけものにしたりせずに、優しく接してくれました。

不登校になったことで、ストレスが溜まって荒れていたことをなんとなく察してくれたのかもしれません。

まぁ、せっかく話しかけてくれているのに、相変わらず対人恐怖が抜けていなかった私は、あまり上手く話す事が出来なかったけれど…。

担任の教師は相変わらず私には関心無し。久々に登校しても
声もかけてきませんでした。

そうやって普段の生活を取り戻していきました。


真面目に塾に通うようになって


学校が終わったあとは塾に通わなければなりません。塾に行くのにも不安があったけれど、塾は半分くらい他の学校の連中ですので、学校ほどは気にはなりませんでした。

久々に塾に行くと、早速、塾長に呼び出されました。

ずっと無断欠席をしていたこと、3年生にもなってカードゲームにハマっていたこと、家庭で母親と仲があまり良く無いことなどを聞かれ、怒られもしました。

けれど、勉強に集中できない原因として、塾でも嫌がらせをしてくる連中が数人いたこと。若い英語担当の講師が、私が質問に答えられないと知りながらワザとに質問をしてくることが苦痛だということ。

そういったことを塾長に話すと塾長はしっかりと対応してくれました。短気な塾長だったけれど、熱い先生でもありました。

おかげで、塾での勉強のやる気も出るようになってきて、人が変わったように勉強するようになっていきました。

塾長「勉強をするからには、行きたい学校をそろそろ決めておいたほうがいい。将来の夢なんかは無いのか?」

私「特にないです。」

私は冷めた返事をしました。

塾長「じゃあ、好きなことや興味のあることは?」

私「マラソンやゲーム、歌を歌うこと、パソコン、ロボット、カードゲームなどですかね。」

実は、行きたい高校についての情報を、カードゲームをする為によく通っていたゲーム屋で自分なりにある程度仕入れていました。

カードゲーム屋には、高校生や大学生、大人まで様々な年齢層の方々がいました。

そこのカードゲーム屋にはよく、

「工業高等専門学校」

いわゆる「高専」(5年制の高校で数学やコンピューター・機械関係の勉強が中心。卒業は短期大学卒扱いになる。就職率も高い。)という学校に通っている人がいて、様々な話をしてくれました。

入るのに物凄く勉強しないといけないし、学校の勉強も大変。だけど、私服で通っていいし、バイトもしていい。ゲームも授業中でなければ、放課後などにしてもいい。ゲームの持ち込みも、もちろん大丈夫。

こういった話をしてくれていて、私の好きなゲームやパソコン関連の専門的な勉強が出来る。

この頃から、私は漠然とコンピュータープログラマーなどに興味が湧いていました。
(これを聞いたときは、そんな学校が世の中に存在するものなのかと、とても驚いたものです。)

この頃は今よりも人手不足だったプログラマー業界(今でも十分人手不足ですが)。パソコン自体がまだあまり普及していなかった時代です。

そんな時代でも、うちの母はパソコンや、ロボットの工作キットなどを買ってくれていました。

友人の中にも、親がプログラマーでパソコンが家に何台もあるような家もありました。

SOHO(ソーホー)という言葉が出だしたのもこの頃からです。

SOHOは、スモールオフィス・ホームオフィスの略です。「個人事業主」で、自宅を事務所代わりにして仕事をするという生活スタイルのことです。今で言う「ノマド」の先駆け的なものになるのかな。

プログラマーだと自宅で仕事をしている人も多い。

ゲームを作ってそれを有料販売して生活をしている人もいる。

そんな話も聞いていました。
(今みたいに、スマホなどは当然無いしインターネット自体もあまり普及していません。その代わりに、パソコン雑誌にゲームの無料体験版を掲載して、そこから有料販売に繋げるという販売スタイルでした。)

そんなに自由な世界がこの世の中に存在するものなのか、と中学生ながらに感激したものです。

自分の母親が働きすぎで精神状態がおかしくなっていたのもある程度感づいていた私は、漠然とこういったコンピューターの世界に憧れを抱くようになっていきました。

その為にはどうすればいいか。簡単なことじゃないか。

『高専に行こう』

私「塾長、俺、高専を受験しようと思います。」

私は自分から行きたい高校を塾長に伝えにいきました。。

塾長「そうか。確かに、お前の今言った好きなものが関係している学校だな。でもな、現実的な話をすると、お前は学校をずっと休んでいたし、内申点(通知表の点数)も3年時は低い。テストも物凄く難しい学校だし、例えテストの点数が良くても他の面で厳しいと思うぞ。」

思った通りの答えでした。しかし、塾長はこう続けたのです。

塾長「でも、高専は国立高校になる。高校受験は、私立、国立、公立は別々の日程に行われるから、例え高専に落ちたとしても授業料の安い公立高校に行くことは可能だ。だから、受験してみたらどうだ?」

塾長は私の家が裕福でないのを知っています。だから私立には行かせたくないという思いが強かったのだと思います。その点も考慮して、高専受験を後押ししてくれました。

こうして、私の志望校は『工業高等専門学校』に決まりました。

そして、高校受験のラストスパートの時期である冬休み、そして受験を迎えることとなりました。


塾の冬期合宿


冬休みに入り、受験勉強の過酷さは増していきました。でも、

「工業高等専門学校(高専)」という超が付くほど難しい学校を、今まで不登校だった人間が目指しだしたんだ。こんなところで諦めるわけにはいかない。」

私はやる気に満ちていました。

「高専」を受験することを決めた日から、私は人が変わったように勉強するようになったのです。

学校の授業は、高校受験と関係の無い内容、高校受験にあまり出ないような部分までやる。これはかなり非効率です。

そこで私は、かなり無茶苦茶な勉強方法を行うようになっていきました。

学校では「受験に関係なさそうだな」と思った授業では爆睡。関係のありそうな部分だけ授業を真面目に受けていました。

学校が終わってからは、私より不登校が激しかった(おそらくなんらかの発達障害を持っている)「内村」に塾が始まる時間まで勉強を教えに行っていました。

自分もまともに勉強が出来ていないのに人に教えるなんて馬鹿げているでしょう? でも、私は中学校1・2年生の頃の成績はそれなりに良く、ちゃんと勉強もしていた為、その辺りの基礎くらいなら教えることが出来たのです。

「内村」はどこの高校へも入学出来そうにありませんでした。入れたとしても多分授業についていけない。それどころか、そのままニート(当時はこんな言葉はありませんでしたけど。)にでもなりそうな奴です。

私はせめて「内村」が高校生活を送ることが出来るレベルにはしてやりたかったから、勉強を教えに行っていました。

「内村」は”超”が付くほど変わり者・オタクで学校の中では気持ち悪がられていて、あまり友達がいませんでした。でも、私は不登校だったそいつをほっておけなくて、2年生で初めてクラスが同じになった頃、自分からそいつの家に遊びに行っていました。

漫画やゲームにとても詳しい「内村」と私の相性は意外にも良かったのです。

私はオタクにもヤンキーにも偏見を持たないように昔からしていました。私の性格は激しい部分があるから一部の人間からは嫌われていたけれど、学校でイジメ被害に遭い嫌われているような奴、気の弱い・優しい奴には何故か好かれることが多かったように思います。

「内村」も例外ではなく、私のおかげではないかもしれないけれど、私と仲良くなった2年生の頃はよく学校へ来ていました。

3年生の頃は、私がクラスで嫌われ者になっていたから、休み時間は隣のクラスに「内村」や2年生の頃に仲良くなって内村とも打ち解けてくれていた友達らのところへ行くようになっていました。

「内村」を救ったようで、私が救われたような部分もあります。

そんな「内村」をほっとけなかったのです。そんな理由から、勉強を教えに行っていました。

遅刻や学校を休むことが多いと高校入学にも響くから、私は毎朝、「内村」を迎えにいっていました。私の家から内村の家まで、片道30分はかかるのだけれど。

「内村」がなかなか学校へ行く準備をしないので、私まで遅刻をして教師に怒られることも多かったです。でも、私にとっては目の前の友達が大切でした。

受験勉強などが原因で盲目になりすぎていたのかもしれません。

そして、塾の時間になると塾の授業を受けていました。

私がそうやって同級生の勉強を教えていることを、何かのきっかけで塾長に話すことがありました。

塾長には、

「受験は周り全員がライバルだ。お前は人のことを構うべきではない。自分の勉強だけを頑張れ。」

と散々言われたけれど、それが正論だと分かっていながら、おせっかいな性格の私は「内村」に勉強を教えに行くことを辞めませんでした。

私は、人に頼られたかったのかもしれません。

塾が終わるのは夜の23時。

そこから家に帰ってご飯を食べて、就寝…はしませんでした。
そのまま朝まで勉強していたのです。

暖房を点けると眠くなるだろうから、点けずにコートを着て寒い部屋の中で勉強。

頭にハチマキをすると集中力がアップする、と何かの本に書いていたので実行(本当なのか、未だに真偽不明。)

濃い緑茶を入れて(カフェインが多いから)眠気を覚ましながら勉強。時には栄養ドリンクも飲んで。

夜食はカロリーメイト(フルーツ味)。チロルチョコ。お茶漬け。
そして、朝日が昇ると「内村」を迎えにいって学校へ通っていました。

学校では受験に関係のなさそうな授業で爆睡。この時間が私にとっての睡眠時間でした。

しかし、その様な生活をいつまでも続けられるはずはありませんでした。
無茶がたたって
こんな無茶な勉強をして、精神状態を正常に保てるわけがありません。

出した宿題をしてこない、自分から勉強を教えて欲しいと言ってきたのに勉強をしない。

私が勝手におせっかいしているにも関わらず、「内村」の一向に改善されないこのような態度に私はだんだんと腹を立てるようになっていきました。

そして私が熱くなればなるほど、「内村」は私を避けるようになっていきました。

「俺のことはほっといてくれ。」

そう言いたかったのかもしれません。口には出さなかったけれど。

結局、「内野」は勉強すること自体から完全に逃げ出し、私を完全に避けるようになっていきました。だから、私も自分の勉強だけに専念するようにしました。

しかし、この無茶な勉強のやり方は、内野の相手をしなくなった時間の分、激しさを増していったのです。

内野に割いていた時間を全部、勉強時間に回しました。だから、1日何時間勉強したかなんて全く覚えていません。学校や塾の時間も含めて、毎日18時間~20時間くらいはしていたのではないでしょうか。

当然、睡眠不足は「腎臓」にも良くないです。腎臓だけでなく、精神にも異常をきたす可能性があるし、記憶の定着も悪くなるので効率が悪い。

しかし、私は受験に対して焦りがありました。焦って、自分ではむちゃくちゃな勉強をしていると全く感じることが出来なくなっていました。

「あんなものにカネを払って参加するなんて、新興宗教の信者だろ。」

そんなことを思っていた塾の合宿。でも、そんな「新興宗教」のような勉強のやり方を行うようになっていました。でも、塾の合宿ならこの勉強のやり方に加え、勉強を教えてくれる先生まで付いている。

そしてw最後の冬休みに、また合宿がある。

『参加しよう』

母にお願いしてこの合宿参加の為のお金を出してもらい、合宿に参加することにしました。
(この頃、母は仕事を辞め、パートなどで食いつないでいた為、かなり無理をしたんじゃないかと思う。)

合宿明けの模試


1月の冬休みの最後の日、塾での最後の模試が開催された。
前回の模試(11月)の偏差値は45。(真ん中が50)工業高等専門学校(高専)に行くのに必要な偏差値は65。

さすがに2ヶ月でこの数字を超えるのは無理だろう。でもせめて、50後半くらいは取っておかないと絶望的だ。なにせ、高専の受験は国立高校受験。2月の終わり頃にはもう本番だ。
ちなみに、
・私立 2月頭~半ば
・国立 2月終わり
・公立 3月初め
という受験スケジュールになっている。

泣いても笑っても国立受験前の模試はこれで最後。

ここで良い結果を出しておかないと、今後のやる気にも響く。

ある程度の成績がとれたら、自分を褒めるんだ。絶対に満足の行く結果じゃなくても卑屈になるな。

I my me mine you your you yours he his him his she her her hers they their them theirs we our us ours it its it ken ken's ken ken's □ofA Aの□

大火で蘇我氏を蒸し殺す なんとビックリ平城京 鳴くようぐいす平安遷都 いい国鎌倉頼朝さん 鉄砲持って行こうよさあ 家康はヒーローさ いくいくベルサイユ条約

ぞ なむ や か こそ 係り結び

こんなことを心の中でブツブツ唱えていました。

そして、全ての教科でこうやってつぶやいていた内容を余白に、
書いた
書いた!
書いた!!
書いた!!!
書きまくった!!!! 
知っている限り全ての知識を余白に書きなぐったのです。
そして問題を、
解いた
解いた!
解いた!!
解いた!!!
解きまくった!!!!
合宿で習ったルールを守りながら、思うがままにひたすらに問題を解きました。

時には余白に書いた、公式、語呂合わせ、単語などを見ながら一心不乱に問題をときまくりました。

もう
「解きまくった」
以外に言い様がない。とにかく問題をひたすらに解きまくったのです。
後日
模試の結果発表です。

バーン!!

私は成績用紙を開きました。

すぐに目に入ったのが、

『英語 59点(60点満点)』

ほんの少し凡ミスをしただけでほぼ満点でした。

『英語偏差値 65』(※くらいだったような気がします…。)

今回の英語の問題は比較的簡単だったのか、思ったほど点数の割に偏差値は高くなかった。けれど、私にとっては十分すぎる程、良い成績でした。

私は涙が出そうになったのをグッと堪えていました。

『総合偏差値59』

合宿ではあまりやらず、そして一番苦手な社会が少し足を引っ張ったけれど、自分にとっては満足の行く結果でした。

この成績なら、油断しなければ「高専」合格に届くかもしれない。このまましっかりと勉強を続ければ。

この時、初めて塾の壁に私の名前の書いた紙が貼られましたた。

そして、私は受験本番を迎えこととなります。
『高専』受験本番
私立受験は無難に合格しました。そこそこ有名な進学校と適当に受けた高校、両方とも合格していました。高専受験が近かったし、高専に落ちたら高校には進学しないでおこうと思っていたので、特に対策もせずに。

高専受験の対策は、とにかく高専の過去問に絞ってやり込みました。普通にやっても間に合わないだろうと踏んだ私は、「答えを丸暗記」する勢いで勉強をしました。理解するようなやり方ではなく。

答えの丸暗記でも、パターンさえ覚えれば高得点を取ることは可能です。

そう思い、過去問のパターン分析をしつつ、残りの日数はひたすらに過去問をやりこみました。

そして、「高専」受験本番が始まったのです。

人生初めての家出


高専受験後、私は勉強に疲れて、公立高校受験まで少し勉強をお休みしていました。

この頃の睡眠時間は毎日のように3時間を切っていたので、精神的にもだいぶ追い詰められ、消耗していたからです。

そんな時、母が急に私をどなりつけました。

母「毎日なにやっているの!! 早く公立高校受験の勉強をしなさい!!」

先程も書いたように精神的にだいぶ追い詰められていた私は、この言葉がきっかけで、完全に精神崩壊してしまいました。

急に台所に行き、包丁を中で振り回しながら野菜を切る、という奇行に走り出しました。

そして、窓ガラスを拳で叩き割りました。

バリーンッ!!

という音と共に窓ガラスは割れ、私の拳はガラスの破片が刺さり血だらけになりました。

その光景を目にした母は、すぐに親戚に連絡をして呼び出しました。

私は、その親戚たちから逃げる為、そのまま、その場から逃走したのです。

団地の5階にある我が家を飛び出し、1階の自転車置き場まで階段をジユンプしながら勢いよくショートカットして降りて、そのまま自転車の鍵をこじ開け、自転車に乗って深夜の団地を飛び出しました。

初めての家出。

私の拳は血を流していたけれど、心は開放感でいっぱいでした。
「ああ、逃げるって悪いことじゃないんだ。なんで最初から逃げ出さなかったんだろう。

「受験」なんていうストレスの塊から。」

そんなことを思いながら走り出していました。でも、さすがにガラスを殴り割った拳の傷が気になったので、途中で救急病院に寄って、「保険証とお金は後日持ってくる」という約束の元、治療をしてもらいました。

10針ほど縫い、包帯で巻くだけで済みました。血の流れの割にはそこまで大きな怪我ではありませんでした。

そして、病院を後にして、親が警察に連絡を入れていることを警戒し、車の通ることのできない山道に向かって自転車を漕ぎ出しました。

山道の途中に自衛隊の基地があり、危うく侵入しそうになるものの、見張りの自衛隊員に止められ、その場を後にしました。
そこの山の頂上付近には展望台と公園が広がっています。

誰もいない深夜、独り広大な公園の広場のベンチでたたずみながら、様々なことを考えていました。

高専の結果どうなったかな。
落ちたら、公立高校の受験はどうしよう。
受験なんて無くなってしまえばいいのに。
高校には行かずに働こうかな。
真冬にこの格好(上半身はトレーナー一枚と下半身はジャージ)は寒いな。
お腹すいた。

などなど、本能に忠実に思考を巡らせていました。

広大な公園に独り、ここは今だけは私のものだ。何をするのも自由。誰かに指図されることもない。犯罪のようなことを起こさない限り、何をやってもいい。

取り敢えず、寒いから走るか。

そうして私はランニングを始めました。

束の間の自由。

でも、そんな「束の間」が自分のとっては最高の時間でした。
家で暴れて精神的に疲れ、長距離を自電車で移動し、ランニングをして体力的に疲れ、私はその公園から移動する気力と体力が無くなっていました。

今夜はここで過ごそう。朝になって、それから今後のことは考えよう。
そう思い、寒さを凌ぐ為に公園に落ちていたダンボールを持って、展望台の一番下の屋根のある場所で、ダンボールを布団替わりに寝ることにしました。

そこに猫が1匹やってきました。

「お前は自由でいいよな。」

そんな言葉を猫にかけ、そのままそこで一夜を過ごしたのです。


夜が明けて


朝起きると、外で寝ていた為に身体の節々に痛みが走りました。

ホームレスの人達は凄いな。こんな寝方を毎日しているのだから。
ホームレス初日の人は、きっと私のような感覚なのだろう。私はホームレスには向いていない。

自分の今まで経験したことのない「ホームレス」という人達について考えてみました。まぁ、ただそれだけのことしか考えていないのですが…。

自由な行動をとって、運動をして、そして寝たことによって頭がスッキリしたのか、

「家に帰ろう」

そういう気持ちが沸いて、家に帰ることにしました。なんだかんだいって、ちゃんと屋根も壁もある家に住めるというだけで、人間は幸せなのだから。

そう思い直す、良いきっかけになりました。
そしてまた、自転車を漕ぎ出したのです。


帰宅後


家に帰っても、相変わらず母とは口をききませんでした。

「自由」を経験してからというもの、今までバカみたいに勉強をしていたのに、全く勉強のやる気が出なくなっていました。

これが燃え尽き症候群ってやつなのかな。

今まで経験をしたことのない感覚に、私は少し戸惑っていました。
カードゲームのカードを触り、テレビゲームを部屋にこもってプレイする。

そんな毎日を送っていました。学校にも行かずに。

ご飯は食卓に母が用意してくれていたので、それを勝手に温めて食べていました。

気が向いた時には外に出てランニング。カードゲームの対戦相手が欲しい時には、カードゲーム屋にいって対戦相手をさがし、プレイしていました。

そこのカードゲーム屋の仲の良い高校生の人達とカラオケでオール。(夜中から朝まで歌うコース)そして、その朝には近所のファミリーレストランでの食事。

自由で楽しい気持ちなのだけれど、どこか虚しさが心の中を漂っていました。

そんな時間を過ごしているうちに、高専の合格発表の日がやってきたのです。


高専の合格発表 当日


公立高校の受験が残っていますが、私にとってはこれが入試の本番です。無事に合格していたら、今までの怠惰な生活も許されるし、不登校児なっていた時間も無駄じゃなくなる。

母との関係も元に戻るかもしれない。

でも不合格だったら、その後はどうしよう。普通の高校になんて行く気が起きない。私はパソコンや機械を触りたい。ゲームをしていたい。ましてや公立高校に落ちて、今、合格している滑り止めの私立の進学校になんて行ったら最悪だ。好きでもない分野の勉強を、ただただ大学に行く為だけにする毎日を送ることになる。そんなの嫌だ。

そんな「期待」と「不安」で心の中は一杯でした。
自分の受験票の番号を確認する。

自分の番号が合格者欄にあるかの確認作業。私立高校受験の時にも見た光景だ。でも、あの時とは決定的に違う。

「滑り止め」か「本命」かでこんなにも気持ちは違うものなんだな。

初めて、テレビで今までよく見ていた「大学受験生」の合格発表時の気持ちが分かったような気がしました。

さあ、自分の番号を探そう。

私の番号は「334」 さみしー、なんてな。私のいつもの気持ちを表しているような数字です。
320
321
322
だんだんと私の数字に近づいてくる。
325
327
328
331
あと少しで私の番号だ。
見たくないけれど、見ないと先へ進むことは出来ない。
332
333
さあ、どうだっ!!












