おばあちゃんと過ごした7000日と4000日、そしてこれから過ごす日々(4000日の巻)

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危篤。おばあちゃんが倒れた。危篤なんよ。

その電話を貰ったのは2014年の冬、私が社会人7年目のときだった。


社内での会議を終え、フロアの自販機前でコーヒーを買おうとしている時だった。滅多に電話を掛けて来ないおじいちゃんからの電話だったので、どうせ前みたいに蟹を買ったら食べに来ないかという催促かと思い電話に出たら第一声が「危篤」。10年前のデジャヴだとだと思うと同時に、あのときのように取り乱すことが無いのは、10年掛けて心の準備をしてきた証だと思った。


とはいえ、老人ホームに入っているおばあちゃんが倒れて危篤になったならば、どこかの病院に搬送されているはずが、おじいちゃんは「病院は解らん」と要領を得ないことを言うので、とりあえず電話を切ると、直ぐにお母さんに電話を掛けた。

3回ほど電話を掛けても繋がらないのでおかしいなと思うと、妹から電話がかかってきた。


もしもし、おにい?おじいちゃんから聞いた?
おぅ、うん……危篤やて。……病院は?
まだ決まって無い。
はぁ?危篤なんやろ!?
受け入れてくれる病院が無いんやんか!いま、オカンが救急車に一緒に乗ってるわ。
……あぁ、あぁ、解った……解った。


テレビで何度か見たことのある、患者の受け入れ拒否。漫画「ブラックジャックによろしく」で披露されていた夜間の病院は研修医だらけだという問題。他人事にしか考えていなかった問題が、今、目の前にある

みぞおちのあたりをナイフで抉られるような痛みが襲った。目眩がして、思わずその場にしゃがみ込むと、私は絶対に流すことは無いと決め込んでいた「涙」が自然と溢れていることに気付いた。


とりあえず、とりあえず……病院解ったら、連絡欲しい。行くから。まぁ、大丈夫やと思うけど。
せやんなぁ。大丈夫やんなぁ!
うん、せやろ。そうやて。


普段は勝ち気な妹が、泣くのを我慢して、強がっている。それが手に取るように解った。

電話を切ると、暫く呆然としたまま、この10年間を何とはなしに思い出していた。


痴呆症が進行していると思ったのは、おばあちゃんが倒れてから半年ぐらいだった。

あまりにも典型的な、ご飯を食べたのに食べていないという、ポピュラーな事例が続いたので、本当に「まさか」と思った。

家の中にばかり閉じ篭っていても仕方が無いと、デイケアに通うようになり、少しでも脳の活性化を促そうとしたが、延焼範囲を広げる火事にバケツで水をかけるようなものなのか効き目は無かった。


もともとの勝ち気で短気な性格を、自制心と理性で押さえ込んでいたのに、痴呆症が原因でその押さえていたものが外れたのだから、「すぐキレる老人」になってしまった。


おばあちゃん
なんで、こんなことになってんの!うち知らんで!!うちやないで!!
おばあちゃん
何ぃーな!ご飯は?ご飯食べさせろ!!


会社勤めをするようになり、一人暮らしを始めたものだから、おばあちゃんの症状がどれくらい進行しているか解らず、たまに家に寄ると、自分が想像している以上に進行している現実を見て、自分のなかにある「おばあちゃん」を壊したくないと足が遠のく、そしてたまに帰ると—この繰り返しだった。


おじいちゃんが、おばあちゃんに手をあげようとした姿を見て、20年以上も前になるのに、お母さんが父親に暴力を振るわれたシーンを思い返してしまい、号泣したこともあった。

おじいちゃんの中ではとっくに限界を超えていたはずだ。日常的に暴力を振るわれていたようだが、それにひたすら耐えていた。そしてたまに、それが爆発してしまう。そんな日々が確かにあった。

たまたまおじいちゃんとおばあちゃんの日常から切り離されている私がやってきて、その日常に触れてしまい拒絶反応を起こしてしまったわけだ。

それは、異常な光景だったと思う。号泣する25歳と、後味の悪そうな顔をする老人と、ご飯を食べさせろと叫ぶ老人。

しかし、それもまた、おばあちゃんと刻んだ4000日間の1日だった。


やがておばあちゃんは老人ホームに入居し、たまに顔を見せる日々が始まった。

とはいえ、相当に痴呆は進行しており、私が2011年に本を出版した頃には、私が誰か解ってくれなかった。誰か解らんけど、本を出した人という扱いをされた。

そんなものだ。それは解っている。しかし、いつもの調子で、


おばあちゃん
けんちゃんは凄いなぁ!いっぱい本読んできたんやから、当たり前やなぁ。凄いなぁ!


