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Tanko Tanko

Tanko Tankoの人生のストーリー

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Tanko Tankoの人生のストーリー

10ヶ所転移の大腸癌から6年半経っても元気でいるワケ(1)

はじめに 2008年4月。S状結腸原発、肝臓2ヶ所、リンパ7ヶ所、更に腹膜まで・・・と転移だらけの末期がんだった私が、手術から6年4ヶ月が経過して、その出来事がまるで嘘だったかのように元気に生活している。ちなみに2009年の肝再発・再手術後は「抗がん剤」も拒否して経過観察のみ。よって抗がん剤の副作用に苦しむこともなく、精神的にも身体的にもガンの呪縛から逃れて幸せな日々を送っているのである。 現在ガン

(8/24タイトル変更しました)元気なだけが取り得のおばさんがある日突然大量下血。その診断は思いがけないものだった。

10ヶ所転移の大腸癌から6年半経っても元気でいるワケ(2)

翌日は午後からの診察だったので、最寄り駅のスパゲッティ屋で3人そろって食事をしてから病院に向かうことになった。こういう場合、普通は食事ものどを通らないのだろうが、私は普通どおりたらこスパゲティをたいらげた。不安というより、癌診断の翌日に予約が取れたことにありがたい気持ちのほうが強かった。   実はがんセンターに足を運ぶのは初めてではなかった。10年以上も前のことだったが胃の調子が悪く、近くの内科でバ

(8/24タイトル変更しました)紹介先のがんセンターを受診。しかし、帰省中だった夫にも高校受験真っ最中の息子にも打ち明けられず。

10ヶ所転移の大腸癌から6年半経っても元気でいるワケ(3)

信じたくはないが、私の癌は天下のがんセンターの初診で指1本触れることなく「3期から4期」というお墨付きを貰ってしまった。普通だったら落ち込んで黙り込んでしまうところだろうが、私は片っ端から友人に電話してSOSを求めてしまった。   3Lサイズの体型からして健康的とは言い難いものの、普段元気印の人間が突然電話してきて悲痛な声で「私がんになっちゃったの。」と言われてもにわかに信じがたいのは当たり前。それ

(8/24タイトル変更しました)夫と息子にばれないように、手術に向けダイエット大作戦決行。運動音痴のデブおばさんが52にしてスポーツクラブデビュー。

10ヶ所転移の大腸癌から6年半経っても元気でいるワケ(4)

表面上はその後もいつもと変わらない日常が続いていた。主人が出かけた後、妹とスポーツクラブに通っていることも、ガンを知った友達と会って励ましを受けていることも、知っているのは娘だけだった。   だが、そろそろ主人に打ち明けなければならない時がやってきた。12日に検査して結果は10日ぐらい後と話してあったのだから・・・。そこでガンを告白するに当たってシナリオ作りを始めた。週明けの25日に結果を聞きに行っ

(8/24タイトル変更しました)遂に主人にばれてしまった。私は娘の部屋に引きこもり、夫とは携帯メールで会話することになった。

10ヶ所転移の大腸癌から6年半経っても元気でいるワケ(5)

(8/24タイトル変更しました) がん告知以来、電話だけでなく、何通も手紙が届いた。それまでも、私はずっと友達には恵まれてきた。幼なじみ、学生時代の友人、社会に出てからの友人、更に結婚以来、転居が多かったこともあり、引っ越した先々で友達が出来、助けられてきた。ガンを告知したことによって友人たちの励ましは輪は大きく広がった。本当に心強かった。   友人たちにガンを告知しまくってしまった私も、逆に近所の

(8/24タイトル変更しました)友人たちの励ましは心の支えになった。心配した友人の1人が連れて行ってくれた「気功所」で体験したものは・・・・。

10ヶ所転移の大腸癌から6年半経っても元気でいるワケ(6)