335
そこに、私の数字はありませんでした。

結果は「不合格」

そりゃそうか。不登校児が、11月から受験勉強を始めたような奴が受かるほど甘い試験じゃない。

自分の数字を見落としたんじゃないか、そう思って見直してみましたたが、やっぱり無い。

これは夢じゃない。現実だ。

自分の数字が無いことを、なかなか受け入れることが出来ませんでした。

急に「現実」という「刃物」が私の心臓に突き刺さって、その場から動くことが出来なくなりました。本当に、そのまま死んでしまうのではないか、という気持ちでした。しかし、受け入れないといけない現実。

当然、そんな状態で公立高校の受験なんてまともに受けることなんて出来るはずがありません。

受かって当然だと、ちゃんと勉強をしているときには思っていた公立高校の受験も「不合格」でした。

私は、そのまま卒業式まで中学校には全くいきませんでした。
高校にも行かずにそのままアルバイトでもしようかと、自暴自棄になり本気で考えていたのですが、一緒にカラオケをしていた高校生の一人がこういう言葉をかけてくれたのです。

「高校入試なんて人生の通過点に過ぎない。不合格だったのなら、大学入試で挽回すればいい。」

その言葉を聞いて、私は高校に行くことにしました。

そうだ、この経験をバネにして、高校で頑張ればいいんだ。
私は、一緒にカードゲームやカラオケに行っていた高校生達のおかげで、前向きになることが出来ました。

しかし、今までの無理が私の持病を抱えている臓器、「腎臓」に負担をかけていないわけがありませんでした。

そして、私は私立の進学校の「高校生」になったのです。


高校入学とイジメ


色々と波乱だらけだった高校受験も終わり、自分の望まない学校へ入学することになりました。

ただ、高校に入学したら、「対人恐怖症」は治そう。自分から色々な人に話しかけて友達を沢山作ろう。そう考えていた。

本当に対人恐怖症を治すことは出来るだろうか?

高校生活を上手く送ることは出来るだろうか。
また不登校になったりしないだろうか。

色々な不安が頭をよぎったけれど、考えていても仕方がない。

私は勇気を出して高校へと向かった。


高校の教室にて


私の通うことになった学校は仏教系の私立の進学校で、入学式の行われた大聖堂? には何故か巨大な黄金の仏像が祀られて(まつられて)いた。ちょっと私には理解不能な環境だった。

入学式も無事に終わり、教室に入ると、そこには「葬式」などで使うような地味な「数珠」が人数分置かれていた。

これを常に持って歩き、朝の挨拶と時には手に持って大聖堂の仏像様に向かって毎朝、挨拶をしなければならないという説明を教師から受けた。ますます理解不能だ。

本当に大丈夫だろうかこの学校は…。

私の不安は入学の手続きが進行するに連れて大きくなっていった。

しかし、そんな不安を他所に、私の前の席の生徒が声をかけてきた。

「お前、築山塾に通ってなかった? 確か、冬の合宿で見たことがあるような気がするんだけど気のせいか?」

私は冬の合宿ではそいつと関わりはほとんどなかったのだけれど、どうやら合宿で同じクラスだったらしい。私は覚えていなかったけれど、そいつは私のことを覚えてくれていた。名前は、渕上。

そして、

渕上「もう一人、合宿で同じクラスだった奴がこのクラスにいるぞ。安西って言うんだけどな。ちょっとそいつのところへ行ってみないか?」

そんな話をしながら、安西の元へ行ってみることになった。

そして、安西も元へ行って当時のことを思い出しながら3人で思い出話をしていた。

すると、私ら3人の姿が楽しそうに見えたのか、入学したばかりで友達のまだいないクラスメイトの一部が私たちに話しかけてきて、仲良くなることが出来た。

築山塾に通っていたおかげ、そして声をかけてくれた渕上や安西のおかげで、高校生活の出だしは好調かに思えたが…。


安西との自転車ツーリング


安西と会話をしている中で、安西は自転車が大好きだということを言っていた。私も自転車は好きだ。ランニングに通ずるところがあるし、色々な景色をみながらツーリングをするのはとても気分が晴れやかになります。

そんな話をしていたら安西が、

安西「じゃあ、今度の日曜日に自転車でツーリングに行こうよ!」

と提案してきました。

私は、話が盛り上がったとはいえ、対人恐怖症が完全に抜けたわけではありません。クラスメイトになったばかりの奴と二人だけでツーリングに行くのには不安がありました。

話が途中で途切れたりして空気が悪くならないだろうか。など。

でも、「そんな自分」を変えると決意したんだ。

私はその提案を呑むことにしました。

しかし、そんな不安など感じる必要は全くありませんでした。

安西はちょっと変わった奴だったけれど、自転車に詳しいだけでなく、ツーリングスポットにまで詳しく、私をリードして色々な場所へと連れて行ってくれました。

山道。
小川。
滝。
海。

様々な場所へと連れて行ってくれました。

そして、二人で将来の「夢」を語りました。

安西「俺は自転車が好きだけど、車やバイクにも興味がある。将来は整備士か、出来ればレーサーになりたい。」

安西は熱く語りました。

レーサーというと、ただの夢物語のように聞こえるけれど、安西は実際に下りの山道ではプロ顔負けのドリフト走行を自転車でやってのけていました。
そして、自転車や車、バイクに対する情熱、知識も凄い。

私はそんな安西が輝いて、そしてカッコよく見えました。

見た目は地味目な、クラスの中にいても特に目立たないような奴。でも、そんな奴でも「夢」を持っていて努力している奴はとてもカッコイイ。

私は安西のことをとても気に入りました。こいつとなら仲良くやっていけそうだ、と。

そこで、私はこんな話をしてみました。

私「俺には夢が無い。だから夢のある安西が羨ましいし、お前、カッコイイよ。でも、俺にも好きなものはある。パソコンやロボットだ。安西が自転車の改造が出来るように、俺もパソコンに対する知識をもっと付けて、将来の夢でも持つことが出来たらいいな。なんだかお前からやる気を貰うことが出来たよ。本当にありがとう。」

最初は不安だったツーリング。でも、私はこいつと仲良くなれただけでもツーリングに行った価値は十分にあったと思えました。

そしてなにより、色々な景色を見ることで、病んだ自分の心を癒すことも出来て、楽しかった。そう、純粋に楽しかったのです。

私の高校生活は順調に進むかのように思えました。しかし、そんな私の高校生活に水を差す、いや、水を「刺す」様な出来事が起こりました。


母からの入学祝いの「腕時計」の破壊


入学して数日経った頃の体育の時間にその事件は起こりました。

私の通っていた学校では腕時計や定期券、財布などの貴重品は「貴重品係」に預けるというシステムになっていました。盗まれたりしないようにする為です。

それなのに、私の預けていた腕時計が破壊されていました。

誰がやったんだ!!

その腕時計は私の母が入学祝いに買ってくれたとても大切なものです。せめて財布が盗まれていたのならまだ許せていた。でも、時計だけは許すことが出来ませんでした。

しかも入学したばかりでの出来事です。誰かに恨まれるようなことをしたはずがない。何故、私の時計なんだ?

全く理解不能でした。

私は、担任の女教師に直訴した。しかし、その女教師は空返事で、

「じゃあ、帰りにクラスで話し合いでもしてみましょうかね~。」

と、やる気の無い言葉を発するだけでした。どうも、教師という職業に対するやる気の無い担任にあたってしまったようです。こんな教師主導ではなんの成果も得ることが出来ないでしょう。

私はそう確信していました。

担任「今日、山本君の腕時計が壊されました。きっと名乗れと言っても名乗るはずがないから、クラス費で弁償したいと思いますが、みなさんどう思いますか?」

担任からのこの提案に対して、クラスで一番金持ちの有名な産婦人科医の息子とその取り巻きが騒ぎ出しました。

その産婦人科医の息子の名は「井町」。

クラスを仕切っている、元柔道部員のガタイのいい奴です。

その取り巻き連中も、歯科医の息子、坊さんの息子、社長令嬢など金持ちばかりです。

そう、この教室の中は、いわゆる「スクールカースト」のようなものが入学当初から出来上がっていました。しかも、その階級制度は、

・富裕層 (上位)
・中流~貧困層 (下位)

という風に、完全に「資本」によって分けられていました。当然、私は貧困層ですので下位グループです。勉強では全く負けないのに。

井町「誰かが壊したなんて証拠はありませ~ん! 勝手に壊れただけかもしれないですよね~。だから、クラス費で弁償する必要なんて無いと思いま~す!」

取り巻き「そう思いま~す!」

勝手に壊れるはずなどありません。どうみても、人為的に壊されている。しかし、やる気の無い担任は、

担任「クラスの意見がこうだから、弁償することは出来ない。ごめんなさいね。」

といって、そそくさと教室から出て行きました。

そうやって、話し合い? は、いとも簡単に終わってしまいました。

ただ、罪悪感にかられた下位層のメンバーの一人が私に密告をしてきました。

「本当は、山本を狙ったんじゃない。井町が中学の頃からイジメている奴がいて、そいつの時計だと思って壊したんだ。貴重品係を脅してね。俺も見ていたけれど、止める勇気がなかった。ごめん。俺がこのことを話したってことは黙っていて欲しい。」

そういう奴もいた為、私はそいつの為にも仕方なく泣き寝入りすることにしました。

しかし、この事件はクラスメイトに対して不信感を強めることとなったのです。


頻繁な「イジメ」


事件はこれだけでは終わりませんでした。

私が泣き寝入りする奴だと分かった途端、イジメのターゲットは私に変わっていきました。

私は腎臓病のこともあって、午前中は病院に行き、午後から授業を受けることも多かったのですが、そういったところも気に入らなかったようです。

髪の色も生まれつき茶色いということもあって、目をつけやすかったのでしょう。実際、入学してすぐにも上級生から絡まれたりして、殴り合いになりそうになったこともありましたし。

(私は高校生になったら、人に対して手を挙げたりしない、と心に決めていたので手は出しませんでしたが。)

・定期券
・財布
・新しく買い直した時計

何かある度に壊され、盗まれるようになっていました。

犯人は井町達だというのは、また密告で分かっていました。でも、クラスの連中の大半は中流~貧困層だ。井町達に逆らうことが出来ません。

教師も同じです。

私立の教師だから、公務員じゃない。クビになりたくないから、どいつもこいつも保守的で、この事件に関しては見て見ぬふりです。

担任は特にその傾向が強かった。

こんな理不尽な仕打ちに、私はだんだんと心身ともに消耗していきました。
そして私は、また不登校になりました。

一つ救いがあるとすれば、一つ上の先輩に「恋」をしていたことくらいです。


高校での恋愛


私は高校に入っても特にやりたいことが無く(本当は陸上がやりたかったのだけれど、運動部というもの自体が殆ど存在しない学校だった。)ちょっと芸能的なものに憧れもあってか適当に演劇部に所属しました。

学校はただでさえ元女子高で女子の割合が多いのに、演劇部なんて本当に女子のたまり場でしかない。女子の割合が圧倒的に高い部活です。

人間不信に加えて女性不信だった私はその環境に最初はとても躊躇しました。それでも、よく世話をしてくれる先輩方に囲まれて、その部活動をやっていこうと決心しました。

その中にいた一人の先輩。河野先輩。

顔は女優の田中麗奈似で特別に美人というわけではないけれど(田中麗奈に失礼かな 笑)成績はいつも学年トップクラスの成績優秀者。バレエにピアノをこなし、走るのも速く運動神経抜群。医師と英語教員の娘。背も女性にしては比較的高い方だったのでモデルの仕事もしたことがあったそうです。

絵に書いたようなお嬢様…に思えたのですが、実は父親が借金の連帯保証人になっていた為、そのことが原因で中学生くらいの頃に離婚をしていました。絵に書いたようなお嬢様生活から一転、母子家庭のプチ貧乏生活へと陥っていました。
(それでも、ニュージーランドにホームステイするくらいの金銭的な余裕はあったみたいだけれど。)

そんな彼女の魅力に私は次第に惹かれていきました。しかし、その先輩には彼氏がいました。

それでも若かった私はその程度のことで諦めるようなことはしませんでした。

時には河野先輩が彼氏と上手くいっていない時には、血の気盛んは私は彼氏を公園に呼び出し、

私「彼女を幸せに出来ないなら別れろ!!」

と迫ったり、彼氏のいないところで猛アプローチをしてストーカー扱いを受けたこともありました。

河野「もう二度と私の前に現れないで!!」

そう告げられて、もうこの恋は終わったはずでした。しかし、同じ部活の高津先輩が、

高津「私が仲裁に入ってあげるから、もう一度、話だけでもしてみたら?」

と言ってくれて、話し合いをすることになりました。そこで、私は、

私「今まで迷惑をかけてごめんなさい。もう二度とあなたの前には現れません。今までありがとうございました。」

といって、涙を流しながらその場(学校)から飛び出して行きました。

そして一人、学校近くの教師の宿舎辺りで一人うずくまって泣いていたところ、学校の中の私の知らない教師に、

教師「大丈夫か? 悩みがあるならなんでも聞くぞ? イジメとかじゃないよな?」

と声をかけられたのを覚えています。でも、私は

私「大丈夫です。」

といってその場を離れました。


家に帰って


家に帰り着くと、一通のメールが携帯に届いていました。河野先輩からです。

河野「もう二度と現れないなんてしなくていいから、これからも友達でいて下さい。」

という内容のメールでした。良かった。恋人になるのは無理かもしれないけれど、少なくとも先輩との縁が復活した。それもこれも、高津先輩のおかげです。
(この先輩には今でも本当に感謝しています。)

でも、もう河野先輩と付き合うのは無理だろう。
……な~んて諦める私ではありませんでした!

ここからの作戦はアプローチをかけるのを一切辞め、ひたすら耐えることにしました。河野先輩が彼氏と別れるまで。

時にはわざとに先輩を無視したり、先輩と彼氏が歩いている姿をみたらその場から分かりやすいように逃げ出したりしていました。

すると、河野先輩は少し私のことが気になるようになってきたのか、たまに彼氏の愚痴の電話やメールが私の携帯に入るようになってきていました。

もうこの頃から、彼氏とは上手くいっていなかったのかもしれません。


クリスマス


クリスマス前、ここに転機が訪れました。先輩とのメールや電話のやり取りから、先輩がクリスマスを彼氏と過ごす予定が無いことが分かったのです。そして、やはり上手く行っていないことも。

そこで、私はとてつもないバカな行動に出ました。今でも本当にバカだったと思います。若かったから出来たんだろうな、と。

クリスマスプレゼント(白いマフラー)と花束を抱えて、サンタクロースの格好をして河野先輩の家の近くまで自転車でクリスマスプレゼントを届けに行きました。ちなみに北九州から下関の山陰だから片道50キロくらいはあったんじゃないでしょうか。

高津先輩から家の住所を聞いて、家の玄関前にプレゼントと花束を置いて、

メールで

「玄関を開けてみてよ」

を一言メールを送ってその場を去りました。

しかし、

「ちょっと待て。今、家に誰もいないから少し上がっていきなよ。」

というメールが届き、河野先輩の家にあがることになりました。


はじめての河野先輩の家


初めてあがった河野先輩の家。先輩の匂い…はしなかったけれど、なんだかドキドキしたのを覚えています。

そこで二人きりになったところで、他愛もない会話をしていたのだけれど、次第にお互いの手を握りだしたり、ちょっとしたイチャイチャムードになりつつありました。

しかし、先輩はまだ彼氏と別れていない。正直、そのままキスでもしようと思ったのですが、そこは私の強すぎる理性が働いてストップをかけてしまいました。

しかし、そんなことをしていると、どうやら親が家に帰ってくる車の音がした、と先輩が言い出しました。私は急いで窓から脱出して、先輩の家を去りました。


元旦


元旦に河野先輩から連絡がありました。

河野「彼氏と別れた。」

そこですかさず私は、

私「じゃあ、俺と付き合って下さい!!」

と、これでもかと熱く詰め寄りました。しかし、先輩は別れたばかりだからまだ世間体的にも付き合うことは出来ないと言い出したので、私は、

私「内緒にしていていいから付き合ってくれ!!」

と男としての意地を見せました。

すると先輩は、

河野「幸せにしてくれますか…?」
私「幸せにするに決まってんだろ!!」

こうして二人は付き合うことになりました。私の生まれて初めての彼女でした。

河野先輩との恋愛は順調でした。見かけや肩書きによらずちょっと短気なところのある彼女だったし、付き合ってみるとワガママな部分が露呈たりもしていたけれど、学年が違うけれど、毎日教室に来て置き手紙をしてくれたりと、可愛いところのある先輩でした。

しかし、やはりそこは金持ちばかりのボンボン・お嬢様学校。

彼女は成績優秀、将来は弁護士になるとまで言っているような超が付くほどの優等生。志望大学は国立大学の法学部。

私はというと不登校児で学校の成績はそれなりによかったけれど、度々、上級生や同級生と喧嘩になったり、校則を守らないことで有名だったので、職員室では教師たちに嫌われていたし、彼女の親からもあまり好かれていませんでした。

度々、職員室に呼び出されては、

教師「河野と別れろ! この学校はそもそも恋愛禁止だ!!」

と教師から言われ続けてきたけれど、

私「恋愛なんてそこら中でやってるじゃないですか。取り締まるならほかの連中も取り締まれよこの能無し!!」

と教師に向かって反抗的な態度をいつもとっていました。

そんな中、事件が起きたのです。


不登校児の後輩と仲良くなって


私の通っていた学校は中高一貫の有名私立で、部活動も中学生と高校生が一緒になって行うような形式でした。当然、中学生の後輩なんかもいたわけです。

その後輩の中に不登校児がいました。

私自身も不登校児だったし、当時流行っていたマジック・ザ・ギャザリングというカードゲームをやる為に通っていたゲームショップでお互い常連客でもありました。

そんな後輩を自分と重ね合わせたのか、その後輩が学校に気やすくなるように度々、家に行っては

「たまには学校に顔出したらどうだ?」

とお節介を焼いていました。

その後輩の同級生と何故か私は仲が良かったのだけれど、特別に教室でいじめられているということもなく、むしろ女子からは人気のある後輩だったと周りの後輩たちからは聞いていました。

それでも家庭環境が荒れていたのか、出会い系サイトなどにハマってずっと不登校を続けていました。

そんな説得を続けていたらある日、事件が起きたのです。

その後輩の親が学校に、

「わざわざ家までやってきてうちの息子を虐めている高校生がいる。なんとか学校側で対処してくれ。」

と学校側に苦情が入っていたのです。当然、その高校生とは私のことです。
学校に通える手伝いをしようとしていただけなのに、いじ首謀者扱い。これは完全に冤罪でした。

そして、当然のように学校側から呼び出しをくらったのです。


狭い個室にて


呼び出された個室には、私の担任と学年主任、後輩の担任と学年主任、それと後輩の両親の計6人がそこには待ち構えていました。

私はというと、一人です。こういう時はこちらの親も呼ぶべきでしょう?

