母が肺がんになり、そして死ぬまでの1年間 第三話

前話: 母が肺がんになり、そして死ぬまでの一年間 第二回
次話: 母が肺がんになり、そして死ぬまでの1年間 最終話

闘病時の話に入る前に・・


そもそも母の年齢を書いていなかったような気がするので改めて書いておくと、彼女は73才だった。ちなみに父は3つか、4つ年上だったはずである(うろ覚えなのは初めに書いた通り父とは仲が悪いもので・・)。

告知前までは大きな病気や事故も無く、本当に元気で、姉や一人でも頻繁に出歩き、買い物などを楽しんでいた。本人は健康診断を受けていなかったことを後悔していたが、がんに罹った方のブログなどを見ていると1年前までは健康診断で何もなかったにも関わらず、1年後には余命何か月と言われてしまうくらいにがんが進んでしまう方もいたので、よく言われる早期発見というのは本当に運も多少なりとも関係しているのではと思っている。

余談だが、母や私が好きだったタレントの逸見政孝さんも、弟さんががんで亡くなられたことがあり、かなり健康には気を使っていたらしい。それでもやはりがんで亡くなられた。それを思うと何か避けられない運命のようなものもあるような気がしてならない。

ただ、それでも母は「こんな目にあったのは自分が健康に気を使わなかったせいだ」と頻りに僕に言っていた。僕もだが、母も必要以上に自分を責めるくせがある。僕もその度にそんなことはないと励ましていたのだが、結局最後の時まで母は自分自身を責め続けていた。

既に物語には出ているが、僕には10歳年上の姉がいた。姉は既に結婚しており、実家は幕張の近くなのだが、そこから車で15~20分ぐらいのところに住んでいた。

僕はというと30歳過ぎまで実家で過ごしており、その後仕事の都合で埼玉県熊谷市に引っ越していた。

熊谷に住みながら土日は実家に帰るということを繰り返し、同じく千葉に住む今の奥さんと出会い、結婚したため、結婚以降はなかなか実家にも帰る機会が無く、親とも疎遠になっていた。

すぐに子供も生まれ、親も孫の顔を見たいだろうとも思ったが、小さい子を連れて熊谷と千葉を行き来するというのは金銭的にももちろんだが、体力的にもきつく、毎日のようにビデオで撮りだめたDVDを定期的に送ることでせめてもの親孝行になればと考えていた。



そんな中、3年前に色々な理由により転職をすることにした。そして千葉に戻ってきたわけだが、おかげで頻繁ではないにしても子供を連れて遊びに行けるようになったのは今になって思えば本当に良いタイミングだったと思っている。30半ばを過ぎ、子供が生まれたばかりというのに転職に踏み切ってしまったが、これも何かの「縁」だったのかもしれない。


闘病生活の始まり


僕ぐらいの年齢の方は、皆さん親の介護など、将来について悩むところがあると思う。僕もそうだったのだが、では具体的に病気や介護が必要になった時にどう生活が変わっていくのか、全然想像がつかなかった。

今回の母の場合は、幸いにも父がおり、健康的にも問題無く、車の運転もできたため、病院への送り迎えも基本的に父がやってくれていた。なので、あまり僕の手が必要となることは無かった。

イレッサを飲む初期段階では急な体調の変化に備え、入院を勧められたのだが、母は気難しいところがあり、ちょっとの環境の変化で体調を崩してしまうような人だったし、病院に入院などしてしまった日には暗く落ち込んでしまうというのは目に見えていた。本人も「入院したら自分は死ぬ(のも同然)」と言っていたため、入院は断り、あくまで通院での治療を行っていた。

通院期間としては1週間または2週間に1回で、毎回検査をするわけではなかったが、母は本当に病院に行くのが憂鬱で、辛かったようである。

私もできるだけ病院には付き添いたかったが、当時の会社の、そして仕事の状況を考えるととても頻繁に通える状況ではなかった。結局僕が親にしてあげられたのは土日いずれかに子供を連れて顔を出し、励ますことだけだったのである。

母との会話に関しては、僕が元々口下手な人間だったし、照れ臭さもあったのだが、何よりもいたたまれない気持ちになってしまうため、告知以降、沢山会話ができたかというとあまり自信が無い。子供を連れて、子供と触れ合ってもらい、たまに僕が近況をぽつぽつと聞く、そんな感じだった。

ごくごく当たり前のことなのだが、お互いを知るために会話をするというのはとても大事な事である。それは母が死んだ直後のある出来事で思い知った。

更にここ最近、同じ職場にいながらほとんど話しをする機会の無かった元同僚の方と話す機会があり、その時にもその同僚が辛い時期にあった時に話し相手になれなかったこと(正直言うとそれに気づいてもあげられなかった・・)がとても悲しいというか、寂しいというか、改めて話すことの大事さを思い知らされた。

