犬や猫の映画を作って初めて知ったこと(前半)

次話: 犬や猫の映画を作って初めて知ったこと(後半)

日本にこんな場所があるなんて、初めて知った……

この映画の出発点はそんな驚きの気持ちからでした。

私は、映画監督をしております古新舜(こにい しゅん)と申します。

初長編映画「ノー・ヴォイス」を公開し、現在全国で自主上映会を行っております。

この映画は、日本で年間16万頭(平成24年)の

犬や猫が保健所やセンターで《殺処分》を受けている中、

この現実をどうしたらしたら変えていけるかを三年間、いろんな場所に出向いて取材して、

制作した長編映画です。

シェルターの犬猫たちの鳴き声が凄まじかった

私は、この映画のきっかけを頂くまでは、

犬や猫と接することができるのは、ペットショップだけと思っていました。

実は、ペットショップ以外にも犬や猫を家族として向かい入れられる場所があるのです。

それが、アニマルシェルターや譲渡会という場所なのです。


とあるアニマルシェルターに訪れてみて

2010年の冬に、初めてアニマルシェルターに訪れてみましたが、

そこでは犬や猫たちがものすごい数おりました。

おいら
ここは動物園?!

最初の印象はそんな感じでした。



歩くたびに、犬たちが自分に向かって吠えているのですが、

吠え方が威嚇するようなけたたましいものだったのです。

一通り、シェルターを見学させて頂きましたが、

施設の中には、無数の犬や猫が100頭以上、収容されているのです。

中には足をケガをしている犬や片目を無くした子猫など、

ペットショップで見かける奇麗な犬や猫とは、少し様子が違っておりました。


「この仕事が無くなることが夢」

その後、女性の副理事長さんのお話を伺うことになりました。

おいら
このような場所に初めて来て、とても驚きました。
副理事長さん
日本には捨てられる犬や猫の数が沢山いるため、こうして私たちのような団体が、保護をして、飼い主を探しているんですよ。

まず、無数の犬や猫が捨てられている現実に驚愕しました。

先ほど見た犬や猫は、前の飼い主に虐待を受けたり、放置されてカラスに目をくり抜かれたり

そういった事情の犬や猫が、この場所で保護されているということでした。

おいら
どうしてこんな風になってるんですか?
副理事長さん
むやみやたらに行われる生体販売、飼い主のモラルの低さ、不妊去勢手術の認知の低さ、様々な問題が日本にはあります

自分の知らないことだらけに、メモの量もすぐに数ページに及びました。

彼女の話では、「あまりに大変な活動のため、若いうちはなんとかできるのだけれども、

数年すると辞めていくスタッフも少なくないんですよ」

と話されておりました。

2時間ほどの取材が終わり、帰りがけに一言彼女が話した言葉が、

当時の私に何か胸に響くものがありました。

副理事長さん
実は、私はこの仕事が無くなることが夢なんです。
おいら
え? 仕事が無くなることが夢?
副理事長さん
だって、そうじゃないですか。
こんなにかわいそうなワンちゃんやネコちゃんがいなくなったら、とても幸せです

その言葉に何かとても強い想いを感じた私は、

そこからこの映画を作りたいと思うようになったのです。

自分は動物愛護の活動家ではない

この映画を通じて、よく聞かれるのは、

「監督は犬猫を飼ったことは?」と聞かれるのですが、実は一度もありません。


ですが、犬や猫は大好きです。

23歳の頃、新宿のペットショップで安く値引きされていた犬の表情があまりにいとおしく、

ついつい予約をしてしまったのですが、

その後、家族に、「家にほとんど帰れないあんたが犬なんて飼える訳ないでしょ?

と言われて、そっか犬は毎日散歩をさせなければいけないんだ、

と気づいて、その犬をあきらめた経験があります。


犬や猫は好きだけでは飼えない

そんな経験と、シェルターを見学した時の気持ちとが結びつき、映画を作ろうと思ったのです。

なので、私は動物愛護をしている人間ではないので、

そのまっさらな視点から、この映画を作ることは、

きっと客観的にこの問題を捉えることができるのでは? と思ったのでした。

もう一つ、この制作をする動機になったことは、自分がずっと虐められていたことでした。


どことなく、昔の自分に似ている

いじめとひきこもりから映画監督に」で綴りましたように、

自分は幼稚園〜大学までずっといじめを受けておりました

あの当時は、息苦しく、逃げ場がなく、死んだような目で毎日を生きていたのではと思ってます。

シェルターに保護された犬や猫の表情を見た時に、

昔の自分にどこか似ている、そんな風に感じたのです。

この映画を作ることは、

自分が青年期に抱えていた問題にもきっと繋がるのではないか?