しかし、こちらの話は一切聞かず、勝手に私が後輩を虐めていると決めつけて、今後、後輩に近づくなと言ってきました。

私は後輩とはとても仲が良かったです。

私が恋愛で悩んでいる時も真剣に悩み相談に乗ってくれたのもこの後輩です。

そんな後輩に対してイジメなんて絶対にするはずがありませんでした。

そこで私は、

私「本人を呼んでくれ。本人に聞けば私がイジメをやっていないことが証明出来るはずだ。」

しかし後輩の両親は、息子は具合が悪いから話すことは出来ない。もう二度と息子に関わらないでくれ、といってこちらの言うことを聞きませんでした。

そこで私はブチギレて、

私「両親常に家にいない状態で、中学生に見合わない額の小遣いを渡して、挙句の果てに息子が出会い系サイトにハマっていることに気がついている癖に見て見ぬふり。息子が不登校なのはあなた方のせいだろ!! 人のせいにして責任転嫁してんじゃねえよ!!」

と言い放ちました。

すると、学年主任が一言、

学年主任「俺のメンツを潰すようなことを言いやがって。お前は退学だ。この学校から出て行け!!」

こうして6対1での攻防(1は私ですよ。)を繰り広げて、一方的に冤罪で学校を退学させられることになったのです。今までの行いも含めてだけどね。


彼女とのこと


話は少し遡りますが、優等生の彼女と問題児の私が付き合っていることは職員室内に広まっていました。彼女の親が連絡していたのです。

そんな不釣り合いな二人だから、何かにつけて教師に呼び出されては、別れろ! 別れろ! と言われ続けてきました。それでも絶対に私はそんな権力に屈さず、彼女を愛し続けました。

時には学校内でバレないようにキスしているところを見つかったこともありました。

しかし、私が学校を退学になるのと同時に、彼女が受験生ということもあり、彼女との恋愛も上手くいかなくなり、彼女と別れることになりました。

8ヶ月追いかけて手に入れた彼女、1年間ほど付き合っての別れでした。

私は、学校と彼女と仲の良い後輩の全てを失いました。

そして私は学校を退学することとなったのです。


最後の手続きで


最後に学校をやめる手続きがるのですが、その手続きには、さすがにうちの母親も同行してくれました。

そして、なんで話し合いの際に親である自分を呼ばなかったのか、と学年主任の教師を問い詰めましたが、何も答えませんでした。

最後に母は去り際に、

母「息子はこの屈辱を一生忘れません。一生あなた方を恨んで生きていくことでしょう。あなた方は生徒の将来を奪ったのです。強引な手口で。」

すると学年主任も最後に、

学年主任「学校外でなら話が出来る。学校内では立場がある。それを分かってくれ。」

自分を守るための回答しか出なかったことに私は唖然としました。

「教師って奴らはやっぱり腐ってんな。」

そんなことを思いながら。

しかし、これは新たなる人生のスタートでもあったのです。


高校を中退して


高校を中退してからは、学校に内緒でアルバイトしていたガソリンスタンドでフルタイム勤務させてもらうことになりました。

フルタイムで働きながら、通信制の土日しか学校のない、普段は自分でプリントをこなす形式の自由な学校へと編入しました。

服装も、アルバイトも自由。

色々な事情を抱え、高校生で働きながら一人暮らしをしているような子も多い学校でした。

授業形式は大学のような感じで、単位さえとれていれば全部の授業に出る必要のない、クラスも無い自由な校風の学校でした。

その分チャラ男や不良も多かったけれど、イジメなんかは普通の学校みたいに起こっていなかったように思います。

自由な分、みんなストレスを学校内で貯めていなかったからなのかもしれません。

イジメが一番多いのは私立の有名校だと私は思っています。実際、地元の私立の学校はどこも表向きは良い面をしているけれど、援助交際や妊娠騒動が耐えなかったのを私は知っているからです。

これが、新たな私の人生の始まりでした。私は高校を辞めたら今までの自分を変えようと思っていました。

対人恐怖症を克服し、ファッションにもっと磨きをかけ(髪型も服装も自由な学校だったので。)今まで馬鹿にしてきた奴らを見返そう。そう意気込んでいました。

マイナスな終わり方をした前回の学校。でも私にとってはプラスな出来事だったと思っています。

メガネ小僧だった私はメガネをコンタクトに変え、髪型はもともと茶色だったけれど明るめの茶色に変え、服装も当時流行っていたストリート系の有名ブランドを着るようになっていきました。

今まで禁止されてきたことを一気にやった感じです。しがらみから解き放たれ、最高の気分でした。

この頃に、タレント事務所にも所属しました。ちょうど、事務所が学校の近くだったということも幸いでした。

アクティブ博多という事務所です。

女優の橋本環奈ちゃんが福岡でアイドルをしていた時に所属していた事務所ですよ。私の所属していた頃はたぶんいなかったと思うけれど。

そんな形で新たな人生がスタートしました。何度も書くけれど、何もかもに解き放たれ、好きなことをやれる、最高の気分でした。

芸能事務所「アクティブ博多」


細かくいうと、私の所属事務所は、アクティブハカタではないのだけれど(舞夢プロ、という事務所でした。福山雅治の奥さん、吹石一恵さんの所属している事務所です。)、この事務と所アクティブ博多が提携していて福岡でのレッスンはアクティブで受けることになっていました。

アクティブ博多は橋本環奈ちゃんばかりが注目されてしまっているけど、実はこの事務所は福岡の事務所の中ではかなり可愛い子が多い、特に10代の子は可愛い子が多く所属していました。

あと、これ暴露していいのか分からないけど、芸能事務所やモデル事務所は男はいい加減でチャラい男が多いから、「事務所内での恋愛禁止」となっていましたが、恋愛はかなり盛んでした。

どんなブサイクな男でもモテる、彼女が出来るんじゃねえの、という、そんなレベルで恋愛ばかりが行われていました。

私は、「兵士1」という脇役でミュージカルに出たことがあったのですが、こういうミュージカルなどの練習はかなりハードで、練習中に泣き出す子は当たり前のようにいましたし、千秋楽(舞台の最終日)が終わると新しくカップルが何組も出来ていました。いや、それ以前にも練習中にカップルになる率も高かったです。

友達の間では「彼女が常にいないキャラ」で通っていた私でさえ、中学生に告白されたりしました。

当時、私は18歳だったけれど、さすがに中学生と付き合うわけにはいかないよなと思って断りましたけれどね。

でも、こういう事務所っていいことばかりではありません。

先に言っておくと、アクティブはローカル事務所にしては「芸能人」らしい活動をさせてくれて、CMなんかを営業でとってくる力もある事務所です。
私がレッスンを受けていた頃は、当時のベスト電器のCMに出ていた子が結構売れていて(私は実際に会ったことがないんですけどね)子役なんかでもCMをいっぱい抱えている子もそれなりにいました。

私は途中で別の事務所に移籍したのですが、そこの演技の先生もアクティブハカタ所属の方でした。

でも芸能界や演劇の世界は「チケットノルマ」がかなりキツく、私が出演したミュージカルのメインの役の子達はチケットノルマ50000円とかでした。一枚2500円で20枚。

正直、ローカルアイドル如きが全部捌けるわけもなく、親族関係や友達に買ってもらって、残りは自腹で払ったりしている子ばかりでした。

事務所の所属費用はそこまで高くありませんでした。一般的な事務所と同じレベルくらいだったと思います。
(ちなみに私の事務所は10万円でした。でも、これ業界では安い方なんですよ。)

レッスン料も週に1日2時間レッスンで月1万5千円くらいでした。

習い事レベルのレッスン料。これは2年間経てば払わなくてよくなるというシステムになっていました。

でも、事務所の宣伝用の写真代金に2万円くらいかかったり(定期的に撮り直しがある。その度にお金がかかる。)、途中で参加を誘われたミュージカルのチケットノルマが高かったり(参加は強制ではないんだけど、芸能活動の実績になるから、という謳い文句で参加してしまう人が多かった。)油断していると、どんどん金を払ってしまうというシステムなのは間違いありませんでした。


ブラックバイト就労と慢性腎不全


私が働いていたアルバイト先の人間関係はとても良好でした。

しかし、それが逆に私を社畜へと駆り立ててしまったのです。

私は店長(男)に人間的に惚れ込んでいた為、店長の為なら、会社の為なら何でもやる、という意気込みで働いていました。

例えば、未成年がクレジットカードの契約を顧客から取ることは違法です。しかし、上司の命令だったので私は違法だと分かっていたけれどクレジットカードの契約をバンバンとりました。

他にも、車のガソリンのタンク内には水がたまり、ガソリンと混ざって燃費が悪くなるので、それを抜く為の「水抜き剤」というものがあります。

その水抜き剤は本来なら、1本入れればよいのですが、店長の命令で毎回2本入れて金額を請求していました。よくクレームにならなかったな、と今になっては思います。

他にも、私は労働時間的に正社員と同じ時間働いていました。アルバイトの中で一番私が長い時間働いていました。

アルバイトリーダーも務めていて正社員と同じ仕事量をこなしていました。

そのような理由から私は、ガソリンスタンドで売っているタイヤや洗車料金、オイル、その他のカー用品に対して膨大なノルマを課せられていました。

アルバイトでそんなにノルマを課せられていたのは私くらいです。

でも、私は期待されていると思い込んで(実際に期待はされていたのでしょうけれど、利用されていたというところが大きいでしょうね。)そのノルマをこなす為に、様々な汚い手を使いました。

地域的にお金持ちが多かったので、常連の社長の名前や車を覚えて、その社長が来たら、例えばオイルだったら半年、または5000キロくらい走るまで交換しなくても大丈夫ですのですが、3000キロも走っていたら、

「オイル交換したほうがいいですよ!」

と声を掛け、オイル交換を促し、売上を上げていました。

その他に、主婦などは車のことをよく分かっていない。でも、車に対して不安はあるからちょっと車の悪くなっている箇所を指摘すれば商品を買ってくれる。

そういうことを未成年ながら接客・販売業を続けていくうちに分かっていったので、とにかく、

・お金持ちそうな人
・会社の社長
・主婦

をターゲットにカー用品の販売を行っていました。

そんな風にめちゃくちゃなやり方で売っていたけれど、ある程度節度をもって接しており、接客のやり方は上手かったということもあり、そういった面でクレームになったことは一度もありません。本当に今思うと奇跡です。

そして私は、アルバイト売り上げランキング九州地区2位という成績をおさめ、本社の課長から表彰されることになりました。

それもこれも、全て会社の為。店長に心酔していたが為に行っていた行為です。言い訳と言われればそれまでですが。

長時間毎日のように働いて、土日は通信制高校に通って高校生をしていたので、休みというものがほとんど無い生活を思春期の時代は送っていました。

そんな生活を行っていると、思考が停止して、物事をしっかりと考えることが出来なくなってくるのです。

仕事中は感情を殺して、とにかく売り上げをあげてノルマを達成させて、良い販売成績を残すことにしか考えが及ばないようになっていました。

もう、完全に洗脳されていたんですよね。

通信制高校は自分で自宅学習もしないといけません。その頃、路上ライブも仕事終わりに行っていて、路上ライブから帰宅して勉強を行っていました。(さすがに会社と家の往復だけだと精神的に持たないと思っていたので。)
そういった理由から、睡眠時間は1日3時間という短い時間で日々を過ごしていました。

私はロングスリーパー、長時間寝ないと身体が持たない体質ですので、そんなに短い睡眠時間で足りるはずがありません。当然、精神的にもやられていきました。

精神的におかしくなっていたので、酒に溺れるようになり、街中でヤンキー崩れのホストに絡まれては殴り合いの喧嘩をすることもありました。

ギャンブル(パチスロ)にものめり込み、借金をすることはなかったのですが(上手かったので)そうとうダメ人間な生活を送っていました。

そんな私をみかねて、離れていった友人も多くいます。
しかし、そんな生活も20歳を迎える頃には強制的に終わりを迎えることになります。

もともと持っていた慢性腎臓病が、無理がたたって悪化して、慢性腎不全となり、人工透析を導入しなくてはいけなくなったからです。

当然、今までのように身体を使う仕事は出来ないので、会社を辞めることになりました。

アルバイトだし、違法な働かせ方をしていたので当然、保険など加入させてもらっていません。ですので、労災扱いにもなりませんでした。

(源泉徴収のお願いをしたときも、それは出来ないと断られていました。今思うと、外部に違法に長時間、未成年を働かせていることがバレないようにしていたのでしょうね。)

元々、人工透析導入に将来的にはなると言われていましたが、20歳という若さで人工透析導入になってしまった理由は、明らかにブラックバイト先で無茶な働き方をしすぎたことが原因です。

そして、その仕事が原因で精神的におかしくなり、不摂生な生活を送るようになっていたからです。

いつものようにアツバイトをしていたある日、瞼がむくみ、腫れあがり、目が開かない状態になりました。

これは普通ではない。

そして高熱が出ていたにも関わらず、私が休むと仕事が回らなくなるという理由で病院にも行かせてもらえませんでした。

さすがにこのままでは死んでしまうと思い、私は休ませてもらえないアルバイトを無理やり休み、病院へ行きました。

すると、そこで診断された内容はインフルエンザと、

「慢性腎不全」

腎臓がもうすぐ死んでしまう、と。あと1年以内に人工透析導入になる、との診断でした。

この診断後も、私の家は貧乏家庭で高校の学費も自分で支払っていた、奨学金の支払いも残っていたのでカフェとホテル最上階のバーで掛け持ちのアルバイトをしていました。

仕事が終わるのは深夜三時など、かなり無理をして働いていた為、1年どころか、半年もせずに私は人工透析導入になしました。

こうして私は、1級身体障害者になったのです。


3年間の半寝たきり状態の生活


私は人工透析を導入してから、3年間ほど半寝たきり状態で生活をしていました。

担当医がヤブ医者で、私の身体に合わない人工透析の方法を行っていたことが原因です。

1日活動しては、次の日は1日中寝る、という生活を送っていたのです。

”半”寝たきり状態ですので、動けるときは外出なども出来たので引きこもりになることはなかったのですが、体調の悪いときに家にいても何もすることがない。

せめて、パソコンだけでも使い方や応用の仕方を覚えれば、将来何かしらの役に立つと思い、障害者になったころに入った一時金はそういったものに使いました。

生まれて初めて、インターネット回線の契約をしました。

そのインターネットを使ってどうにかしてお金を稼ぐことが出来ないか? 試行錯誤しました。

この頃に、アフィリエイトというものの存在も知って手を出してみたのですが結局、成果が出ず。

今までの趣味と実益を兼ねて、インターネットで情報を集めてパチスロで生活をするようになりました。

今でいう「ネオニート」みたいな感じ。無職だけれどお金は稼いでいる。

そんな状態でした。

自暴自棄になり、資格も学歴も無い私。それでも、家になんとかしてお金を入れないといけないという経済環境。

そんな時に思い出したことがありました。

趣味でパチスロを打っていた時代。そして、タレント事務所に所属していた時代に、同じ事務所の同期の方にプロのパチスロ打ちの方がいました。

その方とある日、コンビニのお弁当を食べながら外で話していた時に、どうやって稼いでいるのか少しばかり教えていただいたことがありました。

・本当に出すイベントだけを見極めて、イベントだけを狙って色々な店を回る。

・新規オープンのお店は最初の4日間は客寄せの為に出すから、それだけを狙って色々な店を回る。

というものでした。

特に、2番目の「新規オープン」狙いの効果が、趣味でパチスロを打っていた時代でも高い、と自分で実感していました。

そこでまず、パソコンを購入して、インターネット回線を繋ぎ、福岡市内のパチンコ屋の新規オープンの情報を載せているWEBサイトを見つけたり、2ちゃんねる(現5ちゃんねる)のパチスロ板でそういった情報を見つけて、車で福岡市内の新規オープンのみを狙って最初はパチスロでお金を稼いでいました。

そういった稼ぎ方を専門としているプロ集団などもいたりして、時には喧嘩を売られることもありました。危ない目に遭うこともありました。

仲良くなった人がヤクザさんだったこともあります。「パチプロ」「スロプロ」というと聞こえはいいかもしれませんが、組織に所属していないヤクザのような人が多かった印象です。

中には、ミュージシユンを目指しながらパチスロで生活している人がいたり、失業したサラリーマンが就職活動などの繋ぎの為にパチスロで生活していたりして、そういった人たちは人間的にも普通ですので、たまに仲良く食事に出かけたりしていました。

そうやって新規オープン狙いでお金を稼いでいましたが、新規オープンするお店の数には限界があります。そこで、私はパチスロのイベント狙いに切り替えました。

最初は、ニセのイベントが多く、本物の「出す」イベントを見つけるのに苦労しましたが、パチスロを打たずに色々なお店を1日中見て回ったりしてイベントを見極めていました。

繋ぎで、地元のパチスロだけで子供や奥さんを6人養っているプロの人の打ち子、ようはその人が打つ台を指定して、それを代わりに打つアルバイトなどをしながら、パチスロの世界について教えて貰いました。