と褒めて欲しかった。私はそんなおばあちゃんに照れながらも、えへへと言いたかった。

目の前におばあちゃんはいるのに、まるで人格が変わったかのように、色んな人に悪態を付きながらも、美味しそうにご飯を食べている姿を見て、これもまた私の愛すべきおばあちゃんなのだと思った。


もちろん、相当に体調の良いときは、いつもの顔で、


おばあちゃん
いらっしゃい!けんちゃん♩


とか細い声で言ってくれるのだが、大抵は、


おばあちゃん
けんちゃんは、まだ小学生やから。あなたは、どちらさまですか?
僕やんか。けんちゃんやんか。
おばあちゃん
何言ってんの。こんなブクブクに大きくないわ!


というやり取りを繰り返していた。おばあちゃんにとって、「けんちゃん」は幼稚園〜小学生の記憶しか残されていないことを、ホームに通うたびに痛感させられた。


きっと、私が成長していくにつれ、おばあちゃんの中で「かわいらしさ」が欠落していったのだろうし、記憶に最も強く残っている場面が、その頃なのだということだということは解っている。

あの「肉じゃが」を食べていたら、という後悔をしなかったことは無い。もし食べていたとしても変わらなかったんじゃない?と慰められたこともある。しかし、こんなにカレーが好きなのに、肉じゃがだけはあまり食べない。食べたくない。


思い出は、共に刻むから思い出になる。おばあちゃんが倒れてから4000日の間、私はおばあちゃんといながら、一人でその日数に思い出を刻むしかなかった。

家族とは何かを考えてしまう。帰る場所?違うと思う。愛情?それも違うと思う。離れていても同じ時間を歩むことを確信する関係ではないか。だからこそ、一人暮らしをしていても、家族でいられると思うのだ。

—あまりに惨いではないか。おばあちゃんが痴呆症になって、私の中での確信がぐらつくばかりだ。


本格的に足が遠のいたのは、ここ3年ぐらいだった。半年に1回、いや、1年に1回しか会っていなかった。なぜなら会っても、私ともう認識してくれないからだ。

姿形は、おばあちゃんだ。でも、私だとは思ってくれない。辛かった。その思い出を、自分の中でどのように刻めば良いか解らなかった。


逃げていた。

自分の都合の良い世界を作りたいだけだった。いずれ、もしかしたらもしかするかもしれないという覚悟だけを胸に抱いて。

4000日、ずっと逃げていただけかもしれない。

痴呆症になったおばあちゃんを信じたくない、どこか受け入れられないと自分の世界に閉じ篭っていただけ。

人間は、見たい現実だけを見る生き物だ。

私は私の都合で、おばあちゃんから離れてしまっていた。

おばあちゃんは私に対して、不登校になってもグレそうになっても決して離れようとはしなかったのに


搬送された病院は、自宅からも、会社からも意外と近かった。直ぐに会社を出ると、自転車にまたがって病院に急いだ。

夜間救急だったため、裏口のようなところから病院の中に入る。少し奥のところで話し声がするので、そこだと気付いた私は立ち止まって深呼吸だけした。

10年前のことを思い出したからだ。


呼吸を整えると、そのまま直進した。そこには、おばあちゃんの姿など無く、お母さんと看護師さんが何やら話し込んでいた。


おかあさん
健太郎……大丈夫、全然大丈夫やわ。熱が高いから、救急車で運ばれただけ。
はぁー?危篤なんちゃうん!
おかあさん
まだ病状は解らへんけど、とにかく大丈夫。おじいちゃんが大げさに言うただけや。
なんじゃそりゃ……。


