「ことばの市民」のための日本語教育とは何か

降りしきる雨でスートーンヘンジ訪問をあきらめた後に立ち寄ったソールズベリー大聖堂には,4通しか現存していないと言われる「マグナ・カルタ」の写本が展示されていた。13世紀初めに王の権限を制限し,課税に対する市民の自由を保障したこの条文は一文字一文字が太く力強く綴られており当時の人々の気概を表すようだった。ちなみに,この条文の前文は現在でもイギリス憲法を構成するものとして有効であるというから驚きだ。


さて,先日の細川先生の「ことばの市民」という表現(ルビュ言語文化教育481号,http://archive.mag2.com/0000079505/index.html)を目にして,なぜかあの雨の日に見た「マグナ・カルタ」のことを思い出した。もっとも,直接的には結び付けようもないし,そこまで大げさな話でもないだろうが,とにかく「市民」という文字を見て思い出した。


「ことばの市民」のための日本語教育とは何か。それはどのような実践によって実現されるのか。細川先生当人に聞いてみたいと思った。が,その後で思い直した。それは自分で考えるしかない。己の実践を取り巻く状況と現象はその本人しか捉えようがないのだから,各々が自らの良心のもとにやればいい。誰かに聞いてみたところで仕方がない。


もし誰かが「それは,どのような実践によって実現されるんですか?」と問い,もし回答を得ることができたとしても,次の問いは決まっている。「それは私の現場では無理ですが,どうすればいいですか。」こういうやりとりをこれまで幾度も目にしてきた。知りたい,勉強したいという気持ちはわかるし,自分もぼんやりしていると同じ問いを投げかけてしまうのだけれども,たぶん,このような問いかけから得るものは少ない。


そこで「ことばの市民」のための日本語教育とは何かについてちょっと考えてみた。


まず,はっきりしていることは,「ことばの市民」なるもののための日本語教育を実践する者はやはりまず自分自身が「ことばの市民」でなければならないだろうということだ。そこで自分は「ことばの市民」だろうか,と自問してみたが自信はない。こう考えるとますます「ことばの市民」とは何であるかがわからなくなってしまう。もちろん,概念的にめざすところはわかる。しかし,その概念と身体感覚とが結びつかない。


では,どうすればよいか。


当たり前ことだが,今後議論を積み重ねていくしかないだろうと思う。ただ,ここでいう議論とは,実践の場で「何を」「どう教えるのか」ということについてではない。もちろん,それは話題に上るのだろうが,それは周辺的なことであって,あくまでも議論の中心は各々の実践についての問題意識とそれぞれの教育観についてであるべきだろう。


なぜか。


それは,「なぜ」という問題意識に立脚しない「何を」「どう教えるのか」というテクニカルな議論では「自分の現場では~だ。」という個別の実践が抱える問題の壁を越えられないからだ。そこで結局のところ,わたしはわたし,あの人はあの人,それぞれ違っていて大いに結構,それを尊重しましょうという名目のもとにお互いを無視する。日本語教師間におけるある種の文化相対主義の限界がここにあるのかと思う。


古屋憲章さんは「日本語教育実践の共有を阻むもの」(http://storys.jp/story/7505)で,教育観が見えてくるようなやりとりが実践の共有を促していくと言っている。では,「ことばの市民」についての実践のすがたを明らかにしていくためには,教育観についての議論を行えばいいのか。


私の場合に限って言えば「ことばの市民」なるものの実践を考える上では教育観だけではすっきりしない。それは市民という表現と概念は,これまでの自分の教育観では到底捉えきれないからだ。ここで今まで自分が持っていた教育観とは,日本語教育というカッコつきのものであったのかもしれないということに気がついた。


日本語教育で市民,あるいは市民性?を捉えていくためには教育観だけにとどまらず,そもそも人間は社会の中でどのような存在であるべきなのか,ということについてのいわゆる人間観に対する洞察が必要だろうと思う。大雑把に言えば,個人の尊重,自由と責任,公正性といったところだろうが,それと実践がどうつながるかはやっぱりわからない。


日本語教育に市民という概念を添加してみただけで,これだけ混乱するということは私の実践がいかにここから離れたものであったかを物語っていると言える。日本語教育をめぐる問題群を解きほぐす鍵はこの市民性?にあるのかもしれないとは思ってはいるものの,まだまだわからないことばかりだ。


1215年,「マグナ・カルタ」を起草し民主主義の礎を築いた近代的な意味での「はじめての市民」は,社会の中で自らをどのような存在であったと考えていただろうか。そして,ことばによって自らの権利を勝ち取った人々は,ことばというものをどのように捉えていたのだろうか。


いつかあの世に行く機会があったら聞いてみたい。


*メールマガジン,ルビュ言語文化教育483号への寄稿文を転載

http://archive.mag2.com/0000079505/index.html

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