時給は約1000円で13時間は打ちます。多く勝った日は13時間で2万円以上貰える日もありました。

幸い、私が打ち子をやっていたプロの人は良い人でちゃんとお金を毎回その日に支払ってくれていましたが、そういった仕事の詐欺が世の中には多く存在します。

中には違法なこと(ゴトなどと呼ばれています)をさせられるような仕事もあり、お金を支払ってくれないケースもあるようですので気をつけなければいけません。(というか、読者の方はこんな世界に足を踏み入れないで下さいね…。)

そうやって、パチスロの世界の仕組みを覚えていって、良いイベントや台を見極めることが出来るようになりました。

すると、人間の身体一つでは足りなくなるので、私も「打ち子」を雇うようになりました。

・打ち子を雇い、良いイベントを回って台を指定して打つ。

最終的にはこの繰り返しです。

そうやって、私は最高で月50万円の利益を達成しました。

パチスロの台は6段階の設定があり、1が最低6が最高となっていて、それぞれ大当たりの「確率」が違います。

お店側も、ずっと同じ台ばかりが出ていたり、逆に出ていなかったりするとマズイので、イベント時には、2・3日あまり回されていない(稼働していない)人気機種の台に高設定が入れられる傾向にありました。

そういったお店ごとの「癖」を見抜くこともパチスロのプロとして生活していく上では大切でした。

夕方からは、単純に確率の計算。回転数÷大当たり数で確率を調べ、なるべく設定6に近い台の空きを待って打っていました。

座っている人が若者なら諦め、年寄りなら巡回しながら背後を、席が空くのを狙っていました。完全にハイエナです。ですので、必然と年寄りの多い地域や年寄りの好む人気台。機種名でいうとジャグラーという機種をよく打っていました。

田舎の方に行くと、そういった台の全台6イベントなどもやっていて、そういうお店を打ち子を連れて回ることも多かったです。

しかし、そういった生活をしていると、パチスロなどは良い台を見つけるまでが仕事で打つのはダルイ「作業」になります。毎日同じことの繰り返しで面白くありませんし、パチスロ打ちは世間体も悪いアウトローな生活者です。

そういう生活が嫌で、私はパチスロを打つのを辞めて、パチスロで稼いだお金は貯金していたので、そのお金でまずパソコンの学校に通いました。まだ、半寝たきり状態から開放されてはいなかったのですが…。

それ以外にも、法律や簿記も独学で勉強しました。簿記に関しては日商簿記2級という資格を取得しました。

その他、日本語の語彙力を付けつる為に、漢字の熟語集を暗記したり、英語の単語暗記、「シャドウィング」や「サイトシーイング」といった手法も取り入れて勉強をするようになりました。

『普通に高校に通って、大学に通い、就職をする。』

という”レール”からは外れてしまったので、勉強なんて必要ないだろうという気持ちもあり、まだ健常者? だった頃は勉強をあまりしていませんでしたが、身体が悪くなって、重度身体障害者になって思い通りに身体が動かない以上、「頭」を使って生きていくしかないという「焦り」もあり、がむしゃらに勉強をしました。

元々、それなりに勉強の出来た方ですが、さすがに高校を辞めて(入り直して卒業をしてはいますが。)一般的な人が高校で勉強をしている間、仕事で車をいじっていたような人間は、その一般的な人達より学力は低下してしまっていたのではないかな、と思いますが、今は、そのへんの大卒よりは、

「多種多様な経験をしてきた」

という部分も含めて、色々な知識が負けずにあり、そして自分自身の人生を自分で切り開いてきたので、

「行動力」

があると思っています。
(でも、大学に入りなおせるのなら入りたいという気持ちはいまでもあります。)

そうやって、パチスロのプロとしての生活から足を洗いました。


優秀な新人医師との出逢い


人工透析患者は普通に生活している人が多いです。

うつ病などを発症している人はいるけれど、身体的に半寝たきり状態になる、という例はあまり聞いたことがありません。

そういった理由から、医師も看護師も私が「怠けている」というレッテルを貼り、話をまともに聞いてくれはしませんでした。

医療関係者ってベテランになればなるほど、自分は今まで沢山の患者を診てきたから患者のことは分かる、あなたの例は怠けている例だ、みたいなレッテル貼りをする方が多い印象です。
(勿論、そんなレッテル貼りをしないまともな医療関係者の方々も多くいますが。)

病気を抱えている人の心情なんて、その人本人にしか分かるはずないんですよ。でも、そこが分かっていない医療関係者の多いこと多いこと。

先程も少し書きましたが、私が半寝たきり状態になった原因も、ベテラン医師に原因がありました。

確実にヤブ主治医でしたね。

だって、私の病気が悪化の一方をたどっているにも関わらず、その病院を辞めて独立(しかも腎臓は今後一切扱わないと言い放って)していきましたもの。

ああ、医療関係者って医療現場以外で働いたことが無いし、世間知らずが多い。自分の見てきた世界が全てだと思い込んで、知識があればなんでも病気のことが分かると勘違いしているんだな~と、私はだんだんと医療関係者不信になっていきました。

半寝たきり状態になった原因は「夜間腹膜透析」という透析方法です。

一般的に知られている、血液内の老廃物をろ過して身体の中に戻す、という血液透析ではなく、お腹の、内臓を包んでいる「腹膜」というものを利用して身体の中の老廃物を取り出す、という方法です。

しかし、医療関係者も知らない、経験者しか分からないデメリットがありました。

体質によって、身体の中の老廃物や余分な水分を身体の外に出すことが出来ない、というものです。

私はまさにその体質に当てはまっていたようです。

しかし、看護師長も医師も、

「腹膜透析をしていたほうが血管寿命も延びるからメリットが多いんですよ~! 続けましょう!」

の一点張り。

私が痩せているということもあり、普通なら身体の中に余分な水分がたまっていたりすると心臓が水分で肥大したり、下手をすると肺に水が溜まるのですが、そういったことが一切起きていなかったので気づかれなかったのです。

特に、私がかかっていた総合病院は腹膜透析を積極的に薦め、効果を学会で発表したりと、とにかく力を入れている分野でした。

しかし、専門家によっては腹膜透析はリスクが大きいので(腹膜炎なども起きやすいし、導入に手術が必要。お腹から管が出ていて見た目も悪い。)最初から導入しない、という人もいる。

そういう治療方法です。

それを推奨していたのは、おそらく病院と製薬会社に癒着があったり、単純に金になるからだと私は思っています。
(実際、B型肝炎にインターフェロンという注射が効く、と間違った情報が流れていた時代に積極的にインターフェロン治療を行っていたのもこの病院です。B型肝炎には効かないのに。)

そういった病院に実験台にされたことが私が半寝たきりになった最大の原因です。

常に重度の貧血。

貧血の時って頭をあげておくことが出来ないので寝ておくしかない状態。でも、それすらも「怠けている」というレッテル貼りにつながりました。

「もう、私はどうすればいいだ…。」

そんな絶望感でいっぱいでした。

もうこのまま死んでしまいたい。そう思ったときもありました。

でも、このときは精神状態はまともだったので自殺しようとしたりはしませんでしたが…。

でも、そんな私にも転機が訪れました。

新人の医師が私の症状を察知して、治療。半寝たきり状態から開放してくれたのです。

この新人の医師、話し方はとても優しく、おおらかで絶対に患者にキレたりしない人ですが、芯がとても熱い人でした。
(患者の前では出しませんでしたが、看護師とはよく意見の相違でトラブっていたそうです。患者を思うあまり。)

この新人医師は、私の症状を見てすぐに状態がおかしいことを察知してくれました。

「すぐに血液透析に変更したほうがいい。確実に水分が身体の中に溜まっている。」

新人医師は言いました。

しかし、私は血液透析を導入することには抵抗がありました。なんだか、病室の雰囲気を見たときに、まるで死体が並べられているかのように感じたからです。

でも、その医師は、毎回診療の度に、何故血液透析が嫌なのか、といったことを積極的に聞いてくれて何がなんでも血液透析に移行させるぞ、という気迫を感じました。(前のヤブ主治医は私が苦しんでいるのに5分で診療を終えたりしていました。)

その気迫に負けて、私は血液透析を導入することにしました。


血液透析を導入後


通常体重が45キロなのに対して、身体に余分な水分が10リットル(10キロ)溜まっていたことに気が付きました。55キロもあったのです。でも身長が172センチあるので、誰もここまで異常なほどに余分な水分が溜まっていると気が付かなかったのです。

その新人医師もさすがにびっくりしていました。

でも、血液透析を導入するようになって、乾燥肌からアトピーのようなものを発症したりはしましたが、今までよりは確実に体調良く過ごせるようになりました。

3年間続いた、半寝たきり状態が終わった日でもありました。

重度の貧血も解消され、少なくとも普通に遊びに行ったりは出来るくらいにまで回復しました。さすがに、今までの症状が酷かったので今でも後遺症などは残っていますが…。

3年間の半寝たきり状態から解放され、退院した日、私は海を見に門司港レトロをまで車で移動しました。

そこで見た景色は今でも忘れません。

見慣れているはずの地元の景色。そんな他愛もないものにとても感動する自分がいました。

涙が溢れて、止まりませんでした。

しかし、その幸せは長続きしなかったのです。

この血液透析を導入後、私は自殺をしようと思うまでに、いや実行するまで追い詰められていったのです…。

自殺を決意した理由


自殺を決意した理由は、私は兄と母との3人暮らしですのですが、兄の精神疾患(統合失調症)が原因なのか仕事場で度々問題を起こし、安定した職業である国家公務員であったにも関わらず退職してしまいました。

そこまではよかったのですが、「病気」だからと遠慮して好きなようにさせていたら、仕事をしていないにも関わらず、ネットで知り合った女の人と、福岡と東京という遠距離恋愛を行っていました。

普通なら遠距離恋愛くらい問題ないのですが、兄は無職です。自分の退職金をどんどん使い潰していくのが分かっていました。

しかし、それを注意しても激怒するだけですので、とにかく怒らせないように好きにさせるしかありませんでした。

それが私には、おそらく母にも、ストレスでしかなかったのです。

母も、もともと寂しがり屋だったのか、兄がインターネットのチャットサイトを勧めてしまったが為にそれにハマり、家事も疎かになっていきました。所謂インターネット依存症という奴です。

兄の感情の落差が激しいこと、精神疾患というものを母には全く理解できず、いつも私が母の愚痴聞き相手をするようになっていました。

兄からも病気の愚痴を聞き、母からも兄に対する愚痴を聞く。

私は一級身体障害者です。愚痴を聞いてもらいたいのも、サポートを必要としているのも私のほうです。でも、それは叶いませんでした。

あとは病院でのこと。とにかく病院という場所は当たり外れが多いものです。

私が人工透析という延命治療を受けていた病院は潰れかけで、看護師も院長もピリピリしていました。

そして、病院内の教育、職場環境も悪い為に次々に看護師が辞め、人が足りていない状態でした。

その為、対応も凄く悪く、しょっちゅう針を刺すのを失敗するだとか技術面でも問題がありました。

それだけならまだ許せるのですが、臨床工学技士という医療機器を扱う人間が、

「俺、昔自分の学校のひ弱な奴を虐めていたんだ~」

と、患者の前で平気で話したりしていました。

その他にも、自分の上司や同僚の悪口を患者の前で平気で口走る人もいました。

そのように従業員の教育のなっていない病院でした。

これは私の個人的な意見、というよりは良い病院の基準みたいな本を読み、的を射ているなと感じた意見ですのですが、

「院長がちゃんと患者に毎日声かけをする」

ということが出来ている病院は、熱意のある病院だと思っています。

私が自殺未遂をする原因の一つにもなった病院は、声かけどころか、院長は常に論文を書いているだけ。

現場は、医師をアルバイトとして雇ってその人に診断させているという状態。つまり、病院自体が病んでいたのです。

そこの従業員も臨床工学技師長も院長も。

医療関係者にはうつ病の人多いですからね。大変な仕事です。心中はお察しします。しかし、それだったらちゃんと休業していただきたいものです。医療関係者はちゃんとうつ病診断が出れば休むことが出来るのですから。

そこの病院で私は人工透析のせいで肌荒れが酷くなったときに、

「それ、気持ち悪いね。」

と言われました。

本人は悪気がなかったのかもしれませんが、普通はサービス業でこんな不適切な言葉をかけるようなことはしません。

普通なら、こういった部分もしっかりと教育を施し、患者によりそった看護をするもの。しかし、これも教育不足から起こったことでしょう。(看護師はサービス業ではない、と言い張る人がいますが、医療はサービス業の一種です。だからって患者が威張っていいわけではないですが、看護師の中には患者を「教育する」という言葉を使う人がいます。しかし看護師が患者を「教育する」という言葉を使うこと自体間違っています。)

・患者の前で上司や同僚の悪口を言う。

・病院の前で自分はイジメをやっていたと発言する。(それをカッコイイとまた思っているのが馬鹿らしいものです。そんな人間に、医療関係者に信頼を置くことは出来ません。)

・院長自身は論文などを書いてばかりで患者を見ない。

・針の刺しミスなどが多い(私の血管は一般の患者より特別に刺しやすい血管です。)

こういう病院に当たってしまったが為、私はずっと我慢してきましたが、ある日我慢の限界が来て、病院の院長に苦情を言いました。しかし、この病院事態が病んでいました。ということは院長が普通ではないのです。(院長自体が精神疾患のようなものを抱えていたのだと思います。)

そのような院長です。苦情を言われて揉めないわけがありません。そういった理由から私は院長と喧嘩をしてしまいました。

すると、私の体調は人工透析により色々な副作用が重なり、人工透析という延命治療を5時間は最低でもやっておかないと、治るはずの身体の悪い部分が治らない状況でした。それどころか益々身体の悪い部分が増える。

そんな状態にあるにもかかわらず、その病院側から、

「じゃあ、この病院を出て行ってください。病院が決まるまでは居させてあげます。そのかわり、透析は4時間しか行いません。」

と通告されました。もう、この病院は本当に腐っているのだなと思いましたね。院長も従業員も。

そこで、私は次の日には、自分がお世話になっている病院のかかりつけの医師に事情を伝えて、そこの病院で人工透析を行わせてもらうことになりました。

それ以来、私は医療従事者および病院不信に陥りました。


悪いことは続く


急に病院を移動してきたことも原因ですのでしょうけれど、運の悪いことに、私の担当になった看護師は恐らくうつ病(キレやすいタイプのうつ)を抱えているような看護師でした。

何かある度に細かい文句ばかりを言ってきます。

例えば、

「布団は綺麗にたたんでから帰れ!!」

などと言われることが頻繁にありました。

人工透析後の患者は疲れているのに、普通に歩くことすら困難なのに、

「キビキビ動け!!」

と罵られることもありました。

私からすると、布団をたたむのは看護師の仕事じゃないの? という感じです。あと、キビキビ動けるのは健康体の人だけでしょう、と。
(別の看護師さんから聞いところ、うるさい事で有名な人で、部署の異動願いもだしていたらしいです。つまり、透析病棟での仕事のやる気はこの時点で無いわけです。)

私は、最初は我慢していたけれど、だんだん病院に行くのも嫌になって、

「担当を変えてください。」
と申し出たところ、どうやらその看護師はその病棟内では結構な権力者だったらしく、

「あの患者は問題があるから、病院から追い出すべきだ!!」

と、その担当の看護師が言い出して、何故だか話が大きくなっていきました。私は揉めないように、相性が合わないようだから担当を変えてくれと、穏便に話を進めたはずですけどね。

「担当を変える」

これが、その人のプライドを傷つけたのでしょう。

普通は私の言い分も聞くはずです。しかし、そこは総合病院だったのですが、何故か私を追い出す方向に話が進みだしました。

さすがに私も、前の病院でも嫌な思いをし、新しい病院でもそんな状態。仕事ではパワハラにあっていました。

そういった様々なことが重なったことがきっかけでストレスからうつ病を発症。精神的にも追い詰められて行きました。

そしてある日、SNSのmixiにだけ、

「もう限界です。もう二度と人工透析はしたくありません。病院にも行きたくありません。生きていることも辛いです。死にたい。だから、私は死ぬ前に今から旅に出ます。」

というようなコメントを残し、人工透析の日にそれを無視して、携帯の電源を切り、そのまま車で九州から東の方に、つまり本州に旅に出ました。

これが、私の自殺未遂の旅の始まりです。

初めての旅


車で旅に出るというのは私にとって生まれて初めてのことでした。だから、死ぬ恐怖なんてものよりも、楽しい気持ちの方でいっぱいでした。

もしかして自分は透析を受けなくても、死なないかもしれない、とすら思うような精神状態でした。普通の精神状態ではありませんね。そんな訳の分からない理由で治るはずの無い病気・障害であることは本人が一番身にしみて分かっていたことなのに。

普通の精神状態ではなかったから、このような思考に陥ってしまっていたのです。

九州からどんどん離れて行けば行くほど、

「やっと逃げることが出来た!」

という開放感でいっぱいでした。とにかく何もかもが新鮮で、楽しかったのです。

でも、なんでなんだろう。パーキングに止まって休憩をする度に涙が溢れてきました。悲しくなんてないのに。楽しい気持ちのはずなのに。

それにも関わらず、涙が止まりませんでした。普段は泣くことの無い私。涙なんてとっくに枯れてしまっていたと思っていたのですが、私は心のどこかで今までの人生を振り返り、

「どうして自分はこんな仕打ちを受けなければいけないのか。俺が何をしたというんだ。」

という気持ちでいっぱいだったのかもしれません。

だから私は、突然このようなことを思いついたのです。

「そうだ、きっと大阪へでも行けばもっと気分が明るくなるはずだ!」

そう安易に考えて、私は私の住んでいる福岡から大阪へと向かいました。勿論、車での移動です。

初の大阪


初めて車で大阪へ向かったのでとても遠いのかと思っていたけれど、凄く車を飛ばして8時間ほどで到着しました。

意外と日本は狭いな、と感じた瞬間でもありました。
そして高速道路の大阪への入口付近までたどり着きました。

大阪の高速道路出口、そこの切符を切るおじさんの雰囲気からして九州とは全く違いました。

私の車が九州ナンバーだということに気がついたのでしょう。私の後ろにも車が待っているにも関わらず、観光地など、色々なことを教えてくれました。

なんとなく道頓堀に行きたくて、途中で道がわからなくなったら、その辺の道端の人に道を聞きました。

噂には聞いていたけど、本当に大阪の人は親切に道案内をしてくれる。道を教えてくれるだけじゃなくて、わざわざ道頓堀まで付いてきてくれたりしました。

大阪の人にとってはたいしたことじゃないのかもしれない。でも、周りからは分からなかったでしょうけれど、私は自殺未遂中の人間。

そんなちょっとした「人の温もり」がとても心に染みました。涙が止まりませんでした。

私が道端で座っていると、そんな私の泣いている姿をみたからなのか、

「何で泣いているん?」

みたいなことを聞いてくる人もいたので、ごまかすのが大変でした。本人は涙を堪え、人前では泣かないようにしていたつもりだったのですが…。

もしかして私は、無意識のうちに、私の自殺未遂を止めてくれるキッカケを作ってくれる何かを求めて大阪までやってきたのかもしれません。

でも、私の抱えている問題・事情を話す機会などありませんでした。というよりも、いきなり知らない人間からそのような話をされても困るだけですよね。

そういったことも考えれば考えるほど、誰にも自分の事情を話すことが出来ませんでした。本当は誰かに話を聞いてもらいたかったのに、その勇気が私には出ませんでした。

いやいや、もうすぐ死ぬのだから生きている今だけでも明るくいこう。何か楽しいことをして気をまぎらわそう。

そうだ、せっかく大阪に来たからにはたこ焼きや串揚げでも食べにいこう。と考えたけれど、透析をしてないことが原因なのと、長距離運転での疲労から食欲が無く、何も口にすることが出来ませんでした。