安心した私は、近くの長椅子にへばり込んだ。看護師さんは2人の状況を察してくれたのか、直ぐにその場を立ち去ってくれた。

少しの間の沈黙。何かを言おうとしているお母さんの姿を見て、あぁ、伝えたいことがあるのだと気付き、身を乗り出した。


おかあさん
大丈夫やねんけど……けどな、言われたわ。
何を?
おかあさん
もしものとき、延命治療しますか?って。
……。
おかあさん
まぁなぁ、長生きしたからなぁ。でも、こう……。
やなぁ……。


……ストレートに言われるのは辛かった。


覚悟していたはずなのに、その痛みがジワジワと胸を広がっていく。10年前のような衝撃ではないのは解っている。それなのに不意に涙がこぼれた。

泣いてはいけない。偉そうに「覚悟している」とか思っていたのだから、泣いてはいけない。


それなのに、涙が止まらなかった。

それは、逃げていた自分の愚かさに対する過去を取り戻したい涙だったし、単純に自分の肉体の1つである家族を失いたくなかった涙でもあった。


辛い。やっぱり辛い。

覚悟なんて、全然できていない。何の準備もできていない。

おばあちゃんと一緒に歩めていないなんて、嘘だった。私の心の中に、おばあちゃんは確かにいた。老人ホームにいるんだろうな、と私が記憶しているおばあちゃんが。

失いたくない。

もっと話をすればよかった。解るとか解らないとか覚えているとか覚えていないとか、どうでもよかった。

もともと、そんなことも考えずにおばあちゃんと接していたではないか。小さい頃からおばあちゃんおばあちゃんと言って、一緒に買い物に行きお風呂に入りご飯を食べ旅行に行き本を買ってもらいCDを買ってもらい慰めて貰っていたではないか!!!


長い沈黙と、たまの親子の会話が暫く続くと、処置室のドアが開いた。直ぐに立ち上がる。

ストレッチャーに横たわって、ゴボゴボと咳をしているおばあちゃんがいた。痰が絡まるのか、咳をするたびに苦しそうな顔をしている。


おばあちゃん、咳大丈夫かぁ?


そう言って、私はおばあちゃんの手を掴んだ。か細いが、温かかった。しかし、冷たくもあった。

昔はパーマを掛けていたのに、今はストレートだ。誰に切られているのか、ギザギザのへたくそな散髪された姿を見て、私はおばあちゃんの頭を何度か撫でた。

顔は苦しそうな顔をしているが、不思議と皺はあまりない。頬のあたりは少しピンクかかっていて、綺麗なものだった。


久しぶりやなぁ、おばあちゃん。


私はそう言って、微笑んだ。おばあちゃんは苦しそうな顔で咳を続けている。

看護師は、このまま入院してもらうため、6階に移動することを伝えてくれた。私とお母さんは、それに頷く。

この病院であれば、会社帰りに寄れるなーと思いながら。いっぱい話すことがある。仕事の成功や失敗、最近読んだ本のこと、休日に起きたこと。

もう、昔のようにはいかないのは解ってる。けんちゃんと優しく語りかけてくれることも無い。

でもそれでもいい。今度は私がおばあちゃんのために一方通行でもいいから語りかける番だ。

それが家族なのだ。法律でも姿形でも定義できないのが家族。同じ時間を刻もうじゃないか、この病院の病室で。



おばあちゃんと過ごした7000日と4000日は、大切な思い出だ。

そして、誰もが誰かと過ごす、あるいは何かと過ごす日々も大切な思い出だ。

しかし多くの人にとってそれは、「当たり前」になっている。今日と同じ明日が来る保証など無いことを、私たちは阪神大震災や東日本大震災で経験したはずなのに

世の中に、当たり前のものなんて何1つない。全ては偶然の積み重ねでしかない。失ってから気付いても遅い。もう「当たり前」にはならない。時間は前にしか進まない。


もし、このストーリーを読んでいる方の中に、連絡を取っていない「大切な人」がいるなら、メールなり電話なりしたほうがいい。

ずっと寄り添えとは思わない。ただ、何かをして貰ったときの感謝は、お互いにお互いのことを認識できるときに言っておいたほうがいいと思う。


ありがとう、という言葉は、自分のために言うのではない。相手に伝えるためにある。

墓前で言ってからでは遅いのだ。

明日、もしかしたら地震が起こるかもしれない。火事が起こるかもしれない。

だから常に感謝を気持ちを言葉にしていないと、言えないときがやってきたとき、それに後悔してしまうことになる。

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