"東日本大震災" のタグがついたストーリー

3.11-新潟地震被災者の孫が東京で取った行動-2

家に着いてから確認したこと まずは確認作業から 幸いにして、電気、水道等のライフラインは無事でした。 ガスは安全装置が作動してしまっていたので、復旧させました。 部屋を空けたら酷いことに!色々な物が崩れ、壊れ… 祖母の遺影も割れました。 備蓄食糧等の確認・買い出し 基本的に祖父も私もカップラーメン大好きだったので買い置きがたくさんありました。 また、新潟地震で被災した祖父母が準備した非常持ち出しキャ
菱沼 あげは
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3.11-新潟地震被災者の孫が東京で取った行動-1

私の祖父母は1964年(昭和39年)新潟地震の被災者です。 1964年(昭和39年)新潟地震 詳細は下記 1964年新潟地震オープンデータ特設サイト(防災科学技術研究所) http://ecom-plat.jp/19640616-niigata-eq/ 祖母、2004年(平成16年)新潟中越地震でも被災 大叔母(祖母の妹)に会う為に新潟へ行き、帰りの新幹線の中で被災しました。 帰ってくる予定日の次の
菱沼 あげは
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福島が《FUKUSHIMA》になってから

私は、ある3月の日曜日に、神奈川県相模原市の大きな病院で生まれました。母の実家がそこにあったので。けれど、産声をあげてひと月も経たないうちに、私は「福島の子」になりました。 福島県福島市。福島県の真ん中の一番上にあって、人口は30万人にギリギリ満たない街です。県庁所在地なのにあの郡山市にはちょっと気後れしちゃう、かわいい街です。小学校の社会科の授業では、「福島市は猫の形をしているね」と教わります。早
藤崎 枝直
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閖上で亡くなったみゆさんのこと

 ここでは、彼女のことを「みゆさん」と呼ぶことにします。  みゆさんは、名取市閖上の出身で、東日本大震災による犠牲者の一人です。  みゆさんは、当時高校2年生でした。明るく、面倒見がよく、ちょっと天然な彼女の存在は、周囲の人間を和ませてくれました。合唱部に所属していた彼女の最後の本番は、2011年3月8日、仙台市青年文化センターで開催された「仙台フィルと夢の共演、青少年体験コンサート」に参加し、山下
Nobu Ishii
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3.11!!元いじめられっ子による福島第一原発事故からの怒涛の脱出劇。その4

2013年3月、23歳の頃から千葉県流山市南流山に住んだ。 南流山駅から徒歩5分と好立地で7階のマンションかつエレベーター付きのマンションだ。 僕の部屋は703号室。隣の部屋は病院の待合室専用になっている。 出来るだけ引っ越し費用を抑えるため、手荷物を増やし段ボールだけ ファミリーマートの箱boonを使って送った。 ベットは三万円くらいのものを購入。 マンションから見た景色。 南流山駅から徒歩5分の
熊坂 翔吾
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3.11!!元いじめられっ子による福島第一原発事故からの怒涛の脱出劇。その3

近くのコンビニ。 そのアパートは東京都荒川区西尾久8丁目にある築40年のアパート。 一見外見はともかく、内装はとてもきれいだった。 一応風呂付で2DKの部屋だった。 お風呂は水しか出ず、追い炊きをしてお風呂に入った。 シャワーは使えない。 夏場はゴキブリが結構出る。 1年に4-5匹くらい 出るのでそいつらと格闘しながら日々過ごしていた。 住んでいたアパートの近くに荒川遊園がありさらに北に進むと河川敷
熊坂 翔吾
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3.11!!元いじめられっ子による福島第一原発事故からの怒涛の脱出劇。その2