お腹は空いているのに食欲が全く湧かなかったのです。

そして、その日は何も口にすることなく、コンビニの駐車場に車を停めてそこで就寝しました。

携帯の電源を付けてしまって…

その翌日、梅田で路上ライブをやっている人の音楽を聴いたりして、少しでも自分が自殺を思いとどまるキッカケがないか、と試行錯誤していました。

・自殺を考える自分
・自殺を考える自分を止めたいと思う自分

一般の人には経験がないと思うけれど、ある一定のレベルの精神的負荷がかかると、このような二重人格的な精神状態になるようです。

だから、自殺を考えているくせに、どこか冷静で、淡々と物事を話すことができる。

そのような理由から、私が本当に自殺をしようとしていると誰も気づくことはありませんでした。

とにかく私は「自殺したい」と思う自分の気持ちを、どこか変えたいと思う部分があったのでしょう。

それを求めてなのか、気がついたら今度は大阪府「堺」に向かっていました。

そこでふと、

「もしかして友達からメールとか来ているかもしれない。」

と思って、携帯の電源をつけてしまいました。

携帯の電源をつけるとGPS機能から現在位置が特定されます。

緊急事態、例えば警察からの要請などがあれば、携帯キャリアは位置情報などを24時間体勢で見張ってくれて、情報がわかり次第連絡をしてくれるのです。

それを知っていたにも関わらず、携帯電話の電源を付けてしまいました。

案の定、元捜査官だったうちの兄は色々と手を尽くして私を捜索してくれていたようです。

私のパソコンにログインし、私のmixiアカウントでも色々と私の友人達に呼びかけをして、その情報を元に捜査を行っていました。

兄貴は統合失調症で仕事を辞めたのだけれど、この頃は「まだ」病気の進行が進んでいなくて、優しい兄貴でした。

携帯の電源を入れると100件近くのメール、電話の留守電が入っていました。

私は死ぬつもりだったはずなのに、その伝言やメールを聞いては涙をボロボロと流していました。

それでもなぜか、「死ぬ」という気持ちが変わることはありませんでした。

こんなにも心配してくれている人がいる。死なないように説得してくれる人がいる。

でも何故だろう、涙も出ているにも関わらず、その言葉は心に響かなかったのです。そのような言葉を受け入れる余裕が私にはなかったからなのかもしれません。

・自殺を考える自分

の部分が強く、私が生きようとすることを邪魔していたのかもしれません。

こんな精神論的な話、本来の私なら嫌いなのですが、この時の精神状態を考えるとそうとしか考えられないのです。

残り日数 寿命が少なくなってきて


人工透析をせずに生きていられるのは約1週間ほどだと言われています。もうすでに5日ほど経過していました。残り寿命はあと2日くらいです。

さて、これから残り日数は何をしよう。

とりあえず、今まで行ってみたかったけれど人工透析などが原因で行くことが出来なかった場所を廻ろう。

兵庫県へ行って神戸異人館を観て、それから京都へ行って坂本龍馬と中岡慎太郎の墓に横たわって息絶えよう。

「辞世の句」(江戸時代、武士が死ぬ間際に歌を残すという習慣があった。それが辞世の句。)なんかも考えておかないと、なんてことも考えていたました。

そう思い、まずは(大阪から見て)京都とは反対方向の神戸へと向かいました。

きっとこの移動が最後の移動だろう。京都は私の死に場所だ。でも、大好きな坂本龍馬と中岡慎太郎の傍で死ぬことが出来るのだから、私はある意味幸せなのかもしれない。

そんなことを考えていたら、今から死ぬはずなのに心はワクワクしてきました。

今まで行ったことの無い場所に行って死ぬことが出来る。私は幸せものだ。あのまま人工透析を行っていたら、きっと病院のベッドの上で惨めな死体になって死ぬことになっていた。そんな死に方をするくらいなら、坂本龍馬と中岡慎太郎と一緒の墓で死んだほうがいい。

半ば、頭がおかしくなっていたのでしょう。なんだか京都へ行くことが楽しみで仕方が無い、というような気持ちになっていました。

繰り返しますが、もうすぐ死ぬはずなのに…。

移動中


走馬灯のように今までの出来事が頭の中を巡っていました。

小学生の頃は習っていたサッカーのメンバーの中で一番下手だからとイジメの対象になっていました。

中学校でも同級生からイジメにあっていました。

高校生になってからもそれは変わらず、定期券を何度も盗まれたり、大切な母から高校の入学祝いで買ってもらった腕時計を壊されたり、上級生からいきなり殴られたりしていました。

どの学校でも教師達は何も解決の手伝いをしてくれないどころか、若干荒れていて髪の色が茶色だった私に対しても、

「イジメを行っている人間もお前のように学校の校則を守らない人間も同じだ。」

と一向にイジメに対して対処してくれませんでした。それどころか、

「お前もイジメを行っているんじゃないのか?」

とやってもいない容疑をかけられていました。

そういえば、不良によく絡まれたりと、イジメられ体質だったなぁ私は。

ああ、走馬灯って奴は人生の中で楽しかったことばかりを思い出すものかと思っていたけれど、私に関しては嫌な思いでばかり頭の中を巡るのだなあ。

そんなことを冷静に考えながら思考を巡らせていました。

人工透析を拒否した直前のとき、以前片思いをしてフラれた同級生の看護師さんに連絡をして、迷惑をかけてしまいました。

どうせ死ぬのだから誰にも迷惑をかけないように旅に出るべきだったなあ。まあ、自殺をしようとしている時点で誰かしらに迷惑をかけているわけですのですがね。

その頃、ずっとmixi上でやりとりをしていた大阪の「ちひりん」という女子大生の子がいました。その子はとても明るい子で、ああ大阪はとても明るい地域なのだな、と大阪に憧れを抱いていました。

そうやってやりとりをしているうちに、その子のことがとても気になるようになり、恋心のようなものを抱いていました。

死ぬ前にその子に一度会ってみたいな。遠いから、こういう機会でもないと会うことが出来ないだろう。まあ、どうせ死ぬのだから逆に会うのも迷惑か。

そのような様々なことを考えていました。人工透析をしていないせいでしょう。思考が定まらず、朦朧として考えることが飛び飛びになっていたのです。

男というものは弱いもので、というより私が弱い人間ですので、こういう時にこそ大好きな異性に頼りたくなるのです。

でも、色々と冷静に考えてしまい、迷惑をかけないように会わない、という選択をしたのです。

その子とのmixiでのメールのやりとりなどもずっと頭の中を巡っていました。

電話で会話をしたこともありました。

大阪人らしい、とても明るい、元気の出る会話をしてくれるともて優しい心の持ち主でした。

友人も多い子で、mixi上ではずっと女友達から「姫」なんて呼ばれていたことを覚えています。

その子のお父さんも人工透析をしていたので、私の気持ちをよく理解してくれました。お母さんは病気でなくなってしまって(その子は大学生だったのですが、「お母さんはお星様になったの」と、良い意味で子供のような表現していました。少女のような、純粋な心の持ち主だったのです。)
しかし、お父さんは自分の妻が死んだ、そのことがショックでうつ病も併発していたらしいです。けれど、二人姉妹の自分が長女だからと、一生懸命に家庭を支え、立て直した心の強い子でもありました。大学に通い、アルバイトをしながら。

電話してみようかな? でも、先ほどの看護師さんの場合のように確実に迷惑をかけることになる。やっぱり辞めておこう。

寂しいなあ。坂本龍馬と中岡慎太郎は傍にいるけれど、私は死ぬ時、本当は好きな異性の元で死にたかった。でも、それも叶わぬ夢か。あと数日で私は死ぬ。

障害者になってからというもの、長いあいだ彼女も出来ていない。私はなんと寂しい人生を送っていたのだろう。母親に自分の子供、孫の顔を見せてあげたかったな。

中学生の頃、退院したてで体力が落ちている状態で1500メートル走に出て、途中でリタイアしてバカにされたことがあったな。長距離走は一番得意な運動だったはずなのにそんな結果になってショックだったな。でも、その後の冬のマラソン大会まで猛練習して、学年で3位になった。俺、頑張ったよね。努力家だよね。頑張って生きてきたよね。

受験勉強だって、睡眠時間を削って1日12時間も勉強していたよ。うん、やっぱり頑張って生きていた。なのに、なんでこんな仕打ちを受けるのだろう。なんで自分が障害者にならないといけないのだろう。神様はその人に乗り越えられない試練は与えない。乗り越えることが出来る人物を選んで試練を与えているなんて言われているけれど、あれは嘘っぱちだ。

神様なんてものがいるのなら、そもそも障害者なんてものは作り出さないはず。それに、俺はその試練を乗り越えることが出来そうにない。だってもうすぐ死ぬのだもの。

人工透析を始めて身体障害者になっても一生懸命仕事を探したり、仕事がどうしても見つからない時は他にお金を稼ぐ方法を見つけたり、生きる為に必死だったはずだよなあ。

家が貧乏だから、ちゃんと障害年金は家に全額入れて、それとは別にお金をちゃんと稼いでいた。それなのに、なんで俺は今、こんなに寂しい思いをしているのだろう。

前世で何か悪いことをしたの? でも、それは俺には全く関係のないことだよね。そんなことで俺をこんな目に遭わせるなんて間違っているよ。ちゃんと人並み以上に一生懸命に生きてきたもの。高校を中退しても、ちゃんと通信制高校に入り直した。働きながら学費を稼いで高校卒業資格を取った。もうずっと頑張って生きてきたんだ。

ブラックなバイト先で働いていた時も、自分はもうだいぶ精神的に追い詰められていたし、身体にも異変が起きていたけれど、ちゃんと仕事を休まずに出て仕事を真面目にこなしたよ。

仕事ではバイトリーダーを務め、売上だってアルバイトの中で常にNo1だったよ。俺が何を悪いことしたっていうんだ。誰にも迷惑をかけていないじゃないか。どうして俺ばかりが…。俺ばかりが…。

死んだらどうなるのだろう。天国なんてものも地獄なんてものも信じてはいない。きっとタンパク質の塊が腐って、カルシウムで出来た骨がボロボロになって土に混ざるだけだろう。そんな死骸が坂本龍馬や中岡慎太郎の墓の傍の土に埋まることになるのだろうか。

まさか観光客もそんな一般人の死骸が土の中に埋まっているとは想像出来ないだろう。

いや、その前に死んだことがニュースになって取り上げられるかな。新しい心霊スポットになるかもしれない。そこで地縛霊にでもなろうかな。ははは…ははは…。

だんだんと睡眠不足、透析をしていないことが原因なのか、さっきよりも更に思考が定まらなくなり、酷く朦朧とするようになっていきました。

思考も流れがなく、脈絡なく、飛び飛びで頭の中をよぎっていきました。

その数時間後


高速道路経由で神戸異人館に向かっている途中、パトカーが明らかに私の車の後を追跡してきています。

それをきっかけに私の思考は朦朧とした状態から冷静な状態へと変化しました。

下手な動きをするほうが怪しまれると思い、なるべく平常心で運転していました。すると、1時間ほど私の後を追跡していたパトカーがいなくなりました。

ちょろいものだ、警察なんて。と思った瞬間、

「そこの車、左に寄せて止めて下さい。」

というパトカーからの声が聞こえてきました。

名目は「スピード違反」。

でも、スピード違反をしているはずはありません。どんな状況であろうとまず車を止める為にワザとにスピード違反という名目を使う。そういう止め方を警察がするのを私は知っていましたから、高速道路とはいえ、速度は標識通り守り、1キロすらスピードをオーバーしないように心がけていたはずです。

しかし、そんなものは無駄でした。

やはり警察がスピード違反と言ったのは、ただ車を止めるための詭弁。

「免許証を見せて下さい。」

警察に言われるがまま免許証を見せました。すると、

「保護願届の出ている山本大輔さんですね。ちょっと署までご同行願います。」

そうして、私は警察に保護されたのでした。


警察署にて


どうやら人命がかかっているということで、大阪府警に緊急手配がかかっていたらしいです。

そして、先程も書いたけど私の兄は元捜査官ですので、NTTやソフトバンク、auなどの通信会社から、高速道路の防犯機能、あらゆるものを使って私を捕まえようとしたらしいです。そういった行動が警察を動かし、緊急手配にまで発展したのでしょう。

私もその手のことには詳しい。だから細心の注意を払って携帯電話の電源をかたくなに切ったままにしていました。それでも、友達のメッセージが気になって、携帯の電源をつけてしまったことで簡単に捕まってしまいました。

人間、理屈や知識だけではどうにもならないものだな。

心のどこか、そのまま死んでしまうことに抵抗があったのかもしれません。

人間とは皆、寂しがり屋のかまってちゃんです。私が死ぬと発言してから、友人達は私のことを心配してくれているのだろうか。そういうことが気になるものです。

もしかしたら、友人から自殺を止めて欲しいという願望が、深層心理の奥底ではあったのかもしれません。本人はそのような自覚がありませんでしたが。

人間の心というものは本当に分からないものです。

でも、逆にいえば、それがなければ私は確実に死んでいました。そう、私は友人に助けられたのです。自分の弱い心に、皮肉にも命を救われたのです。

自殺しようとしている自分。その中にはまるで二重人格のように生きようとしている自分も存在していたのかもしれません。

人間とは未知な生物です。本当に、人間の心というものは理屈だけではなりたっていないものですので。

生きたいけれど、本当は死にたくないけれど、死ぬしか今の辛い現状から逃げ出す手段が無い。だから自殺を選んだ。でもどこかに生きたいという気持ちがあるからこそ、すぐに飛び降り自殺など簡単に死ぬことの出来る方法を選ばずに、「旅をする」ということを選んだのでしょう。

人間の心は本当に矛盾だらけです。だからこそ「人間」なのかもしれませんけれどね。

大阪府警の人達は強面の刑事ですら優しかった。サービス精神がとても旺盛でした。

保護されたのは夜中だったけれど、私に何か起きたらすぐに対処できるように、徹夜で私のことを見てくれていたし、その頃は真冬。私のためにストーブや毛布を用意してくれました。そして、私の話を親身になって聞いてくれました。

「なんかあったら、また大阪へこい。今度はちゃんと病院の許可を取ってな。大阪は笑顔になれる場所がいっぱいある。笑えば、死にたい気持ちなんて吹き飛ぶもんや。」

私は疲れ、透析をしてない、今までの苦労など様々なこ
とが重なって涙もろくなっていたのでしょう。そのまま泣き疲れて寝てしまいました。

そして朝になり、兄貴が新幹線で迎えに来てくれて、私の車を兄貴が運転して九州まで帰ることになりました。


帰り際のパーキングエリア


大阪から九州まではだいぶ距離があるので、沢山のパーキングエリアを通ることになります。そこで、今まで行ったことのない様々な県でお土産を買いあさりました。

「ああ、普通にドライブをしていたら、こういう楽しみ方もあるのだなあ。」

それは新しい発見でもありました。今度はちゃんと、自殺未遂ではなく、遠出のドライブでも楽しもう。出来れば、彼女なんかがその時には出来ていたらいいな。

こんな障害を抱えていてもちゃんと理解してくれる彼女が出来て、そんな子と色々なことを楽しみたい。そうすれば、今のような辛い状況でも死にたいという気持ちがなくなるかもしれない。生きる希望が持てるかもしれない。男なんて、というより私なんてそのくらい単純な生き物ですから。

そんなことを考えていました。

自分も退職して無職な状態でお金があまり無いにも関わらず、弟である私のことを心配してなのか、兄貴はお土産代を全部払ってくれました。
これが美味しそうだとか、これは母が喜ぶんじゃないのだろうかとか、様々なことを考えながら行う買い物はとても楽しいものでした。

兄貴はこういう提案をしてくれました。

「今度暇な時にでも、パーキング巡りをしてお土産品をまた色々と買おう。今はお互い長旅で疲れているから帰り道の全てのパーキングを回る余裕はないけれど、余裕のある時にくれば楽しむことが出来るだろうからさ。」

兄貴の優しさを感じた瞬間でした。

後日


私に常に文句を言い罵倒をしてきて今回、自殺をしようという最終的なきっかけになった看護師は結局最後まで謝罪しませんでした。謝罪すれば訴えられるとでも思ったのでしょうか。

こちらは、謝罪さえしてもらえれば訴えませんよ、という契約書でも作りましょうか? と半分皮肉混じりに言ったけれど、それでも謝罪は最後までしませんでした。

代わりに看護師長が謝罪。それじゃ意味が無いに決まっています。

ただ、私は一言だけ、

「こういう事件は連帯責任ですので、あの人だけに責任を押し付けてクビにするとか、そういったことはしないで下さい。」

とだけ伝えました。

なんでそういうところだけ私は良い子ちゃんぶっているのだろう。
でも、本心でした。看護師は過酷な仕事だから、もしかしたら仕事のせいでその人も心が病んでいただけかもしれないから。本当は良い人なのかもしれないから。

そして、私は地元でも評判のいい病院を紹介してもらってこれからはそこへ通うことになりました

もう、これからは友人達、母、兄貴、様々な人に迷惑をかけるようなことは辞めよう。自殺を考えるなんて本当に馬鹿げていた。

この時は本当にそう考えていました。そう、この時までは…。

再度、大阪へ


今度は自殺未遂ではなく、普通に大阪へと旅行をすることにしました。月・水・金曜日は人工透析があるので、時間のある土日に行って帰ってくるというプランです。

梅田のヨドバシカメラに行ったり(めちゃくちゃ大きい建物でびっくりしました。)前の自殺未遂のときは人工透析をしていないせいで食べることの出来なかった串カツなども食べました。

そして、ここからが本題です。恋をしていた大阪の女の子「ちひりん」と会う約束をしていたのです。

電話やメールでのやりとりはよくしていたけれど、本物に会うのは始めてのこと。自撮りの画像などは私はインターネット上に載せているので相手は知っているのですが、向こう側の顔を私はしりません。

でも、私はよっぽど顔が好みから的外れじゃない限り、好みじゃなくても性格がいいから向こうさえOKを出してくれれば付き合いたい、とまで思うようになっていました。

今思うとまともな精神状態じゃなかったんでしょうね。九州と大阪じゃ遠すぎます。現実的に考えて無理でしょう。でもそんな現実的なことを考えることが出来なくなっていました。

自殺未遂中でも電話で心配の留守番電話をいっぱい入れてくれていた大阪の女の子「ちひりん」。ただのメル友だったはずなのに、自殺未遂などで精神的に弱っていたこともあって、心がその子に惹かれていきました。

そして、始めて会うことになったのですが、普通の人からしたらその辺にいそうな普通の子かもしれません。でも、私にはとても可愛く映ったのです。(実際、可愛かったですよ。)

そして、大阪の街を色々と案内してもらって、一緒にご飯を食べたりしました。

私が大阪の街のことは分からないから、ご飯を食べるお店を決めて貰っていいかな? なんでもいいから、というと、すぐにお店を探してくれたのですが、道に迷ってしまったみたいでアタフタしていました。そんな姿も可愛く、愛おしかったです。

そして、梅田でご飯を食べ、デザートを食べました。また、次の日にはその子はバイトがあったので時間が無いにも関わらず、時間を作ってくれて大阪城を案内してくれました。

まだ、自殺未遂の心の傷が癒えていないことも原因だったのか、そういった心遣いが嬉しくて、ますますその子に惚れてしまいました。

でも、住んでいる場所が遠いから、告白するなら今しかない。私は告白をしました。ストレートに、

「君のことが好きだから、付き合って欲しい」

と。

すると、

「だいちゃんのことは人間としては好きです。尊敬しています。でも、一緒にいて私、緊張していたんですよね。本当の自分をだいちゃんの前でさらけ出すことが出来ませんでした。きっと、こんな状態で付き合っても上手くいきません。それに、住んでいる場所も遠いですし。
でも、凄く、凄く考えました。それでも、答えは「NO」です。本当にごめんなさい…。」

まぁ、そうなるだろうなとは覚悟は出来ていたものの、いざ現実を突きつけられると苦しいものです。でも、現実を受け入れるしかない。それに、今は命があるから、また良い子が見つかるさ。そう思っていました。この時は…。


カナちゃんとの出逢い


自殺未遂をしたときに心配してくれていた子の一人、名古屋在住の「カナちゃん」という同い年の子がいました。とても可愛い子です。

背のちっちゃな、童顔のオシャレな子です。

私はカナちゃんとは一度しか会ったことがなかったのですが、当時流行っていたmixiで交流などをしていました。

カナちゃんは、

「自宅の環境が悪いなら、うちに来る?」

と誘ってくれましたが、人工透析を知らない地でするのは怖かったということもあり、

「さすがに自宅には行けないよ(笑)」

と返信しました。

すると、カナちゃんは、
「そうだよね(笑)だったらバレンタインにチョコレートを贈ってあげるよ! もし良かったらだけど(笑)」

と返信してくれました。

私はバレンタインなど全く自分には関係の無い話だと思っていたので少しビックリしましたが、快く承諾しました。

だってその子、凄く可愛いのですもの。可愛い子からチョコレートを、義理だと分かっていても貰えるだなんてラッキーじゃないですか!

