【広島1】原爆ドームになったおばあちゃん。

このエントリーをはてなブックマークに追加


むかし、太陽は、ふたつあった。

1945年8月6日の朝8時15分。

おばあちゃんの上に、太陽が落ちた。

おばあちゃんは『広島県産業奨励館』で働いていた。日本で初めてバームクーヘンを作った場所だ。

おばあちゃんはドイツ人とのハーフで、広島市にいたドイツ人たちとも会話ができた。
それで私のお母さんを育てながら、ずっと『広島県産業奨励館』で働いていた。

1945年の8月6日も、おばあちゃんはいつも通り出勤していた。
コンクリートつくりの大きな建物は、蒼い空の下できらきらしていたって。
通勤途中の川面は、戦時中にも関わらず平和で、なんだか気の抜ける様な朝だったって。

いつもの朝に、鼓膜の破裂するような音を聞いたのは、お母さん。

お母さんは、ドイツ人の血が入っているからと、学校の友達にいじめられていた。
だから朝早くから、学校の校庭の隅にある、防空壕に一人泣いてしゃがんでいた。

空襲警報は朝に一度発令されて、その後すぐに解除になった。
だから、まさか爆撃があるとお母さんは思っていなくて、何があったのかと体を乗り出した。

校庭を見ると、遊んでボールを持ったままの体操服姿の子供たちが、
そのまんまの格好で黒くなって、うつぶせに倒れていた。
また、みんなで自分を驚かそうとしているんだろう、とお母さんは思ったそうだ。

職員室から真っ黒い子どもたちの傍に駆けだしてきた先生たちに向かって、
火が迫っていた。火事だ。爆撃の後すぐに火事になるのはお母さんも知っていた。
でも、その火は赤いような、青いような、緑色のような、不思議な色をしていた。

校庭の隅で飼っていた馬のしっぽに火がついた。
自分をいじめていた子供たちも、自分をなぐさめてくれた先生たちも、ほんのり好きだった初恋の人も、
おなじように真っ黒になって倒れている。倒れていない、動いている人には、火がついていく。


おかあさんは、怖くなって、
おばあちゃんのいる『広島県産業奨励館』に走った。
おばあちゃんに抱きしめてもらったら、怖いものは全部なくなるはずだ。
こどもが誰でもそう思うように、お母さんは、お母さんのお母さんを求めた。

でも、おばあちゃんの働いている『広島県産業奨励館』の近くは、
お母さんの通っていた学校よりずっとひどかった。
川には黒焦げの顔のつぶれたぐちゃぐちゃな丸太がいっぱい。
道にも、屋根の上にも、ぐちゃぐちゃな丸太がいっぱい。

丸太が全部人間だと気づいたとき、お母さんは顔を覆った。
ごめんなさい。ごめんなさいと言いながら、その死体をまたいで歩くしかなかった。
あまりのひどさにえずいていると、自警団のお兄さんがお母さんを見つけて、抱きしめて走り出した。

『君、どこの子?』
『あっち、あっちです。産業奨励館にいるんです。お母さん、あそこで働いているんです』

お兄さんは、真っ黒な雲に覆われた、真っ赤な街を見た。それからお母さんの肩を、抱いた。

『よし、わかった。君のお母さんは、僕が見つけてこよう。だから君は病院に行っておいで。ほら、こんなに火傷している。いいね、振り向いちゃいけないよ。頑張って走って、病院を目指すんだ。きっとそこに、ぼくの父や祖母もいるから』

お兄さんは、そう言ったきり、お母さんの返事を制して、真っ赤に燃える街に走って行った。
お母さんは、お兄さんの後を追おうと思ったけれど、お兄さんの家族を頼まれたから、身をひるがえして火事から離れるしかなかった。