滞在先は東京都中央区にある住庄ほてるというところだった。 そこに僕は 2011年6月1日から10月下旬くらい まで滞在させてもらった。 一時期住んでいた部屋は 村上春樹のダンス・ダンス・ダンス という小説に出てくる いるかホテル のような内装だった。 そのホテル?(というか旅館)には都心のど真ん中にありながら非常に立派な 大浴場がついていた。 こちらである。 2011年6月中旬くらいに福島第一原発で
熊坂 翔吾
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3.11!!元いじめられっ子による福島第一原発事故からの怒涛の脱出劇。その1

2011年3月11日午後2時46分!! その日その時僕は福島県郡山市にある桑野の幸楽苑を出たばかりだった。 この世の終わりともいえるべき地震が2011年3月11日午後2時46分に 起こった。当時僕は21歳になったばかりであった。 近くのゲオから我先にとおびただしい数の人が出てきた。 僕の近くにいた自転車に乗っていた女子中学生らしき2人組が携帯を取り出し 家族だか知人だか分からないが安否をとっていた。
熊坂 翔吾
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九十一歳初観戦

鈴木家一行が帰っていった。この家ができたら、一番最初に呼びたかったのが福島の仮設住宅で一人暮らしをしているばあちゃんだった。サッカーのナショナルトレーニングセンター「Jヴィレッジ」の近所で酒屋を営んでいたばあちゃん、原発事故でお店は廃業してしまった。四畳半の小さな部屋で、Jヴィレッジを思いながらよくサッカーの試合を見ている。 鹿島アントラーズが好きで茨城県鹿嶋市に家を建てた。私が鹿嶋に引っ越したら、
SUZUKI AYAKO
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東日本大震災から5年。イギリスの博物館で、日本の地震を再現!!

ロンドンからこんにちは。 愛を語る歯科衛生士の仲谷めいです。 東日本大震災から5年。 わたしは神戸出身なので、東日本の地震の前から、地震はなんて怖いんだろうと思っていました。 祖父と祖母の家が跡形もなく潰れてしまい、近所の家もほとんど潰れてしまっていました。 5年前はちょうど東京にいたので、かなり揺れを感じ帰宅難民になってしまいました。 もう地震から逃げられない人生なのか?と思っていたら、案外世界か
仲谷 めい
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大槌復興刺し子プロジェクト 「東京チーム」ヒストリー ⑤

[ いいことばかりはありゃしない。 〜オーバーキャパシティ、トラブル続きの日々〜 ] 一方で、避難所だった中央公民館を中心に活動していた大槌では、 吉野が6月から「NPO法人テラ・ルネッサンス」に雇用され 職員として、刺し子業務を続けられることになっていました。 テラ・ルネッサンスは、京都を拠点とし、子ども兵や地雷などの課題に取り組む認定NPO法人です。 震災以降、遠野を拠点に物資の支援などを行って
澤向 美希
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大槌復興刺し子プロジェクト 「東京チーム」ヒストリー ④

[ 完売御礼!! 〜その裏での地道な努力〜 ] 刺し子さんたちが一針一針心を込めて刺し子をしたコースターとふきん。 ウェブサイトをオープンしてから10日間で、250枚を超える注文をいただきました。 大きな宣伝などできるはずもなく、 ただ、メンバーや関わる人たち、そして立ち上げたばかりの 大槌刺し子のオフィシャルSNSアカウントによる情報の発信・拡散のみ。 この予想外の反響の要因は 京都新聞(6/13
澤向 美希
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大槌復興刺し子プロジェクト 「東京チーム」ヒストリー ②

【第1章:プロジェクト立ち上げ。      避難所で何もすることがない、      “ばあちゃん”のために。】 [ 2011年5月。吉野、大槌へ移住。 ] 4月の後半。 大槌町での物資支援活動にひとつの区切りを付け、東京に戻った久保に、一通のメールが届きます。 ネットを通じて大槌での活動を見ていた、 東京在住の吉野和也(よしの かずや)からでした。 メールは、要約するとこんな内容でした。 「会社を辞
澤向 美希
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大槌復興刺し子プロジェクト 「東京チーム」ヒストリー ①