そんな風に感じたのでした。


順調に取材を重ねていた中で起きた、東日本大震災

順調に取材を重ねていき、そろそろクランクインができると思った

2011年の3月に東日本大震災が起こりました。

言わずもがな、映画の制作をしているような状況ではありませんでしたので、

撮影準備は一旦ストップしました。

当時、自分にできることはtwitterで流れてくる情報を読み解いて、

必要な情報をRetweetしたり、コメントを書くこと位でした。

と、同時に、自分の祖母が岩手の釜石にいるので、

その安否確認をネットでひたすら行っておりました。

自分が小さい頃、大好きだった釜石が、凄まじい姿になっている。

テレビから流れてくる様子に愕然としながら、

祖母は無事だろうか? 今すぐにでも釜石に行きたい、と思っていました。


何か自分にできることはないのか?

そう思ってtwitterを見ていた時に、友人が

とある友人
これから福島の南相馬に行くから、一緒に行かないか?

と誘ってくれたのでした。


自分は当時、南相馬の場所を全く知らなかったのですが、

釜石にすぐに行けない状況で、自分に何かできることがあれば、すぐにでもしたい。

と思って、ビデオカメラを持って、仲間と共に南相馬に出向いたのでした。


2011年の4月、驚くべき光景がそこには広がっておりました。

南相馬に行く前に、大宮のバーで、建設業者の方が言っていた被災地の様子の

建設業者の方
「臭いだ! 生々しい臭いが、強烈だった


と話していた意味が、よく分かりました。

生臭く、そしていろんな物が入り交じった異臭とは

また違った重々しい臭いがそこには広がっておりました。

海岸付近や進入禁止区域ギリギリまでを巡回して、

今回の訪問の目的である相馬のお殿様とのご挨拶に向かったのでした。


おいら
お殿様に会うの?

びっくりしました。

この被災地に数百年の歴史を誇るお殿様が住まれていて、その人の想いを聞きにいく、

思いもよらない体験をその後、することになったのでした。


馬が私たちには欠かせないのです

この相馬、南相馬という場所は、「相馬野馬追」という

1000年以上続く、歴史あるお祭りを大切にしている地域でした。

人間と馬がいったいとなって生活を営み、年に一度、

数百騎の騎馬武者が町中を行列をなして行進するという習慣を持つ地域だったのです。


そんな文化を持つ地域が日本にあることにもびっくりしましたが、

震災が起きて、放射能の問題が色濃くあるこの地域で、

相馬野馬追を絶やさず、行いたいという

相馬家の若殿様の想いに、心を打たれることになったのでした。


相馬の若殿様のお話は、このような究竟だからこそ、負けてはいけない。

相馬から日本を変えていく、という強い志を私たちにお話されました。


そして、

馬はこの地に欠かせない存在であると話をされたのが印象的でした。


馬がいなければ、私たちはこの地域は成り立たない。

その言葉に、馬との共生で文化が生まれ、地域が形成されていることに気づかされた自分は、

人間は、人間だけで生きることはできない、自然や動物と共に生きる姿が人間らしさなのでは

そんな風に思ったのでした


相馬野馬追の映像ボランティア活動を1年行い

その後、何度も相馬、南相馬に訪れ、

初めて「相馬野馬追」を目の当たりにすることになったのでした。

昨日まで私服をきて、普通の姿の人が、袴姿で馬にまたがると

まさにタイムスリップしたかのように威勢の良い武者に変わるのでした。


町全体が相馬野馬追に没頭する三日間を体験して、

こんなにも馬を愛し、地域を愛する人たちが

震災による壊滅的な町を復興させようと、放射能の脅威に立ち向かいながら、

勇ましく生活をしている姿に胸を打たれ、30年間の人生で初めて

生きることの力強さや本気になった人たちの迫力を感じたのでした。

おいら
震災で凄まじい被害を受けた人たちがこんなにもがんばっている。自分も決して負けてはいられない

と思い、相馬野馬追の映像を自身が撮影したものと、

ソーシャルメディアの呼びかけで集めたものを組み合わせて

相馬野馬追2011/2012二年の軌跡」という一つの映像を作りました。


この映像は、バラバラな映像をかき集めたので、画質はまちまちです。

普段私が行っている映画制作からはほど遠い映像のクオリティですが、

当時の仲間と話し合ったときに、これは映画ではなくて、記録映像、

事実をそのまま届けることが重要である、という意識のもとに

被災して、地元を離れざるを得なくなった人たちに、

祭の様子を届ける活動を一年行いました。


初めて行った一年間のボランティアでの映像活動は、

自身が持っている映像技術を社会と結びつけて、貢献ができたという達成感を初めて持ちました

と、同時に、自分のこれからの活動は、

より社会に密接な、社会の問題を映像で可視化させて、課題解決に向けて考えていけるような、

活動にしていきたいと、相馬野馬追の体験を通じて、感じることになったのでした。


そして、中断になっていた「ノー・ヴォイス」を

おいら
今の自分なら、以前とは違った視点で、この作品を生み出すことができる

と思い、

改めて取材をやり直し、制作に向けて動き出したのでした。

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