雑誌を作っていたころ(15)

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品行方正な継子たち


「おとこの遊び専科」はアンチ・ドリブの合言葉のもと、号を追うごとに部数を伸ばしていった。そして刊行間隔も、不定期刊から季刊、季刊から隔月刊とピッチをあげていき、半年後にはついに隔月刊から月刊となった。


 そうなるとおもしろいもので、つぎつぎとヒット企画が生まれてくる。たとえば1色(モノクロ印刷のこと)の「ギャンブラー入門講座」は、ブツ撮り名人の清水啓二カメラマンに依頼し、見開きにまたがる大迫力写真をメインにもってきた。

 第1回のテーマは「銭飛ばし」。4×5カメラによる超スロー撮影でコインの軌跡がみごとに描写され、金久保さんの名文とあいまって、たちまち読者アンケートで第3位に躍り出た。1位も2位もカラーのヌードグラビアだから、これはすごいことだった。

 このあたりから、ぼくは凸版印刷との交渉係となる。

「鳥肌が立つような写真を入稿するから、これ以上できないという製版を見せてくれ」

 ぼくは凸版の営業担当にそう大見得を切った。事実、清水さん入魂の六切り紙焼きは鳥肌ものの出来映えで、営業担当の早部さんも意気に感じたらしく、雑誌の1色ページとしては異例の「色校正」が出た。


 副編集長といっても、社員は編集長と2人だけで、あとは全部外注スタッフだから、やることはいくらでもある。

 取材から入稿までは副編集長としてスタッフを掌握し、原稿がアップするとデスクとして原稿にばしばし朱字を入れる。場合によっては原稿を担当者に突っ返し、「書き直し!」と怒鳴ることもある。

 編集プロダクションのタイトロープには、どこで探したのかと頭が痛くなるような新人が続々と入ってきたが、その人たちに原稿書きの「いろは」を教えるのもぼくの役目だった。

 そして原稿が印刷所に渡されると、そこから先は制作進行役をやらなければならない。編集長や担当スタッフにゲラのスケジュールを伝え、外部の校正マンの予約を取る。当時は写植で組版をしていたので、原稿を入稿するとコピー紙の「ネーム校正」が最初に出る。これは要するに版下のコピーで、文字が間違っていないかをチェックし、レイアウトを確認する工程だ。ここで直しておかないと、製版フィルムを作ってからの直しになって費用がかさむ。

 ネーム校正が戻されると、つぎに出るのは色校と青焼きだ。カラーページは色校正紙で、1色ページは青焼きで写真や図版類を中心に校正する。ネーム校正での直しが正確かどうかも、ここでチェックする。

 ただしそれはあくまでも原則で、現実の編集部では入稿が間に合わず、ネーム校正を飛ばしていきなり色校を出させたり、色校で追加原稿を入稿するような滅茶苦茶な進行がまかり通っていた。


 ぼくはいい加減な進行を全部やめさせ、原則通りの進行に戻した。継子扱いされている編集部なのだから、逆に品行方正を売り物にしてやろうと考えたのだ。

 幸い、半素人みたいな編プロの若手たちは、「編集者が一番偉い」などという変なプライドを持ち合わせていない。やさしく教え、ダメなら怒鳴れば言うことを聞いてくれる。

「ちゃんとやれば、早く帰れる」を合言葉に、ぼくらは印刷所の理想通りの進行にこだわった。

 あるとき、最終校正の戻しが便の時間に間に合わなくなったので、ぼくは早部さんに交渉して、朝一番で持ち込むことを条件に時間を延ばしてもらった。

 徹夜でまとめた校正紙を持って志村坂上の工場に行くと、早部さんが待ちかまえている。彼はぼくの持っている袋をひと目見るなり怒鳴り始めた。

「約束が違うじゃないですか! 全部校了すると言ったでしょう」

 ぼくは少しも騒がず、言い放った。

「怒鳴るのは、確認してからにしたらどう?」

 彼は納得していない様子で袋を開け、中の校正紙を並べ始めた。

「あれ? 全部ある。どうして全ページの朱字が、ひとつの袋に収まるんだろう」


 彼が不思議がったのも無理はない。前述したように、「ドリブ」や、ついこの前までのわが編集部では、校了紙に追加や差し替えの原稿用紙、ポジ袋、紙焼き写真が貼り付けられているのが当然だったから、1冊分の校了紙となると、持つのも大儀なくらいの大荷物になっていたのだ。

 それが、ぼくらの改革によって何も付いていない校正紙に変わった。だから1冊分とは思えないほどの小さな袋に収まったのだ。

 この改革は、凸版印刷に高く評価され、ぼくらの進行スケジュールは1週間近く後ろにずらされた。おまけに、請求書をチェックしている学研の業務局から、「信じられないので見学させてくれ」という申し入れまでやってきた。なせばなる。やればできるのである。


 早部さんからは内緒で「学研グループで一番理想に近い編集部」という言葉をもらっていたが、ぼくはそれをずっと秘密にしていた。継子があまり日の当たる場所に出ると、ろくなことがない。そんな気がしたからだ。


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