火から逃げるように病院に駆け込んで、それきり、意識を失ってしまった。


目が覚めたのは三日後だった。

防空壕のなかにいたのに、お母さんの体にはいっぱい傷があった。
でも、防空壕にいなかったお母さんの同級生たちは、みんな、死んでしまった。
お母さんをいじめから守った先生も、話の長い校長も、結婚したばかりの女先生も死んでしまった。
卒業写真は、お母さんと、顔にやけどを負った 女の子の 二人きりで撮った。

あの親切なお兄さんとも、その後一度も会えなかったって。
そして病院には、お兄さんの家族はいなかったって。

もう一度会いたい、とお母さんは言う。

でも、きっともう、生きていないんだわとお母さんは言う。

「私が生きて、お前が生きているのは、あのお兄さんが居たからよ」
と、ちいさな私に、母は伝えた。

私にとっての祖母は、いまだに遺骨すら見つかっていない。

おばあちゃんのいた『広島県産業奨励館』は、骨子以外、すべて消えた。
1992年には世界遺産に登録された。登録の名前は、『原爆ドーム』。



8月6日、『広島県産業奨励館』には30人の従業員が働いていた。
そのうちの29人が死亡。

その29人のうちの一人が、わたしのおばあちゃんだ。


原爆が投下されたところから、歩いて20歩。
祖母は、建物の中で爆発音を聞けたのだろうか。同僚の悲鳴を聞けたのだろうか?
爆発音も、視界も、悲鳴も、すべてが死に呑まれて行ったのではないだろうか。

祖母には、悲しむ時間も、逃げる時間も、誰かを許す時間も、母を思い出す時間も、
残されていなかった。

大きくなった母は、祖母を探しに何度も『広島県産業奨励館』に行った。
けれど、

どこにも死体はなかった。

どこにも死体はなかった。


だからわたしたち一家は、祖母の墓参りに広島に行く。
そして、『原爆ドーム』の傍の植木に水を与えて、手を合わせる。
世界遺産の『原爆ドーム』は、私たちにとっては祖母の墓標だ。
祖母の片りんは、世界中のどこを探しても、原爆ドームのなかにしか、ないのだ。

そして母は、毎年、いとおしそうにこう言う。
『ああ、きっとあのしみが、お前のおばあちゃんよ』という。




読んでよかった
このエントリーをはてなブックマークに追加
このストーリーをブログ等で紹介する

先日、初めて原爆ドームを訪問しました。
戦争は二度と繰り返してはいけないと不戦の誓いをしました。

原爆ドームには二度訪れたことがありますが、独特のオーラというか存在感を持った場所だと感じました。後世の子孫に残すべき重要な遺産ですが、そこで亡くなられた方たちの家族にとっては、お墓なのですね。

これは創作です

横山様。ありがとうございます。祖母はだいぶ長く体調を崩しており、話を聞けなくなってしまいました。是非、おばあさまのお話を聞いてあげてください。

ルルラ ルルラ様 ありがとうございます。文章もおほめ頂いて嬉しいです。現実としてあったんですよね…私もたまに忘れるので、こうして自戒しております。

久保山様 ありがとうございます! 初めて見た方がどう思うかが、命をつなぐのに一番、大事なのだとこの頃思います。本当に、ありがとうございます!

Hamanaka様 細部まで読み取って頂き、ありがとうございます。お墓ですね……お墓です。墓参りと思いつつ、お墓だという確とした認識がありませんでした。気づかせてくださり、ありがとうございます。気持ちを改めていきます。

Rakshmi様 コメントありがとうございます。何を持って創作と思われたかわかりかねますが、このようなこともあるかもしれないととどめ置いて頂ければ幸いです。

8月6日本日に皆様への一斉コメントとなること、ご了承ください。あの日にも、今日と同じ一日があったんだと、話を聞いていた、思います。

毎年、8月15日はお盆であって、さらに国内外、日本人もその他の国の人もあまりにひどい戦争が終わった日。忘れないように。

神崎 晃さんが次に書こうと思っていること

|

神崎 晃さんの他のストーリー

  • teisei

  • 神崎 晃さんの読んでよかったストーリー

  • 【広島1】原爆ドームになったおばあちゃん。