雑誌を作っていたころ(17)

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編集長拝命


「おとこの遊び専科」は、等身大ヌードポスターという強力な武器を手に入れて、躍進を続けた。ただ皮肉なことに、その武器が部数増の足を引っ張った。

 というのは、印刷機が老兵なため印刷速度が遅く、色合わせに時間がかかったり、一定部数刷ったところでメンテナンスをしなければならず、大部数を刷るのが困難だったからだ。特殊な折り加工も時間がかかるので、20万部とかはとても無理。学研販売局とも相談し、20万部以内で返品率を下げるのが最大効率という結論に達した。

 その矢先、家に編集長から電話があった。なにやら不機嫌そうな声である。

「明日の10時に、社長から話があるよ。俺は内容を知っているが、今は言わない」

 なんだろうと思いながら、翌日いつもより早めに出社した。


 社長からの話というのは、新たな仕事の拝命だった。

 半年前にスタートした「日本こころの旅」というムックがあったのだが、販売が好調なので刊行サイクルを季刊から隔月刊にしようとしたところ、編集長が辞めてしまったのだ。家族に病人がいるので、今以上の激務には耐えられないというのが理由だった。

 このムックは「別冊太陽」を今風にアレンジしたような体裁で、「日本文化を旅の形で紹介するグラフィック誌」というキャッチフレーズだった。だがそのような本を作るには、たとえば「月刊太陽」や「別冊太陽」を作ったことのある編集者が必要だった。そしていま会社に残っている旧平凡社の人間は、社長を除けばぼくしかいなかった。

 こうしてぼくは編集長になった。実力でもなんでもなく、文字通り棚からぼたもちの昇進だった。


 編集長になった喜びなど感じる間もなく、ぼくは編集部づくりのために飛び回った。

 というのは、前任者の制作体制はとても編集部などといえるものではなく、単なるフリーの寄せ集めだったからだ。編集方針、台割、企画会議などは編集長の頭の中だけに存在していて、編集長が不在だと、どうにもならない状態だった。

 ぼくにはそういう天才肌の仕事はできない。信頼できるスタッフを集め、役割を明確にし、会議でお互いが言いたいことを主張してから、企画を集約していくやり方しかできない。情報は共有するのが前提で、誰が休んでも雑誌が作れるのでなければ、安心して眠ることもできないと思っていた。


 会社から与えられたぼくの手駒は、新入社員の北原くんただ一人。右も左もわからないが、とにかく一人前の編集者になりたいという彼のバイタリティーだけを信じて、スタッフ集めを開始した。

 最初の仕事はアートディレクターの確保だ。グラフィック誌の場合、感性の優れた、しかもスタッフと馴染んで仕事をしてくれるADの確保は必要不可欠なのだが、ぼくが考えていたのはさらに一歩進んで、編集部と気持ちの上で一体になってくれる人だった。

 もっと欲を言えば、平凡社でムックを作った経験のある人がいい。「日本こころの旅」は、別冊太陽群のアップ・トゥ・デイト版だから、ごちゃごちゃしたレイアウトの情報誌上がりの人では企画に芯が通せない。ただしご老体には無茶な進行がお願いできないので、その中でも比較的若い人である必要があった。


 結果、「太陽コレクション」でADを勤めていた池田枝郎さんが候補者になった。ぼく自身は一緒に仕事をしたことはなかったが、青人社で出し続けていた「年賀状特選」の最新号で1冊丸ごとのデザインを担当し、あいかわらずの「まとめの強さ」を見せていた。

 デザイナーが決まったら、次はデスクと中核になる編集者の獲得だ。まずは「ドリブ」で何度も取材を頼んでいた菅間文乃さんに常駐スタッフをお願いした。日本文化を対象にする雑誌では、育ちの悪い人は使えない。立ち居振る舞いで「お里が知れる」と、相手が心を開いてくれないからだ。その点、彼女なら申し分なかった。

 次いで、「太陽シリーズ」の編集者、佐藤信二さんにも協力をお願いする。佐藤さんは雑誌二課の大先輩で、ぼくがエレベーターで腰を抜かした「あ、ここ誤植じゃない?」といういたずらをした人だ。性格が穏やかで、センスのいいベテランだと尊敬していたので、取材チームの一翼を担ってもらうことにした。

 デスクは、佐藤憲司さん。唯一の前体制からの留任者だ。出版の進行に強く、細かいこともおろそかにしない人なので、留まってもらうことにした。

 組閣は終わったが、まだ大切な人事が残っていた。それはカメラマンスタッフの組織である。新体制の「日本こころの旅」では、A4フルサイズの誌面を生かしたレイアウトを実現しようとしていた。つまり、「1ページ裁ち落とし」「見開き裁ち落とし」の多用である。


「裁ち落とし」とは、インクジェットプリンタの「ふちなし印刷」と同じ意味。余白なしで写真を掲載することだ。これをするためには、4×5インチのカメラが扱えるカメラマンでなければならない。35ミリ、ブローニー判(6×4・5、6×6、6×7、6×8、6×9など)、そして4×5となると、取材は大荷物になる。車が使える、またはアシスタントのいるカメラマンでないと、仕事にならないだろう。まだデジカメなどは影も形もない時代だったのだ。

 まず最初にお願いしたのは、平凡社写真部でアシスタントをしていた清水啓二さん。物撮りに強く、使える機材も多様で、「ドリブ」や「おとこの遊び専科」の仕事を通じて、青人社にもっとも馴染んでいるカメラマンだったため、順当な人選だった。

 次いで佐藤信二さんの紹介で、広告畑だが骨董品マニアの関谷雄輔さんが決まる。あとは関西在住のカメラマンだ。ぼくの知り合いから、奈良の井上博道さんと、大阪の太陽賞カメラマン吉田一夫さんにお願いすることにした。

 こうしてスタッフの人選はひとまず終了。勢揃いした編集スタッフの顔をを眺めると老若男女、バラエティー豊かな人たちである。「これは、成功するな」とぼくは直感した。

 次はいよいよ企画を決定する番だ。社長との話し合いを翌日に控えて、ぼくはアイデアを煮詰め始めていた。


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