そしてカナちゃんは手作りのチョコレートを贈ってくれました。生チョコでした。

私はテンションがとても上がり、

「お返しは何がいい!? ヴィトンのバッグとかでいいですか!?www」

などと冗談半分に答えていました。カナちゃんも笑ってくれていたようです。
(メールの文面から笑ってくれていることが伝わりました。)

そしてホワイトデーの日、私は義理チョコに対して「JILL STUART」というブランドの髪を結ぶのにも使える、ゴム製のブレスレットをプレゼントしました。

カナちゃんはとても喜んでくれていたようです。まさか本当にお返しをくれるとは思っていなかったのでしょうね。でも、自殺未遂アンド振られたあとであった私にとって、カナちゃんは救いの女神。そのくらいして当然だと思っていました。

名古屋と福岡でのやりとりです。これもインターネットが発達したからありえるような光景ですよね。

そして、カナちゃんは元々福岡の隣の県の山口県出身だったので、地元に帰ってきた時には遊ぼう、という話になりました。

カナちゃんとのデート


ゴールデンウィーク、カナちゃんは地元に帰ってきて一緒に遊ぶことになったのです。

一緒に映画「アリス・イン・ワンダーランド」を観に行ったり、かき氷を食べたりしました。そして、私は車でカナちゃんを自宅近くまで送りました。

途中、花火大会をやっていて花火が見えたのを覚えています。

カナちゃんが、

「綺麗だね~!」

と言っていたのですが、私はもうその頃にはカナちゃんに恋をしていました。カナちゃんのほうが綺麗だよ、などとキザな気持ち悪いことを言いたかったのですが、そんな勇気は私にはありません。

「綺麗だね!」

そう無難に答えました。

カナちゃんは楽しそうにしているのかつまらなさそうにしているのか、イマイチ感情のわかりにくい子でした。

本人も「ツンデレなんだよ(笑)」と言っていましたしね。でもよく喋る子でしたけど(笑)

私は途中でテンパって、どこに行こうか迷って「カラオケにでも行かない?」と誘ったら、警戒されてしまったのか断られて更にテンパったり、あまり上手くエスコート出来ませんでした。

だから、カナちゃんは本当に楽しんでくれていたのかな? と心配な部分があったのです。

ですが、家の近くまで送り届けて帰り際に、

「また遊ぼうね。」

と、別れを惜しむかのように言ってくれたので、喜んで貰えたのかな、と思いました。

私はアドリブが苦手で、事前にデートスポットを調べたりしていないとデートが出来ない性格です。朝早くに事前調査の為に止めた有料駐車場が、上限が無いタイプの駐車場で車を出す時に3000円以上も取られたりしましたが、それでも喜んでもらえたのなら安いものです。

そんなこんなで、カナちゃんとのデートは終わりました。

カナちゃんとのその後

カナちゃんとのメールのやり取りはその後も続いていました。ですが、いつも気になっていたことがあります。

仕事が終わっているはずの夜にメールを送ってもなかなか返事がこないのです。これは前からそうでした。

仕事は歯主治医の受付嬢だと言っていました。それも嘘ではないのかもしれませんが、デート中の会話の中にも、

「水商売で働いている子ってどう思う?」

といった発言や、ホストみたいな感じの人が好き。付き合った人はパチプロなんかが多い、などと言っていました。

私は自分の通っていた高校に年をごまかして水商売をしていた子が結構友達にいたのでその辺の事情は詳しいのです。

もしかしてこの子、水商売の子なんじゃないかな?
という疑問が浮かび上がりました。

親がとても厳しい人らしいので、隠していたのかもしれません。

私は相手の職業が水商売だろうが風俗嬢だろうが、好きになったら気にしないタチです。ですので私自信は別に水商売で働いていても良かった。

たった2度した会ったことが無い。デートは一度しかしたことが無い。そんな子にですが恋をしていたからです。


それから1年半程過ぎた頃


兄の統合失調症は病院にかかっているにも関わらずどんどん進行し、金銭感覚が狂い、前の職場を退職した時に出た退職金をどんどん使い果たしていきました。

退職したばかりの頃は500万円ほどあった貯金がほぼ底をついた状態です。それでもまだ、働こうとしません。

幸い、ギユンブルなどする性格ではなかったのですが、とにかく女に弱い性格で、その頃は変な女に引っかかったり、貢いだりしていました。

お金の減り方の経緯は、最初は同じ心療内科で知り合った(というより向こうから近づいてきた)女に半分騙されたような形でお金を取られ、次は私の母の携帯から、以前少し交流のあった母の仕事場の若い女の人(人妻)の携帯番号を勝手に盗み出し、外で会っていました。

アメーバピグというインターネットの仮想世界で遠距離の彼女を作り、二ヶ月に一度は福岡から関東へ行っていました。同じく、二ヶ月に一度は私や母の住む実家へ彼女を泊まらせていました。

当然、仕事を辞めてから再就職をしていない兄の貯金はどんどん使い果たされていきました。

うちの母はしゃべることは得意ですが人の話を聞くのが極端に下手で、精神病の人間を怒らせるような言葉の返し方、何でも否定し、逆ギレをする、というような対応しかできませんでした。

そんな状態だから兄の相手は1度目の自殺未遂後も常に私が行い、何かある度に激怒しまう兄をなだめていました。そして、母に関しては兄に対する愚痴を毎日のように聞かされ、私は板挟み状態でした。

この頃、私は仕事をやめなければいけない状況まで追い込まれ、失業していました。

そして、失業保険を貰いながら資格試験の勉強、そして人工透析。

私自身が誰かに話を聞いてもらいたいくらいでした。ただでさえ、障害者は仕事が無い、生き辛さを感じているのだから。

そんな状態でも、私は障害者年金の全額を家に入れていて、金銭的にどんどん困窮していきました。

何故、家が大変な状態が分からない!? 家が大変な状態なのだから女に貢いている暇があるのなら家にお金をいれるなり、資金が尽きるまでに仕事を探すなりしてお金を蓄えて、家にちゃんといれるべきでしょう!?弟は1級身体障害者だぞ!?

そんなことも理解出来ない状態にまで病状は進行していたのかもしれません。この時から思うようになりました。

「精神病だからと、障害者だからと、許される範囲にも限度がある」

と。

母は再度、ネット依存へ


もともと、母はあまりネットなどするタイプではありませんでした。たまたま、私がパソコンを買い換えて、そのお古のパソコンを兄貴が使っていた。ところが兄貴もパソコンを買い換えた為、パソコンが1台余りました。

そこで、母もパソコンをやってみたい、ということでパソコンを使い始めたのです。昔から、私のノートパソコンを貸して母はたまにネットサーフィンをしていたので少しはパソコンを使える状態です。

兄貴は自分のはまっている「アメーバピグ」の話の出来る仲間が欲しかったのでしょう。母を誘ってアメーバピグをさせはじめました。

はじめは難しそうだと乗り気でなかった母ですが、どうも可愛いアバター(自分の分身のような人形)や服を着せ替えることができる、家の模様替えなどが出来る。母の時代で言う、リカちゃん人形やシルバニアファミリーのような面白さを見出したのか、どんどんはまっていきました。

それでも、私が一度自殺未遂をしてからはそういった部分は治まっていたのですが、もともと発達障害のようなものを抱えている母は過去のことを直ぐに忘れる傾向にありました。

そして、兄の病気がますます悪化していったので、そのことに疲れたからなのか、現実逃避が激しくなり、どんどんネットの世界にはまっていきました。どっぷりと浸かるようになっていきました。

それはもう、抜け出せない底なし沼にハマり、もがき苦しむような状態に私には見えました。

楽しんでいるようで、どこか苦しそうに見えたのです。

家事はおろそかになり、洗面台や風呂がしょっちゅう汚れていました。

ご飯もあまり作らないようになり、たまに私が、

「何か食べるものない?」

と聞くと、

「自分で作りなさい!!」

と怒鳴り散らすようになってしまいました。

確かに大人だから、自分で作れと言われるのは正論かもしれない。でも、人工透析あとは歩くのもキツイのですよ。もちろん、身体を起こしておくこともね。頭は重いし。

それに、透析中は資格試験の勉強も無理をしながらしてきました。

ずっと自立の為に頑張っていました。少しでも家族に迷惑をかけまいと。

さすがに、家族の手伝いが欲しかった。しかし、私はそれを言い出すことが出来ない状況にありました。


兄貴は完全に引きこもりに


兄貴も私も当時、司法書士という合格率3%未満の超難関国家資格の勉強をしていました。しかし、精神病を患っている人間がまともに勉強出来るほど甘い試験ではありません。

特に、女に夢中になっていた兄貴は、だんだんと勉強をしているフリが多くなっていきました。やっていないのはすぐにわかるのに。

精神病を患うと、虚言癖が出てきます。平気な顔で嘘を付くようになります。しかし本人には嘘をついている自覚は無いのです。

でも、理屈に照らし合わせると明らかに矛盾点が多いので嘘だと私にはすぐに分かりました。

そんな状態で働いてもいない兄貴です。彼女は看護師。当然、失恋してしまうのは時間の問題でした。

そして、兄貴は彼女と失恋してしまいました。

それからというもの、兄貴は部屋から一切出てこなくなり、何かあるたびに壁をドンドン!! 殴り暴れるようになりました。これが本当の「壁ドン」です。ははは…。

いや、笑えませんよ。

最初は私も母も止めていたのですが、母はだんだん怖がるようになりネットの世界へと逃げていきました。

私も相手をするのがきつくなり、暴れても無視するようになっていきました。

外では病院に通い人工透析でストレスを貯め、家の中は暗い。もちろん、雰囲気がという意味です。

私が病院から帰っても、「お帰り」の一言もない。兄貴は部屋へ閉じこもったまま。母はアメーバピグをしながらゲラゲラ笑っています。

もう耐えられない。この家には、私の居場所なんてもう無い。

私自身、前職でのパワハラによるトラウマ、資格試験や病院でのストレス、そしてストレスが原因なのか病状が悪化し、不眠から始まり、全身の皮膚が荒れ、うつ病を発症しました。

強い睡眠薬を飲んでも眠れない

母は仕事も休みがちになり、収入はどんどん減っていきました。

兄貴の貯金ももうすぐ尽きそうだということはだいたい予想がついていました。むしろ、借金でもあるのかもしれない、そこが心配でたまりませんでした。
(※後に判ったことですが、実際に消費者金融で借金をしていました。)

私の失業保険受給期限ももうすぐ切れるところまで来ていました。そして、今のままだと社会復帰など無理でしょう。それでもうちは貧乏だから私はお金を入れ続けないと生活出来ません。

今まで私は貯金をしっかりとしてきましたが、母や兄貴には貯金がありません。きっと私の貯金も失業保険がもらえなくなったら尽きるでしょう。

そうやって、未来への希望もなくなっていきました。

どうやって生きていこう。
いっそのこと、県外に出るか。

この頃、ネット収入やライターとしての執筆収入があった為、県外でも仕事が出来るような状態にはなっていました。

でも、さすがに私は一級身体障害者。ほかの精神的な病気との兼ね合いもあり、一人暮らしをするのには不安がありました。収入もまだ、不安定だったということもありますし。

この時「死」という言葉が頭の中をよぎっていました。しかし、まだ死にたいとは思っていなかったのです。
あんなことが起きるまでは…。

とうとう、指が動かなくなった


ある日、いつもどおりパソコンを扱おうと思ったら、指が動きません。つまり、タイピングをすることが出来なくなっていました。

恐らく、ストレスからでしょう。

やばい、タイピングが出来なくなれば文書を書く事も出来ない。どうやってお金を稼ぐんだ? そんな不安がどんどん強まっていきました。どうにかしなければ。どうにかしなければ。

焦れば焦るほど、指が動かず、精神的に困窮していきました。

そしてパソコンのモニターの明かりですら刺激を強く感じストレスになって点けていることが出来ませんでした。とりあえず、電源を切ろう。しかし、電源を切ろうとする指すらなかなか動かない。

きっと、うつ病の一種だ。

そう思い、急いで頓服(症状がひどい時に一時的に飲む為の薬)の抗うつ剤を飲みました。

それが身体に合わないものだったらしく、副作用で全身がムズムズ、そう例えるなら全身で貧乏ゆすりをしているような状態になりました。

そして、そのまま救急車を呼んで、運ばれました。それは、深夜12時過ぎのことです。

病院にて


私は救急外来へと運ばれた。基本的には救急外来は薬の副作用などの症状の場合受け入れてくれません。私の場合も例外ではありませんでしたが、ゴネにゴネ、救急車に運んでもらいました。

しかし、診察するのは研修医。そう、深夜の救急外来は右も左も分からない研修医が診察するのです。

診察内容はテキトウ。当然です。この人はまだ何も知らない研修医ですのですから。

「恐らく、薬の副作用でしょう。」

研修医は言いました。そんなことは素人でも分かります。でも、私が飲んだ薬は元々「胃薬」として昔は使われていた弱いものです。なんで副作用が出た? 予防法は? 

弱々しくしか話せない私の質問に対してなにも研修医は答えないまま、私は病院から帰ることになりました。

また何か異変があったら病院に来てくれと。何かあってからでは遅いのですけどね。

(※皆さんは深夜の救急外来は何も分かっていない研修医が担当する、ということを忘れないでください。重い病気だった場合、そのことが原因で死んでしまうことがあるくらいです。絶対に救急外来に運ばれなくてもいいように、普段から健康には気をつけてください。)

そして…

病院へはちゃんと二人共付き添いで来てくれました。でも、家に帰るとまたすぐにインターネット。私は薬の副作用で苦しんでいるというのに。

この人たちに将来の不安などはないのだろうか。私は不安でいっぱいでした。特に、お金のことです。

そして、そういった状況にまた耐えられなくなり、とうとう2度目の自殺を決意しました。今度は勢いではなく、どこか冷静でした。

二度と自分が捜査されないように、パソコンを含め、身の回りの物を車に詰めだしました。それを見て、母は自殺ではなく家出だと思ったのでしょう。止めませんでした。むしろ、

「手伝おうか?」

と呑気なことを言い出しました。

「嫌味かババア!!」

私は心の中でそう言い放ちました。

私の母は、若い頃に苦労したせいで精神的なものからなのか、生まれつきなのか、人の気持ちが理解出来ないところが昔からあります。

おそらくADHDという発達障害でも持っているような気がするのですが、病院にかかってもらったことがないので詳しくは分かりません。

たぶん、これもイヤミではなく本当に手伝おうとしたのかもしれません。

私はもちろん手伝わせず、黙々と荷物を自分で詰め、最後の仕上げに、インターネットのルーターをぶち壊しました。

「こんなものさえなければ!! こんなものさえなければ!!」

私は涙を流しながらそれを壊しました。粉々になるまで。

こんなものさえなければ、インターネットさえなければ家族は崩壊しなかったかもしれない。そういう全ての、全身全霊の怒りをインターネットのルーターに思いっきりぶつけました。

インターネットが大好きな私が、この時ばかりはインターネットに逆恨みをしていました。

そして、私は家を出ました。

この頃は、ちょうど東日本大震災から数ヶ月しかたっていなかったので、福島の様子でも見に行こう。そして、それを見て生きる希望でも湧いたらいいな。そう考えていました。

そう、直ぐに死にたいわけではなく、

「生きる希望」

これを私は欲しかっただけです。

それを見出すことが出来なかったから、この2度目の自殺未遂は、1週間という制限時間内で「生きる希望」を探す、ゲームのような感覚で私は捉えていました。

だから、特に死ぬのが怖いだとも思わなかたし、自分が死ぬとも思っていませんでした。ただ、もう二度と人工透析はしないと心に決めていたのです。

あんな辛いことを一生していくなんて私には耐えられない。

今思えば、人工透析中に、頭の働かない状態(人工透析中は本を読むスピードで言うと3分の1以下になるくらい、頭が働かなくなる)で司法書士試験(合格率3%未満)の勉強をしていたのもストレスになっていたのでしょう。