受験も終わり、ようやく息子へ告知することになった。受験が終了したことをねぎらってその夜は少し豪華な夕飯にした。面と向かっては言えないので、夜にメールすることにした。メールを見た息子が硬い表情で降りてきた。「大丈夫だからね!」と改めて言うと、意外にも冷静な口調で「ガンは毎日生まれて毎日死んでいるんだよ!」とあっさり言われてしまった。私はそれを聞いて『なんだ大して心配してくれないんだ・・・』とちょっと拍

息子にも癌であることを打ち明けることが出来、家族一丸となっての闘病が本格化した。主人は800サイトも調べ上げ、大学生の娘には「プラス思考」を叩き込まれた。

10ヶ所転移の大腸癌から6年半経っても元気でいるワケ(7)

「偶然はなく全て必然」私の座右の銘である。またそれを実感する出来事があった。   それは病気が発覚する前年のお正月。大分遅くに思いがけない年賀状が届いた。中学時代の同級生Kさんからだった。彼女はまた私の高校時代の恩師の娘さんでもある。   中学校2年の秋、私は埼玉から世田谷の中学に転校。酷いいじめにあった。全く馴染めないまま卒業。埼玉の中学校生活は楽しい思い出ばかりだったが、世田谷での1年半は思い出

10ヶ所転移の大腸癌から6年半経っても元気でいるワケ(8)

病院での検査は着々と進行していった。検査が辛いものである事は承知していたが、更に信じ難いアクシデントもあった。それは大腸内視鏡検査の時だった。他で検査を受けていても改めてここで検査をやるのが基本ということで、1ヶ月の間に2回も内視鏡検査を受けることになってしまった。   がんセンターといえば国内でも有数の腕利き医師がそろっていると思っていた。しかし、現状はガン医療を学びに来ている研修医がかなりな数を

10ヶ所転移の大腸癌から6年半経っても元気でいるワケ(9)

その翌日、私は都内のホテルに向かった。学生時代の友人4人が集合して励ます会を開いてくれることになったのだ。奈良からわざわざ上京してくれたS子。他の仲間は関東圏に住んでいるとはいえ、都心のホテルまでは結構な距離である。私より一足早く大腸ガンになり闘病中のH子も無理を押して参加してくれた。   大学卒業以来、私はそれぞれにどこかしらで何回かは会っていた。しかし、このメンバーが一堂に会したのは私の婚約披露

10ヶ所転移の大腸癌から6年半経っても元気でいるワケ(10)

入院の準備は出来たもの、病院から電話はかかってこなかった。4月9日の息子の入学式以降ということでお願いしてあったのだし、直前にならないと電話はないと聞いていたが、いつ電話がかかってくるかと待つほどつらいことはない。何よりもMRIの検査結果も早く知りたかった。   学生時代からの友人で先輩がん患者でもあるH子に聞くと「お医者さんは忙しからこちらから連絡した方が良いよ。厚かましいとか思わないで電話で聞い

10ヶ所転移の大腸癌から6年半経っても元気でいるワケ(11)

入院も決まり、1人でリビングの椅子に腰掛けながら、私は真剣にあることを考えていた。「後妻」をどうするか?遠距離通勤の夫、これから高校に入学する息子、娘は大学生ではあるが、家族を支えていくには負担が大きすぎると感じていた。一番の問題は夫が精神的に耐えられないだろうということだった。 私の曽祖父は妻を55歳で亡くし、その後、60歳で42歳の女性と再婚した。今でこそ珍しくない話だが、昭和初期の話である。画

10ヶ所転移の大腸癌から6年半経っても元気でいるワケ(12)

2008年4月11日 ようやく入院の日が来た。 前夜は留守の間の食事作りでてんやわんやの状態だった。約3週間の入院。せめて最初の数日だけでも家庭の味を食べさせたい。そう思って、大鍋いっぱいに我が家の定番の豚汁、保温鍋におでん..。茹でたほうれん草、煮物、炊き込みご飯やいなり寿司などは冷凍バッグに小分けして保存しておくことにした。入院前夜は緊張で寝られない人も多いと聞いたが、疲れもあって熟睡することが

10ヶ所転移の大腸癌から6年半経っても元気でいるワケ(13)

