コミュニケーション下手な私が演劇部を立ち上げるまで・1

私は、中学・高校時代と、2回に渡り演劇部を立ち上げた。
高校卒業後は有志で劇団を作り、自主公演を2回ほどやった。
今思えば、昔の私の辞書には「コミュニケーション」という文字がなかった。
にも関わらず、こんなことが実現できたのは何故なのか。
自分で振り返りながら、その理由を探ってみようと思う。
なーんてどこぞのドキュメンタリー番組のような冒頭w
幼少期の私は泣いてばかりいる子だったと、
母は今でもよく言っている。
実際私も少し覚えている。
なぜ泣いていたのかも覚えている。
なぜ泣いていたか。
それは、母が怖かったからだ。
なにかと言うと怒鳴りつけられ、舌打ちをされ、
暴力こそ振るわれないものの、いわゆる「言葉の暴力」を喰らい続けていたからだ。
物心ついた頃から母に心を振り回されていた私は、
自然と口数の少ない子供になった。
これがコミュニケーション下手の原因になったのだろう。
言いたいことが言えず、他人と上手く会話ができない。
他人の目が、何故か母の目のように思えて
面と向かって話すのが怖かった。
絶対嫌われる、怒られる、嫌な顔をするはずだ、と。
(実は今でもたまにそう思ってしまうことがある)
そんな勝手な恐怖感を抱き挙動不審になっている私を見て、周りのみんなは自然と距離を置いたのではないだろうか。
保育園や小学校低学年の頃の記憶はほとんどないが、
でも、自分の居場所がないという不安感・焦燥感はずっとあった。二十歳をこえても常にあった。
家でも外でも。
そんな私でも、自分の「考え」や「思い」というものはちゃんとあった。
むしろ、他の子供よりもしっかり持っていたのではないだろうか。だから、言いたいことは山ほどあった。
特に、国語の本読みの時間など。
記憶に残っているのは小学校3年生の頃。
先生が本読みの上手い(ということになっているw)子を当てて読ませるのだが、
私のふるさとは三重県の伊勢。ド田舎である。
当然、文章のアクセントは関西弁で、
言葉ひとつひとつをきちんと意識することもなく、
ただダラダラ、淡々と読んでいく。
読み終わると先生が褒める。
「やっぱり○○さんは読むの上手やなぁ」
ちょっと待てや。
どこがやねん。
まずアクセントが違うやろが全然。
私に読ませろ。
↑ 頭の中は常にこうだった(笑)
物心ついた頃から、アニメを見てセリフの真似をしたりしていたので、自然と読みの感性が身についていたのだろう。
しかし。
いざ当てられると、自分もとりあえず関西弁で読む。
何故かというと、上手に読んで、目立つのが怖かったからである。きっと嫌われる、怒られる、変な顔をされる。
多分、自分が思っているとおりに自信を持って読めば、先生にもみんなにも褒められるはず。
それがなんとなく分かっているくせに、みんなの反応が怖いから自分で自分にフタをして、「いや、どうせ私は何をやったって上手くいかない」と自己完結させてしまう、やっかいな癖が私にはあった。
「どうせ無理さ」
母のキンキンしたあの嫌な声と、自分の声が交差して
頭の中で常に響いていた。
〜続く〜

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