実際、日商簿記2級や販売士2級などは透析中のベッドの上の勉強で取ったものです。かなり無理をしてね。

だから(透析はもうしないと決めているのだから)矛盾するようだけれど、希望が見つかったところで死ぬことには変わりがありませんでした。


家を出る前に


家を出発する前に、兄貴が私の車の前に立ちはだかり、

「出て行くならお前の壊したルーターを片付けてから出て行け!!」

と叫び、ハイジャンプをして車の窓ガラスに四つん這いで飛び乗ってきました。その姿はまるで、バイオハザードのゾンビか、ストリートファイターのブランカのようでした。

そして、車のドアを無理やり開け、私の首根っこを掴んだので、私は、

「傷害罪で訴えますよ。」

と一言、冷たく放ちました。すると兄貴は、

「じゃあこっちは器物損壊罪だ!!」

と言い出したので、「お好きにどうぞ」と一言放って、その場を急いで離れました。

(どうやら、病院に行くお金すら使い果たしていたらしく、この頃は薬を飲んでいなかったようです。それが、このような奇行の原因でしょう。)

家を飛び出して


しばらく道を走っていると、直ぐにパトカーが私を追ってきました。本当に兄貴が警察に電話したのでしょう。

警察が、

「ちょっといいですか?」

と聞いてきたので、私は、

「任意同行ですよね。では拒否します。急いでいるので。」

と言うと、警察は、

「いえ、スピード違反です(ニッコリ)」

と言って、たった3キロオーバーで私の車を止めました。さすが国家権力。どうやっても逃げられないようにいくつも手を打っているわけですね。

本来なら5キロオーバー以内は違反にならないはずですが、このときはそんなことを考える頭の余裕がりませんでした。

そして、結局ただのスピード違反としてつかまり、違反切符だけ切られてその場の警察の対応は終わりました。

車の中の荷物がとても多いので(家の中の自分の荷物をほとんど車に積んでいたので当然ですが。)警察からは、

「今からどこへ行かれるのですか?」

と聞かれたのですが、私は、

「どこでもいいでしょう。あなた達に答える義理はない!」

と半ばキレ気味に答えてその場を去りました。

普通なら後日に違反金を支払いに行くのでしょうけれど、私はどうせ生きていないだろうから関係無い、そう思い、急いで九州をあとにしました。

旅立ちの前


「死にたい」

と思う人の中にも様々な人がいて、勢いでその場で自殺してしまう人、死ぬ勇気はないけど願望はあるから自傷行為(リストカット)に走る人、誰か止めてくれれば自殺したいという気持ちが収まる人、本当に様々な人がいます。

私は、誰かに止めてもらいたい、という気持ちが強い人間ですのでしょう。でも、ただ止め、心配してもらうだけじゃ何も感じない。説得力のある人から止めてもらわないと止まらない人間です。

それで、今回もやはりmixiでSOSの書き込みをしました。

でも、今回の反応は前回とは全く異なりました。騒ぐ人がいない、2回目、というのも大きいのでしょう。

「死ぬなら勝手に死ね!!」

「かまってちゃん。どうせ死なないんだろ?」

「イライラする!! ふざけるな!! もう書き込みするな!!」

「気持ち悪い…」

「そんな書き込み見てもなんとも思わない。」

と散々な書き込みをされました。私が生きていたからよかったものの、死んでいたらこの人達どうしていたのでしょうね。

まぁ、

「あの時、私が止めていたら…。」
なんて、後になって人目を気にして演技をする人も出てきそうで恐ろしいのが人間です。

でも、これでもう思い残すことはなくなったわけです。腹が立つ、という気持ちよりも、私は逆に清々しい気持ちで旅立つことが出来ました。

「こんな腐った奴らとも、もう会うことも無い」

のですから。

【死までのタイムリミット 残り1週間】

久々の本州


「福島へ向かおう」

これは東日本大震災以来ずっと考えていたことです。でも、私は週に3回、1日5時間は病院で延命治療を受けないといけない。その為、時間や日数が制限されていてなかなか行くことが出来ませんでした。

今は1週間の猶予しかないとはいえ、「自由」です。出来なかったことをやろう。

私は車の中にギターも積んでいた。音楽は人を元気にする力があります。自分自身が元気じゃないのに人に元気を与えることが出来るのか、今考えると疑問です、その時はそう考えていました。

「福島で歌を唄おう。」

でも、芸能人でも無い私が、特別に歌が上手いわけではない私が歌を唄ったところでどこまで役に立てるのか分かりません。そういうものも必要だけれど、今一番、福島に必要なのは、「金」じゃないか?

私はどうせ死ぬのだ、こんな貯金なんて全部福島に寄付してしまおう。日本赤十字なんかに寄付してもなんだかしっくりこない。だから、自分の手で福島の自治体に渡しに行こう。

そう考えて、自分の持っている貯金を全部おろしました。その状態で福島へと向かっていました。

何故だろう。別に死ぬのが怖いなんていう感情は全くないのに、また涙が止まらなくなっていました。

・なぜ自分の家庭はあんなに酷い状態なのだろう。

・幸せな家庭ってどんなのかな。

・次は、幸せな家庭に生まれたいな。

輪廻転生(人は死んでも別の人間として蘇り、それを繰り返している)という宗教的な考えを全く持っていない無神論者な私がこのようなことを考えていました。普通の精神状態ではなかったのでしょう。

名古屋にて


死ぬ前に一度、行ってみたかった場所の一つに「名古屋」がありました。

1回目の自殺未遂で助かった時に、遠方からバレンタインチョコを送ってきてくれた「カナちゃん」の住んでいる場所だからです。

私は”優しさ”に弱くなっていたのでしょう。たった小さな箱のチョコレートを貰っただけ。それも同情でのもの。義理。

そんなことは分かっていたし変な期待も全くしていませんでした。それでも、その気遣い、優しさが心に染み渡っていたのです。

年に1度しか帰ってこないその子に1年半以上も片思いをしていました。会えるわけでもないのに。普段、連絡も繋がらないのに。だから、死ぬ前にその子に会って気持ちを伝えたかった。

でも、私は常にどういう状況でもどこか冷静です。そんな死にそうな人間から告白されても気持ち悪いだけです。

本来なら福岡に住んでいるはずの人間が名古屋にいる時点で普通に考えて気持ち悪いでしょう。怖いでしょう。

こういう時、私のような男は弱いもので、好きな子に助けを求めたくなります。「死」を覚悟しながらも、どこかで助けを求めているのです。それは普通の友達じゃダメ。そこが私の「甘え」でしょう。

本人に迷惑をかけたくない。多分もう彼氏もいるだろうし、私みたいな人間が行っても向こうもどうしていいか分からないでしょう。

だから、連絡も取らず、会うことも諦めました。意外に冷静な判断が出来たと自分でも思います。

記念に、少し、名古屋の街並みを眺めて、名古屋をあとにしました。

名古屋の都心部は福岡などと比べ物にならないほど高層ビルが立ち並んでいました。しかし少し郊外に行くと田舎で、田んぼなんかも残っているのだな。そんなことを思いながら名古屋を巡っていました。

そして、また高速道路に乗って、パーキングエリアで仮眠を取ることにしました。

この時、出発から2日が経過していました。

【死までタイムリミット 残り5日】

新潟へ到着


私は重度の不眠症持ちで睡眠薬などは持ってきていなかったので、仮眠といっても1時間ほどしか眠ることが出来ませんでした。(そういうのを持っていると下手に警察に調べられても嫌だったのでわざとに持ってこなかったのですが。)

2日で1時間しか寝ていないにも関わらず、不思議と疲れはありませんでした。おそらく、透析をしてないことによる体の老廃物、長距離運転によるアドレナリンなどが疲れを感じないような状況を作り出していたのでしょう。

そういう状況下で新潟に到着しました。福島県のお隣の県です。

本当は名古屋から福島へ直で向かうはずだったのですが、道を間違えてお隣の県についてしまったのです。もしかしたら、無意識のうちに放射能を私の本能が避けたのかもしれません。どうせもうすぐ死ぬから関係ないのにね。

「放射能浴びたら、変な化学変化でも起こして私の腎臓治らないかな。」

こんな不謹慎なことも考えていました。割と本気で。

では、福島へと突入しますか。でも、ここまで来たらもう携帯の電源を入れても大丈夫かな。たぶん、捜査願いも今回は出していないだろうし。

そう思い、今まで切っていた携帯電話の電源を入れました。

すると、前回よりは圧倒的に数が減っていたものの、やはり今回もメールや留守番電話が何件も入っていました。

心配してくれていた人、いたんだ。


国が福島で行ったこと


ここで、福島の震災を受けて国が臓器移植患者達に行なった仕打ちを一つご紹介しましょう。

東北の震災で沢山の人が亡くなりましたよね。ということは、ちょっと言い方は悪いかもしれませんが、津波で跡形もなくなった遺体を除けば、臓器提供の意思表示をしている人の中で、臓器提供の出来る状態の遺体もあったはずです。

しかし、国家は東電は福島の対応に追われていた為、医療現場までパニックを起こさないように、と配慮したつもりですのでしょうが、臓器移植ネットワークを通じて、

「法改正により、今回の震災で亡くなった方の遺体はその県内の住民、及び医療機関でしか移植に使うことは出来ません。」

という声明を発してきました。

震災の起きた地方では医療機関が麻痺していた為、当然のごとく、透析患者など、移植の必要が患者達は県外の病院に移されていました。

ということは、この声明は実質、臓器移植に使える遺体(移植に使用していいという意思表示をしているもの)をすべて放棄する為に発した声明、だと言えます。

東電の問題ばかりがクローズアップされがちですが、医療現場ではこのようなことが起こっていたのです。

話は少しそれてしまいましたが、知っていて欲しい現実だったのでここに書きました。


「理解出来ない」人間、「優しさを持った」人


mixiの日記のコメントを開いてみたら、「死」というものを理解していない人間(いい年したオッサン)や「死」というものを理解した気になってしまっている勘違いミュージシャンが私に対して見当違いな説教・罵声をコメント欄で浴びせていました。

そのような人間に対して、身体障害者の兄を抱えた私の小学校からの幼馴染「シバ」が必死に戦ってくれていました。

彼は感受性がとても豊かで、人の気持ちが理解出来る人間ですので、私の置かれている立場をまるで自分のことのように感じてくれていたのでしょう。本当に、嬉しかった。

一度も会ったことが無いのにいつも「今年こそはだいちゃんと会えたらいいな」と毎年声をかけてくれる人生の先輩・「晃さん」やその奥さん「愛さん」がメールで心配してくれていました。

「東京の近くにいるなら、死ぬ前に自分のところへ話をしに来い」

と。それからでも死ぬのは遅くないだろ? と。

(※これを書いている時は会ったことがなかったけれど、後に私の住んでいる福岡で実際にお会いしました!)

同じく、一度も会った事がないけど私と会ってみたいと言ってくれていた、同じ病気を経験したことのある東京の女の子は必死に何度も私の携帯電話に留守番電話を入れてくれていて、何かあったら自分のところに泊まりに来ていいから、ちゃんと人工透析をどこの病院でもいいから受けて! と連絡をくれていました。

いつもお世話になっている、地元で開業医をやっている人生の先輩も、心配だから帰っておいで、とメールをくれていました。

そして、昔からの音楽仲間でもあり男女間を超えた友情があると私が思っている「リエちゃん」という友達が何度も私に電話をくれていて、私が電源を付けたときにその子からタイミングよく電話がかかってきました。

私が、

「今回は本当に死ぬと思う。なんか、どんな説得の言葉も心に響かない。そういうのを感じなくなってしまっている。心が死んでしまったのかもしれない。もし健康体だったら、山の中で畑でも耕しながら本を読み、ゆっくりした人生を送ってみたかったな。」

世の中の様々なことに疲れていた私は、そんなことを口走っていました。これは本心です。俗世を離れ、一人で山の中で何年か過ごしてみたかった。

諸葛(亮)公明が俗世を離れ、山の中で畑を耕しながら本を読みあさり、知識を蓄えたように。私もそのような生活がしたいと本気で思っていました。だがそれも叶わぬ夢。どうせもうすぐ死ぬのだから。

するとリエちゃんは、

「自分の宮崎にいるおばあちゃん。凄い広い畑を持っているけれど後継者がいないんだって。部屋も空いている。だから、もしよかったらそこで生活出来るように頼んであげるよ。だから、一度、戻ってきて話をしようよ。」

理屈っぽい私の脳には、下手な同情の言葉より説得力のある言葉でした。そうか、別にサラリーマンをしなくても、家を出ても生きていく方法なんてあるんだ。

そして、リエちゃんは続けました。

「宮崎には、本当に何年も山から降りてこない仙人みたいな人もいるよ(笑)そういう人でも普通に生活して生きている。宮崎は人も優しいし、だいちゃんも知っている私の可愛い従姉妹もいるよ。だからとりあえず戻ってきて。」

そうか、宮崎は暖かいし寒がりの私にはちょうどいい。マンゴーも好物だし向こうじゃ安いらしいし。宮崎で農業するっていうのもありだな。

身体的に農業は無理だろうけど、そこは私のITや経営の知識を使って人を雇えば、新しい事業を考えることも可能かもしれない。

色々なことを考えた結果、私は福島へは行かず、そのまま戻ることにしました。
(※余談ですが、福島に行ったあとは北海道まで行って、そこで永眠するという予定を立てていました。私のことを誰も知らない地で、ひっそりと。)

【死までタイムリミット 残り4日】

帰路、兵庫にて


福岡へと帰宅途中、兵庫の高速道路上で車のガソリンがなくなってしまいました。

携帯の充電もし忘れていて、携帯電話も使えない、さて、どうしたものか。

取り敢えず、発炎筒を焚いてみました。効果は無し。

家に帰るまでに最低でも3日くらいはかかると思っていてもいい。私の寿命は1週間。ギリギリだ。ここで時間を食うわけにはいかない。しかし、そこで、高速道路上には緊急時にかける電話があることを思い出しました。

それを探すために高速道路上の脇を歩いて電話を探しました。

けれど、そのせいで高速道路は大渋滞。電話も一応かけましたが、かけなくてもすでに警察がかけつけていました。一応、言っておきますがダジャレではございません。

「困るんやわこういうの。ちゃんとガソリンくらい切らさんようにせなな~。携帯電話貸したるから、JAFに電話しとき。」

そう言って、兵庫県警の警察官は携帯電話を貸してくれて、なんとかJAFを呼ぶことが出来ました。

保護願い、今回は出ていないのだな。そんなことを思いながら。

本当は私、違反を何個も犯していたらしいのですが、県警の方の計らいで一番軽い違反にしてもらえました。こういうところ、本当に関西は人情があるなと思いましたね。

心が弱っている私は、こういう一つ一つの「当たり前のような優しさ」に、この”自殺未遂の旅”の間、何度も感動していました。

兵庫のガソリンスタンドの兄ちゃんのサービスに感動し、パーキングの食べ物屋のおばちゃんの対応に感動し、本当に関西は人情あふれる街だなと思いました。

当たり前の優しさ、それをありがたいと思う心を忘れていた自分。人に優しくすることを忘れてしまった人間。どちらも罪なものです。

【死までタイムリミット 残り3日】

帰宅


丁度、1週間ジャストで家に帰り着きました。でも、兄貴は相変わらず部屋に閉じこもったまま、私の心配などしていませんでした。

母も、

「帰ってきたの。とりあえず病院行ったら?」
という軽い態度。何も変わっちゃいない。バカなのかこいつら? これだけのことが起きて、本当に何も感じなかったのか? 私は絶望しました。

そんな時でした。

心臓に異変が起きたのです。心臓がむき出しの状態で太い縄のようなもので思いっきり縛られているような痛み。そういえば何かの本で読んだ事がある。

「人工透析患者の死因には、心筋梗塞や脳梗塞などがある。」

そうか。たぶん今、私は心筋梗塞の手前まで来ているのだな。こんな状況でも冷静に分析できる自分に、すこし呆れさえします。

この姿を見て、やっと母が動揺しだしました。

「救急車呼ぼうか?」

やっと口にした言葉がこれです。だけど、私はそのまま救急車に運ばれて助かろうなどとはまだ考えていませんでした。私は母や兄を許したわけではないからです。

そこで私は、

「本当に子供の心配をしているのだったら。今までネット中毒だったこと、障害者の息子に兄の相手をさせてきたことを謝れ!! 俺にどれだけ負担をかけてきたか想像してみろ!! 俺のことを勝手に強い子供だと勘違いしているなら言ってやる。お前らが俺に頼りすぎてきたことは全部俺の負担になっていたんだよ!!」

今まで思っていたことを全部吐き出した。痛む心臓を抑えながら。

それでも母は謝ろうとしません。母は元々、「謝罪」ということが出来ない人間です。それが例え、自分の実の息子が死にそうであっても。そうやって今まで職場などでも揉めてきました。発達障害によく見られる症状です。

そして、だんだん痛みで声の出なくなってきた私は、最後の力を振り絞って、蚊のつぶやきのような声でこう言い放ちました。

「お前の…腎臓を…よこせ…。」

そうして、私は意識を失いました。

【死までタイムリミット 残り30分】

総合病院の集中治療室にて


気がついた時には私はICU(集中治療室)で治療を受けていました。医師や看護師が何かバタバタしているのは朦朧とした意識の中でも感じていた。そして、医師が、

「もう大丈夫です。~が(おそらく何かの数値)安定しました。」

それを聞いて、そうか、私は助かったのだな。そこで私は自分が生きていることがはっきりと分かりました。

すると、聞いたことのある声が、

「あんた、誰かと思えば、こんなところで何をやっているの(笑)」

昔、人工透析病棟にいてよく話しかけてくれていた看護師さんでした。そういえば、ICUに移動したという話は他の看護師から聞いていたけれど、こんな形で再会するとは思いませんでした。

こんな死に損ないの私に、何事もなかったかのように豪快に笑いながら話すその看護師さんになんだか少し救われたような気持ちになりました。

他にも、様々な看護師さんが私の話を聞いてくれました。
どの看護師さんに話す時にも、涙が止まりませんでした。
人工透析を1週間もしていないのは異常ですのですぐに透析を受ける必要がありました。

そのほんの少しの待ち時間でさえ話を聞いてもらい、涙を流しました。

人工透析中も入れ替わり立ち代り、看護師さんが入ってきて話を聞いてくれました。

ずっと涙が止まりませんでした。

今まで恨むことすらあった、医師や看護師などの医療関係者。前に自殺未遂を行った時の原因も医療関係者だったからです。

でも、そういう一部のおかしな看護師や医師は除いて、私ら患者は色々な人、友達や医療関係者に支えられて生きている。

やっぱり、医療関係者は尊敬出来る職業です。小さい頃に入院していた子供が看護師や医師を目指したくなる気持ちも今ならなんとなく分かるような気がしました。

今の看護師は、待遇や世間体の良さ、男性ウケがいい、そんな理由から目指す人間も不景気の影響で増えてきたから、これも世間で誤解を生んでいる原因なのではないでしょうか。

もっと、職場環境を改善して、看護師という仕事に誇りを持って挑める人が、これからの若い人にももっと増えたらいいな。そんなことが、ふと頭をよぎりました。

緊急人工透析を終え


兄貴と母が迎えに来ていました。一応、心配はしていたのでしょう。

兄貴は、相変わらずテンションがおかしい。いわゆる「躁」状態です。無駄にテンションが高い。弟が死にそうになっていたということすら、理解出来ない状況まで病状は悪化していました。