< まえがき > この文章は、2011年3月11日に発生した東日本大震災をきっかけとして、 岩手県・大槌町で立ち上げられた「大槌復興刺し子プロジェクト」の 立ち上げに携わったメンバーが、その黎明期の出来事を記したものです。 岩手県沿岸部の小さな町・大槌町の、明るく元気なお母さん、おばあちゃん。 そんな女性たちが主役となり、今なお多くの人に愛される刺し子商品を生み出している 「大槌復興刺し子プロジェク
澤向 美希
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大槌復興刺し子プロジェクト 「東京チーム」ヒストリー ⑦

【第4章_バトンタッチの難しさに直面。それから。】 [ 2012年1月。Tシャツ発売 ] 2012年1月には、その後の刺し子プロジェクトの象徴的な商品ともなる、 「モビールTシャツ」が発売開始となります。 コースターとふきんは、販売しても利益がほとんど出ず、 事業の継続・安定のためには、適正な利益を出せる商品が どうしても必要だったという現実もあり、 プロジェクトにとって重要な意味を持つ商品となりま
澤向 美希
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大槌復興刺し子プロジェクト 「東京チーム」ヒストリー ③

【第2章_大槌刺し子、販売開始。 お客さまのもとへ羽ばたくカモメたち。】 [ 2011年6月。避難所で、刺し子さん募集。 ~初めての刺し子会~ ] 制作アイテム・デザインが固まったところで、資材の調達へ。 立ち上げメンバー5人が軍資金として2万円ずつを負担し、 メンバーの中で一番手芸に詳しかった小杉が、 手芸品店での再三のリサーチを経て、布や糸、針などを購入しました。 そして6月3日。 直前まで、小
澤向 美希
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大槌復興刺し子プロジェクト 「東京チーム」ヒストリー ⑥

【第3章_新たな仲間たちとともに、次のステージへ。              〜刺し子糸が紡ぐ縁〜 】 [ 刺し子さんからの申し出。〜商品化の作業を現地へ〜 ] 立ち上げから2ヵ月が過ぎた頃には、刺し子プロジェクトは口コミにより 大槌町内でも徐々に認知されていき、 新規刺し子さんの募集を兼ねた「刺し子会」も、たくさんの参加者で賑わうように。 ・ 仮設住宅にテレビを買った。 ・ 孫や子どもにお小遣いを
澤向 美希
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「今を一生懸命に生きる」それもボランティア

「ボランティア」について 現在カンボジアで事業を進めていますが、カンボジアには大人、子どもを含め多くのホームレスがいます。政府からの支援は無く、東南アジア諸国が急速な経済発展を進める中でその問題は深刻化しているように感じます。 これまで、東日本大震災のボランティアを含め様々なボランティアをしてきました。その中で私の軸となっていることがあります。学生時代に行き着いた考えで、以下は2008年のこと。 自
TKD C
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東日本大震災1:避難所情報用のブログを立ち上げたきっかけ

 2011年3月11日   あの日、私はまだ学生で春休みの最中だ。ちょうど、弟の卒業証書授与式の日のことでもあった。車に乗っていた私は、発生当時は地震にすら全く気がつかなかったのだが、帰宅後、テレビの向こう側で起こっている現実に唖然とした。その時の記憶は、鮮明に残っている。9.11以来の衝撃だったように感じられた。一面が火に包まれている場所、津波の生々しい映像、すべてがまるで映画の中で発生しているよ
山本 由佳
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今だから、脱原発を考える

 2014年11月、安部首相は衆議院を解散すると発表した。衆議院選挙に向けての幕開けである。  ところで前回の衆議院選挙は、ちょうど2年前の2012年11月に行われた。その時の大きな争点は、消費税増税の是非もあったが、我々の大きな関心事は、福島第一原発事故後のエネルギー政策のあり方ではなかっただろうか?野合と批判されながら、「卒原発」という政策を大きな柱とする「日本未来の党」が結成されたほど、この時
木村 隆之
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