9.11の時のこと

 9.11同時多発テロに出くわした時のこと。これを境に私の人生も変わり、アメリカの運命も変わった。

 同時多発テロ発生前日、私は自分が経営に関わっていたアメリカ企業の仕事で、台湾政府関係者を連れて自分の会社の研究所のあるイーストハートフォードに。夜はボストンに移動し、ボストン郊外のブルックラインの中華料理店にて接待。何しろ大型案件第一号。同時にアジア統括本部を台湾もしくはシンガポールに設置という話の最中。満足感に浸りながらの一日が過ぎていった。この頃は月2回ペースで日米を往復していた。

 翌日、日本への移動でボストン滞在先のハイアット・ケンブリッジを出発。折悪しく、ボストン市中心部は高速道路の地下化工事にて大渋滞。結果、ロス行きには搭乗できず、その後の午前9:30発シカゴ便に搭乗することになった。ちなみにこのロス行きはその後テロに巻き込まれ藻屑と消えた便だ。

 ファーストクラスラウンジにてロス便を見送った後、一時間ほどでシカゴ便に搭乗。ところがいつまで経ってもエプロンから出て行かない。そうこうするうちに、地上係員が血相変えて乗り込んでいた。「ハイテクテロだ。この空港は危険だ。ここから飛び立った便は行方不明だ。とにかくここから出てくれ。詳しいことはCNNを観てほしい」。

 ずいぶんと変わったことを言うなと思い、最初はなんのことやらさっぱり理解できず、隣にいたアメリカ人ビジネスマンは自分の携帯TVを点けた。そこに映った光景は、WTCに激突する航空機の映像だった。「ね、テロって言っていたよね。この映像は何だろう?映画?違うよね」。隣人と首を傾げつつ、「テロって言ってたよな」と確認しつつ、「こりゃ、ちょっと危ないな」と思いつつ降機した。

 人間、こういう修羅場では意外と冷静なもので、搭乗カウンターでとられた半券をしっかりと回収して、そのまま発券カウンターまで戻る。そして、「次の振替便なんだけれど」と尋ねた相手はセキュリティーの大男で、「非常事態宣言が出ている。とにかくここから出てくれ」と。

 ロビーにいた多くの日本人客が右往左往していたのだが、このうち何人かの宿の世話をして、自分が滞在するホテルも仮予約。その後、ボストン郊外にある本社に電話。もちろんこの頃は公衆電話でだ。向こうから聞こえてきたのはオフィスマネージャーの甲高い声で、「Masa(向こうではそう呼ばれていた)、どこにいるの。大変なことになっているよ。空港にいるの?」と。「いやあ、テロとか言っていたけれど、とにかく私は大丈夫。街までは何とか出るけれど、そこで何とかする。奥さんに連絡してくれ」ととりあえず返し、一路市街地まで。

 空港のロータリーではタクシー同士がクラッシュするわでパニック状態。しかし、私はまだ事態がよく理解できていないこともあり、「まずは街まで」ということでそこら辺にいた車で街まで出た。ラジオを聞いていた人は、「こりゃ大変だが、しかしどうすればいいんだよ」という呟き。ヒアリングに自信がない私でも、こういう危険な時には何とかなるものだと妙に安心。

 結局、市内の古い宿に入ったが、そこの光景も異様なもの。ホテルにいた皆の表情は硬いが、空港から逃げてきた私には「よくご無事で」と声をかけてくれた。さすがプロだ。危険な時ほど空腹になるのだが、レストランも開いていない。聞けば帰宅命令が出ているとのことだった。

 安宿だったこともあり部屋の空調は壊れていて、とにかく寒かったので布団にくるまってダイヤルアップ接続で関係者にメールを送ろうとするも、接続までに数時間。夕方になってようやくあちらこちらに連絡がつく。CEO、COO、マーケティング担当VPそして私という経営陣が電話越しで危機管理体制を固めた。

 同時に自宅にも連絡が付いていたが、日本ではWTCへの激突シーンが連続して流れていたようだ。実はボストンにいた私はその時点まで、あまりよく分からず、夜にかけてWTCの崩壊までの一連の出来事を把握した。

 この時点で資金繰り、調達にかかる物流、要員のやりくりや出勤体制などを決めていたのだが、予めBCPがあったおかげだ。アメリカ企業とはこういうところがしっかりしている。対日、対アジアは私の関わりだったが、同日中に関係企業や機関への連絡も何とか付けた。

 その後、領事館に連絡するも不まじめな対応に腹を立てたものの、大使館の方は親身になって対応してくれた。外務省はもっとしっかりしてくれということは、この頃から今の今まで感じる。

 結果的に事件後8日間、ボストンに滞在することになったが、近所のボストン大学ではミサが、レストランの関係者が予備役招集で「戦地へ」赴くシーンを観ることに。事件翌日からは低空飛行の戦闘機と主要道路の封鎖と移動制限など、まさに戦地での体験をすることになった。近くでは大捕り物もあった。

 そして空港再開当日、3時間もの時間をかけてのセキュリティーチェックには参った。とにもかくにも生きて帰れたことは幸い。

 ただし、この事件を境に、勤務先の会社は事業売却と清算、生まれて初めてのストック・オプションもバー。シンガポールビザまでとれつつあった移住機会もパー。私の人生はその後大きく軌道を変えることになる。そして、それからも縁があるアメリカも大きく戦争へと舵を切っていくことになる。

 この事件で実践された危機管理が、やがて遭遇することになる3.11の東日本大震災にて、現勤務先(日本企業)での危機管理担当役員としての仕事に大いに役に立ったことは、やはり運命のあやか。

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