母とは、今後のことを話し合うことになりました。このまま家にいるより、家を出た方がいいんじゃないか、とか、その為にはお金を貯めたい。だから自分たちの生活費は自分たちでなんとかしてくれ。俺も自分の分は自分でなんとかしていく。

そんな話をしました。

今まで、障害者という身分でありながら貧乏な家にずっとお金を入れてきました。兄貴が働けない(働かない)、ということもあって。

病気のせいなのは分かっています。でも、こんな兄貴やネット中毒の母のために泣けなしのお金を入れるのがバカらしくなっていました。

おそらく、私が家にお金を入れないと家計は成り立たない。キャッシング(消費者金融からお金を借りる)でもすることになるでしょう。でも、なんとかして兄貴を働かせて生活出来るようにしてくれ。どうしても足りなければ出すから。

そういう話をしました。

この二度目の自殺未遂以来、母のネットをする時間はだいぶ少なくなりました。ご飯を作る時間になると、パッとやめてご飯の用意をしてくれるようになりました。

私の行動も、無駄ではなかったのだな。

そうして、私の2回目の自殺未遂は幕を閉じたのです。もう3回目が無いように願いながら。


後日 その1


私はカナちゃんにメールをしました。勿論、自殺未遂をしたことを隠して。

そして、私が2度目の自殺未遂中なのにも関わらずmixi上のメールで暴言、罵声、罵詈雑言を浴びせてきた大男のオッサンがいました。そのオッサンと私、カナちゃんは共通の知り合いだったのです。

私は自殺未遂後もKちゃんへの恋心は変わっていませんでした、その大男のオッサンがカナちゃんに余計なことを言って嫌われるのを避けたかった。(例えばワザとにカナちゃんが私を嫌いになるような発言をする。そういう攻撃的な男だったので。幼馴染シバとmixi上で一番喧嘩をしていたのもこの大男でした。)だからメールをして、大男が何か余計なことを言っていないか確認しました。

カナちゃんはとても困ったような声で、

「よく分からないけど、何も言われていないよ…。」

と言いました。

そして、私が一番気になっていたのがmixi上で情報を見る限り、カナちゃんがヒモ男を養っているような状態だということがなんとなく分かりました。だから私は真相を確かめるべく、そこに対して突っ込んだ話をしました。

すると、いつもは優しいカナちゃんが豹変。

「お前、気持ち悪いんだよ!! 余計なお世話だっていうの!! 私のことを探るな!! 本当に気持ち悪い。」

私はカナちゃんに嫌われたくなかった。ただ、カナちゃんには幸せになってもらいたかった。本当なら自分が付き合いたい気持ちはあったけれど、住んでいる場所が遠いので、せめて幸せになってほしいと願って突っ込んだ発言をしてしまったのです。

そこで、

「俺、カナちゃんのことが大好きだから、だからどうしても気になっちゃって…。カナちゃんにはどうしても幸せになってもらいたくて…。」

余計なお世話だったことは100も承知です。でも、自分の好きな子がヒモ男に捕まっていると思うと心が苦しくなる。それが男ってものでしょう?

そして、カナちゃんは言いました。

「もう連絡してこないでね。電話もメールもブロックするから。」(この当時、LINEはまだありませんでした。)

そして音信不通になりました。でも、その後も電話をかけてみたけれど、電話には出ないけれどブロックされた形跡が無いんですよね。

何故、そんなことを言ったのか。

優しいカナちゃんのことです。プラス思考過ぎるかもしれませんが、自分のことを恋愛的な意味で「好き」だと言っている相手に対して思わせぶりな態度をとってはいけない。逆に突き放すのが本当の優しさだと思っての行動じゃないかな、と思っています。

(余談ですが、その後、大男はカナちゃんと食事に出かけている画像をわざわざ私に送りつけてきました。大男をブロックし忘れていたので。勿論、速攻でブロックしましたけれど。)

後日 その2


私が透析導入時、たまたまネットサーフィンで見つけた「偽ダッシュ村」という、アイドルグループTOKIOがテレビ番組「鉄腕ダッシュ」で行っている村づくりを模倣して地元で村づくりを行っている人達がいます。

そこの村長であり個人で美容整形外科を経営している仲良くさせていただいている「右田先生」がいます。

その先生が私が自殺未遂の旅から帰ってきて、病院から退院した直後に連絡をくれました。

「好きなだけ友人を誘っていいから、皆でご飯を食べに行きましょう。だいちゃんの大好きなあのイタリアンのお店です。」

私は自殺未遂のあとだということもあって、この心遣いがとても嬉しく、テンションがとても上がり、片っ端から友人達に声をかけました。

この先生、地元では市長とも対等に話が出来るくらいの権力者でもあります。(権力を振りかざすようなタイプの性格ではないのですが。)そういう凄い人がご飯を奢ってくれる、しかもイタリアンだよ! そうやって友人達に声をかけまくりました。しかし、自殺未遂の後だということもあって、私が虚言を吐いている、頭がおかしくなって変な人に騙されていると思った人も多かったのか、なかなか友人が集まりませんでした。

結局、集まった友人は二人だけ。いつも良く遊んでくれて私のことをとても心配してくれていた友人「まさやん」と「あやちん」です。先生からは、

「友達、少ないね(笑)」

と笑われてしまいました。いえいえ、本当は友人多いんですが胡散臭いと思われて誰も信用して集まってくれなかっただけですって!

その先生がご馳走してくれたのは高級イタリアンです。

私は育ちが悪いので友人達も当然、そんなに育ちの良い奴らではありません。

私は食べることが好きですのでイタリアンなどを食べに自分でも行きます。だからフォークやナイフを使うことも高級な料理にも慣れています。しかし、友人達はフォークやナイフで食べる食事に慣れておらず、また高級イタリアンなどにも縁が無い友人達だったので戸惑っていました。

しかし、そこは気さくな先生と、もう一人集まってくれた先生と私の共通の友人である女性の方が場を盛り上げてくれて、友人達もだんだんとそういった場に慣れてきました。

高級イタリアンをご馳走になった後は、「エロ酒場」と呼ばれるバーへと向かいました。エロ酒場と言っても、店主(男性)が下ネタをひたすら話すという、別にエロくは無いバーです(笑)

そこの店主の下ネタが友人あやちんの笑いのツボにはまったのか、終始笑いっぱなしでした。

楽しい夜を過ごさせてもらいました。

友人あやちんは帰り際に、

「夢のような時間をありがとう。」

と一言。この友人はとてもお金に苦労している人生を送ってきている子です。高級イタリアンなんて食べたことがない。この子にとってはとても夢のある時間だったのでしょう。

私自身も20歳で透析導入になってからこの先生にネットサーフィンでたまたま出逢い、今までお金持ちしか集まらないようなパーティーに出席させてもらったりと、様々な「夢」を見させてもらっています。

こんなにも人に恵まれているのに、私は何故、自殺などしようとしたのだろう。冷静になって考えるきっかけを先生がこの食事会で与えてくれました。

本当に、有難いことです。

後日 その3


mixiのとある恋愛コミュニティで、とある子の恋愛相談に乗っていて、そこで出逢ったプロのバレエダンサーの「花ちゃん」という子がいました。

どうやらその子はバレエの業界では有名な子らしく、グーグルで検索してみると、トップに名前が出るほど。バレエの世界のこと、私は良くわからないけれど。

自殺未遂中、友達からは沢山のメールや電話がかかってきていたのですが、その中でも気になったのが、花ちゃんからのメールでした。

「束の間の自由。あなたはその間、笑顔でいることが出来ますか?」

普通の精神状態の人が読んでもなんとも思わないような内容かもしれません。しかし、「死ぬな!」「頑張って生きろ!」というような激励よりも、私の心にはこの言葉が一番染み渡りました。

その子は普段、東京のバレエ団で活動をしている子ですが、前々から福岡で公演がある時には、絶対、舞台を観に行くという約束をしていました。

その約束を覚えていてくれていたのか、自殺未遂後、hう福岡で開演されるバレエ舞台の案内メールが届き、会場の場所を示す文章と共に、

「会場のロビーにチケットを用意しているので、受付で名前を言って貰って下さい。」

という文章が添えられていました。

自殺未遂で心がまだ病んでいる私は、少しでも元気を出したくて、その舞台を観に行くことにしました。約束もしていたことですし。

会場に着いてビックリしたのが、会場の規模が2000人は収容できるであろう規模だということ。周りが金持ちそうな人ばかりだということ。

そして、受付がテレビ局のアナウンサーばかりで、募金活動なんかもやっている。

もしかして、これって凄い舞台なの? 私は金持ち芸術のことには疎いので、頭が混乱してしまいました。

どうやら、チケット倍率も凄くてなかなか手に入らない、”超が付くほど有名な日本のバレエ団の公演らしい。そんな凄い舞台に出るような子だったのね…。
(熊川哲也主催のK-バレエカンパニーというバレエ団の公演です。)

そういった場所ではジーパンは禁止なのですが、そんな舞台だとは知らず、小さな劇場でこじんまりとやるようなものだと思っていたので、当然ジーパンに普段着でやってきた私…。周囲から、さぞかし浮いていたことでしょう。

しかし、そうも言っていられません。早速会場内に入って、舞台を観ることにしました。

よくよくチケットの番号を確認してみると、S席のど真ん中、一番舞台がよく見える場所のチケットをプレゼントしてもらっていたのです。

私は、この心遣いに舞台前から既に涙が出そうでした。

そして、舞台が始まると、

・BGMは生オーケストラ
・舞台はセリフ無しで全て生ダンス(バレエ)

セリフの無い舞台なんてみて楽しいわけがない、そう今まで思って生きてきた私は、自分を恥じました。

体中に電気がほとばしるような感覚。感情が高ぶり、オーガズムへと誘うような心地よさ。

そして、そういった感覚とは真逆な、まるで人形劇を見ているようなウキウキ、ワクワクが心の中を満たしていきました。

ありがとう…。ありがとう…。

私は心の中でなんども呟きました。目元は涙で溢れかえっていました。

そんな気持ちのまま、夢のような舞台は終了しました。

舞台終了後、チケットをもらったままではマズイ。なにせ、定価でも12000円はする代物。ヤフーオークションなどで見るとプレミアが付きまくって高騰するようなチケットをタダで貰うわけにはいかない。

そんなことを口実に、その子を舞台終了後、食事へと誘いました。

食事をしながら、私が知らない世界の話を、グローバルな話を、バレエ業界のことを、色々と話してくれて、私の知識欲はどんどん満たされました。しかし、舞台が終わったばかり。長居させるわけにもいかないので、キリの良いところでお別れをしました。

また、次の舞台を見る約束をして。
(現在は海外でプロのバレエダンサーとして活躍しているようです。)

後日 その4


自殺未遂の為に高速道路代やガソリン代、車の修理費などで私の所持金は残り2万円くらいにまで減っていました。

障害年金を貰っていて、自分達のことは自分達でやってくれ。俺はもう家にはお金は入れない、と言ったものの生活が苦しそうだったのと自分がまだ実家にいることを考え、障害年金は全額家に入れることにしました。しかし、その状態のままだと私の所持金は枯渇してしまう。

どうしよう…。

働きたくても、ただでさえ障害者は仕事が無いのに自殺未遂の後遺症でまともに働ける状態ではなくなっていました。でも、さすがにもう自殺をしようという気持ちはありませんでした。いえ、全く無いといえば嘘になるのですが友人達に迷惑をかけたくないので頑張って生きようと決心したのです。

でも、どうやってお金を稼ごう。あらゆる手段を考え、手を尽くしました。

インターネット上でライターを募集していたので、ライターに応募し、私はフリーライターになりました。しかし、駆け出しのフリーライターが、それもWEB媒体のライターがすぐに飯を食えるほどお金を稼げるはずがありません。

そこで、ブログを開設してアフィリエイトを始めました。友人の紹介で、SKYPEの今で言うLINEのグループチャットのようなグループ、「ニート窓」という、インターネットのアフィリエイトだけで生活している人達のグループに入れてもらいました。
そこには様々な生い立ちの人がいたので、私のような人間の境遇も理解してくれて、すぐに仲間に入れてもらうことができました。

その中でも、元不登校児で当時ニート(インターネット収入のみで生活をしている)弱冠20歳の男の子がいました。

その子は発達障害を抱えていて、それが原因なのか分からないのですが両親が理解を示してくれず、厳しい家庭だった為に家を追い出され、でも対人恐怖症やうつ病などの精神疾患を抱えていた為、普通に働くことが出来ない。だからインターネットで収入を稼いで一人暮らしをしている、という壮絶な人生を送っている子でした。

上には上がいるものだな。私は素直にそう関心しました。

その子はニート窓のリーダー的存在で、ニート窓の中でも私のことをよく心配してくれて、インターネットでのお金の稼ぎ方を色々とアドバイスしてくれました。

私も法律の知識があったので、その子が犯罪に巻き込まれた時、どういう団体を頼ったらいいか、どういう風に対応したらいいか、などのアドバイスをインターネット越しにしていました。

そうやって、ニート窓のその子、「ロミ君」と仲良くなっていったのです。

ロミ君のおかげで少しだけですがインターネットでの収入が得られるようになってきました。ブログというものもフリーライターをしながらやるにはうってつけのお金を稼ぐ手段、相性がよいものだったということも大きかったとは思いますが。

しかし、それでもインターネットの収入、ライターの収入だけで生活をしていくことは出来ません。

そこで、私は自分もその子も不登校児だった。家庭環境が複雑。そういうことを考え、そういった方面で仕事が出来ないかな。そんなことを考えるようになってきました。

そして、私は所持金を全部はたいて、中学生の3年分の副教科以外の教科書を全教科の分購入し、参考書や問題集なども揃えて中学生の勉強の復習をし始めました。

元々、勉強は苦手ではない、むしろ好きだったのでそれが不登校児や家庭環境が複雑な子達の役に立たないかな、そういうことを考えたのです。

そして、私は不幸当時、発達障害児、家庭環境が複雑な子専門の家庭教師になりました。フリーライター、アフィリエイター、家庭教師の3足のわらじを履いた生活の始まりです。

(ちなみにロミ君は法人を立ち上げ、社長になったようです。)

余談ですが、このニート窓の中には、日本初のコンピューターウィルス作成罪で逮捕された男性もいました。

エピローグ


小学生にして将来人工透析導入になる、と宣告され、その状態でマラソンに青春を費やした学生時代。恋愛も積極的に行ってきました。

教師にも恵まれず、学生時代の良い思い出といえば通信制高校時代くらい。

半寝たきり状態でも、活動できるときはパチスロで生活をするなど、アウトローな生活を送ってきた私。

1度目の自殺未遂の時には兄に助けられたけれど、その兄もだんだんと精神を病んでいって人が変わっていきました。それでも、兄以外にも沢山の人達に迷惑をかけ、そして助けられました。

2度目自殺未遂の歳には携帯の電源を点けた帰り道、透析不足、寝不足(1週間で3時間しか寝ていませんでした。)もあり、かなり錯乱した状態でmixiなどの日記を書いていました。

そういう日記をみて、ただ表面の文面だけをみて、私の置かれている状況、バックボーンの意識できない人たちは、

「気持ち悪い」

と言って離れて行った人もいます。

そういう私を気遣って、ちゃんと周りの友達たちに友人あやちんは、

「だいちゃんは今、大変な状況なのだから、ああいう書き込みは本来のだいちゃんの文章じゃない。だから、ああいうのを見てだいちゃんを嫌いにならないで。」

と声をかけてくれていました。

心配する素振りを見せるのが苦手な友人、江端はさりげなく、

「焼き鳥でも食いに行きますか!」

と誘ってくれました。

K-バレエカンパニー所属の花ちゃんが一番の特等席のチケットをプレゼントしてくれ、開業医である人生の先輩、右田先生は私の友達も呼んで高級イタリアンをご馳走してくれました。(ちなみに私は本格フレンチやイタリアンが苦手ですのです。貧乏育ちですので。でも、この開業医の先生の紹介してくれたお店の料理だけは大好物ですのです。それを覚えてくれていたのもとても嬉しかったです。)

ニート窓の人達(ほとんどが年下)、ロミ君も私の状況を察知してくれて色々なアドバイス、インターネットでのお金の稼ぎ方などを伝授してくれました。一人で生きていく方法などを学ばせてくれました。

なんだかんだ、私は周りの人達に恵まれています。

言葉に出すのが苦手な私は、この場をもってみんなに言っておきたのです。

「いつも、本当にありがとう。」

いつか、この人たちに恩返し出来るように、私は今でも文章を書き続けています。

だいちゃん(∀)

あとがき


私がこれまでに様々なところで書いてきた文章をまとめ、一つの物語にしあげました。

自分の人生を赤裸々に語るということはとても恥ずかしいことですが、それでも自分の壮絶な人生を物語にしたかったのです。それを沢山の人に読んでもらい、何かしら元気を与えることが出来ればいいな、という思いから書く決心をしました。

これを完成させるまでには本当に紆余曲折ありました。

時には頭が働かなくなり、文字数を稼げなくなり、途中で投げ出してしまおうか。本当に悩みに悩んで書いた物語です。

それでも、障害者の人生を、自分の人生を、そして、「死」や「病気」というものについて沢山の方々に知ってもらいたかったのです。

人が死にたいと思うときは、本当はまだ逃げ道があるのにそれを見つけることが出来なくなるくらいまで追い詰められています。または、本当に苦しみから逃れる方法が死ぬ以外にない。色々な状況がある。

だから私は、

「死ぬ勇気があればなんでも出来る」

この言葉が大嫌いです。どうにもならないことが世の中には沢山あります。

自分の子供が重度障害者だった場合、一生面倒を見なければいけないわけですけど、それに耐えることが出来るかどうか。自分の子供だったらどんな状態でも、例え植物状態でも愛せる人もいるし、ちょっとした障害があるだけで見捨てる人もいる。

障害者で小さい頃に見捨てられた子供が、希望を持って、

「死ぬ勇気があればなんでも出来る」

なんて思えるでしょうか。これは、精神面も身体面も健康だから発することの出来る言葉じゃないかな。

ちなみに、兄の病状は精神科無理やり通わせるようになってからだいぶ病状が良くなってきました。相精神的な病気は完全に治るわけではないので、職場で理解されなかったりして度々仕事をクビになったりしていますが、病気じゃない元の兄貴は優しい人間です。

どうやら、介護士になるために学校似通うことを決めたみたいです。

母も自分の母親(私からみると婆ちゃん)の介護をしながら、今は家の家事もちゃんとやっています。雑ですけど(笑)でも、家庭はだいぶ良い方向に向かって行っています。未だに兄貴とは口をきいていませんが、それもいつかは解決することでしょう。

あとは自分も含めた息子たちが結婚をして、子供を作って、幸せな家庭を築くこと。それが母に対しての一番の恩返しかもしれません。

いがみ合ってきた家族関係もこの事件をきかっけに終止符を打ちそうです。

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