親に対して、特に男性であれば(女性の方もだろうか?)親に対して色々と話をするというのは非常に照れ臭いものだと思う。でも、こういう時はできるだけ会話をするようにしてもらえれば、きっと少しでも良い結果をもたらすはずである。ただ、当時は本当に母親のところに行くのが気が重く、辛くて辛くてしょうがなかった。孫の成長を見せるのが嬉しかった一方、死に恐怖する母が本当に可哀想だった。実際告知以降母が心から笑ったところを見たことがなかった。今もすぐに思い浮かぶのは悲しげに微笑む顔である・・。



イレッサを飲んで

さて、実際のイレッサの副作用だが、軽く検索してみると「発疹やかゆみ、下痢などがよくみられます。吐き気や脱毛などは、シスプラチンなどと比べると軽いとされています」とある。

よく抗がん剤の副作用というと吐き気や脱毛が真っ先に思い浮かぶだろう。母もテレビ等の影響もあり、それらの副作用をとても恐れていた。

実際はどうだったか。結局24時間一緒にいた事が無かったため、全ては母からの話なのだが、かゆみが本当に辛かったらしい。せめて少しでも和らげられればと思い、キュレルという低刺激の化粧品であったり、かなり値が張ったがナチュラルサイエンスという会社の赤ちゃん用の乳液等を購入してあげていた。後者の化粧品はかそれなりに効果があったらしく気に入って使ってもらっていたので、同じ悩みを抱える方(あるいはその家族の方)にはお勧めしたい。

書かれていたことそのままなのだが、下痢にも苦しんでいたらしい。薬である程度軽減できるとインターネットを見る限りでは書かれていたが、実際に処方されたことはあまりなく、結局は耐えるしかなかったようである。

母は若い頃から見た目に非常に気を使っており、肌がボロボロになってしまうことが悲しくてしょうがなかったらしい、加えて前述の下痢等にも苦しまされ、外出するのも億劫になってしまっていた。

人間は足から衰えてしまうものであり、部屋の中にいるばかりでは気がめいってしまうので、できるだけ外に出て、散歩でもしてほしかったのだが、すっかり憔悴し、家に籠る事が多くなっていった。電話に出ることすら嫌になったらしく、電話も父が出るようになっていた。

髪の毛も少し抜けていたらしく、あまりにもメールで嘆いていたため、ウィッグを買う事を勧め、外出時にはそれを付けていた。

それでも寝込むことは無く、副作用に苦しみながらも普通の生活はできていたのでそれは本当にイレッサのおかげだったのだろう。患者にとってQOL(クオリティ・オブ・ライフ)というのは本当に重要である。今後医療が発達してより良い薬が生まれることを切に祈っている。


生活への影響

先に書いたように私が実家に行くのは土日のうち、いずれか1日であった。というのも、当時仕事がかなり忙しく、たまに(場合によっては連続で)土日のいずれか出社することもあった。加えて平日も残業で帰りが遅く、幼稚園に通ったばかりの3歳の子供を育てる妻の肉体的・精神的な負担も考えると土日のうち1日は自身の家族のケアも必要であり、親に対して割ける時間が本当に限られていたのである。ましてや5月以降は2人目の子供が生まれてしまったため、尚更であった。

同じ境遇にある人にアドバイスすることがあるとすれば、会社に対して介護休暇等を取ることができるのであればそれを有効に活用すること、なければ同僚に打ち明け、できる限りの協力を得ることを勧める。確かにそれを理由に休んだりすることは気が引けるのだが、もし同じ境遇の人間がいればサポートしたいと思うのは人として当然の事だし、遠慮無く相談してみて欲しい。僕も今後職場に同じ思いをする人がいればできる限りの事はしてあげたいし、僕だけに限らず職場全体でサポートしてあげられる、そういう会社にしたいと思っている。


そして週に1度、たまには2週間に1度だったが、妊娠していた時も一緒に実家に顔を出してくれた妻には本当に感謝をしている。私が先に書いたように口下手だったため、彼女が代わりに色々と話を盛り上げてくれることもあった。(結果的にはそれほど頑張ってはいないのだが)何とか頑張ってきたのもそれを支えてくれる妻や子供といった家族のお陰だった。本当に家族は大事なものだと改めて気付かされた。

また、姉も休みの時は必ずといって良いほど頻繁に実家に顔を出していた。スーパーに勤めていたため、土日に休めることはあまりなく、平日がほとんどであったが、お陰で平日は姉、土日のいずれかは私と、どちらかが実家に顔を出せたのでその意味では本当に良かったと思っている。


そして、2013年の冬が終わり、そして年が明けて春・夏と何とか家族みんなで力を合わせて日々を過ごすことができた。

それでも死の恐怖からは逃れることができず、そして「その時」は確実に近づいていた・・。

続きのストーリーはこちら!

母が肺がんになり、そして死ぬまでの1年間 最終話

著者の小野塚 良太さんにメッセージを送る

メッセージを送る

著者の方だけが読めます

みんなの読んで良かった!

STORYS.JPは、人生のヒントが得られる ライフストーリー共有プラットホームです。