入院即「絶食」ということで、私は3度のお食事タイム前には病室を抜け出すことになった。いくらブトウ糖の点滴をやっていて空腹感はないとは言え、食事の良い香りには耐えられなかったからだ。 それは入院から3日目の朝。その日も朝7時には病室を抜け出して病棟ロビーにやってきた。電動の点滴台をコンセントを差し込んでいる時に突然、後ろから声をかけられた。 「〇〇さん!」うしろ姿で声をかけると言うことは余程の知り合い

10ヶ所転移の大腸癌から6年半経っても元気でいるワケ(14)

いよいよ手術が明日に迫り、麻酔科の先生が部屋を訪ねてみえた。優しそうな女の先生。説明を聞いているうちに「本当に明日手術なんだ」と言う実感が湧いてきた。 手術後、しばらくは入浴は禁止となる。腹切り前の入浴は病棟のシャワールームで娘に背中を流してもらった。この時ばかりはちょっとしんみりした気持ちになった。恐らく娘は母親の背中を流しながら、明日に迫った大手術に対してかなり不安な気持ちであったに違いない。

10ヶ所転移の大腸癌から6年半経っても元気でいるワケ(15)

次に目覚めた時はどうやら朝になっていたようだった。予定通りと言うことは少なくとも手術中6時間は麻酔で眠っていたわけで、麻酔が覚めてからも更に熟睡・・・となると一体何時間寝ていたことになるのだろう。それにしても麻酔から醒めた後の睡魔はかつて経験したことのない眠さだった。体が眠りを欲するとはこういうことなのか? 程なく副担当の先生が見えて、「傷が開いてしまっているからちょっと縫います」と言われた。実は帝

10ヶ所転移の大腸癌から6年半経っても元気でいるワケ(16)

ところで、術後にどんな説明があったのだろうか?恐る恐る夫に聞いてみた。 まず最初に口にしたのはガンではなく胆石のことだった。胆石が満杯(70粒以上)で胆管に詰まるところだったらしく、ガンよりもそっちの方で危なかったと言われたそうだ。確かにガンで急死はしないが、胆管に石が詰まれば命に関わるという事だったらしい。意外な話に正直驚いた。しかし、この話でガンばかりが恐ろしい病気ではないのだということを再認識

10ヶ所転移の大腸癌から6年半経っても元気でいるワケ(17)

そして、翌日、4月20日(日)。息子の通っている英会話スクールのイースター合同イベントが都内で開催され、そこでスピーチをすることになったという。元気ならば是非とも見に行きたいところだったが、夫と娘に応援を頼み、私はビデオ録画を待つことにした。実はその日は夫の誕生日でもあり、密かに心に決めていたことがあった。イベントの帰りに病院に寄ってくれることになっていたので、夫に誕生プレゼントを渡したい。入院前に

10ヶ所転移の大腸癌から6年半経っても元気でいるワケ(18)

その翌日、遂に排便があった。これで腸も無事開通。本当の意味での手術成功となり、心から安心した日でもあった。よく大腸がんの症状として「下痢と便秘の繰り返し」と言われるが、私は小6で大腸カタルに罹って以来、40年間毎日下痢ばかりで「便秘」の経験がなかった。つまり、出るはずのものが出ないで苦しむと言う経験がなかったわけだが、今回の件で改めて排泄の大切さを思い知らされた。 娘が持ってきてくれたノートパソコン

10ヶ所転移の大腸癌から6年半経っても元気でいるワケ(19)

術後一週間してまた見舞い客が大勢来てくれるようになった。私の方の叔母夫妻を皮切りに友人、知人そして東北に住む主人の両親もはるばる見舞いに来てくれた。 いつもは冗談ばかり言っているナースのOさんが突然凄くまじめな顔で「たんこさんは応援団が多いね!それって凄く大事なことなのよ!」と言われたことが印象に残った。確かに見舞い客はひっきりなしでナースステーションで名前を書かされるからその様子は把握していたのだ

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