普通の主婦の普通じゃなかった半生 15 (実話自伝)登校拒否〜身障者〜鬱病からダイバーへ
どうしても9月の舞台に立つ、私にはやらなくてはいけないことがまだ残っている。
母はそう言いました。
私はそこまで母が自分の仕事に日本舞踊に命をかけてまで打ち込んでいることをはじめて知りました。
母は動くことや話すことができなくなるまで仕事を続けました。
動けなくなっても母は泣き言一つ言いませんでした。
「痛い?しんどい?」そう聞く私に、母はずっと大丈夫だと言いました。
母が動けなくなってから私に頼んだことは仕事のことと、
髪を染めて欲しい、マニキュアを塗り直して欲しいそれだけでした。
身体の自由がきかなくなっても母は「あっちゃん、その服いいね。」と言いました。
元気だった頃の母のままでした。
辛かっただろうに、母は最期の最期まで私にすら甘えませんでした。
母は急激に衰弱していきました。
入院してから2週間しか過ぎていないのに、動くことも話すこともできなくなっていきました。
母が話せなくなってから、私はただただ母に「ありがとうねママ。」そう言い続けました。
意識も朦朧としていた母はそれでも小さく頷いてくれました。
最期まで毅然とした美しい人でした。
そして、去年の9月5日、入院たった1ヶ月で母は逝ってしまいました。
眠ったまま笑顔さえ浮かべていました。
母の葬儀は陰気くさいことが嫌いだった母をできるだけ華やかに見送りたくてできる限り盛大にしました。
「日本舞踊葬」として母の女優時代の美空ひばりさんと共演している映像や母の代表作の日本舞踊の舞台も参列していただいた方々に観ていただきました。
祭壇の花々も母が好きだったピンク色にしました。
母が親交のあった芸者さんたちは生演奏で三味線や笛や歌を披露してくださいました。
参列してくださった方々に心のこもったいいお式でしたと言われました。
母は喜んでくれたでしょうか?
私は自分を忙しくすることで、悲しみに押しつぶされそうになるのをこらえるのに必死でした。
写真 母のために私が最期にしたことは花祭壇のデザインでした。
母が亡くなって、私は血縁上、天涯孤独になりました。
夫や友人たちは私を心配し気遣ってくれ、旅行に連れて行ってくれたり、飲みに付き合ってくれましたが、茫然自失だったのでしょうか?あまり記憶がありません。
だけど、母の四十九日が過ぎた頃、幼い頃以来ずっとどこに居るのかもわからなかった父から突然電話がかかってきました。
ずっと探していた父でした。
それがひょんなことで居場所がわかり、私が手紙を書いたのがきっかけでした。
私はすぐに父に会いに行きました。
腹違いの妹2人と弟1人も来てくれてみんなで食事しました。
私にまた血の繋がった家族ができました。
それから妹たちや弟は私に良くしてくれています。
父は私がまた会いに行くのを楽しみにしてくれています。
それは母が私が寂しくないようにとしてくれた最期のプレゼントだったように思います。
余談。
猫の天は母の病気がわかった次の日、去年の5月7日に、知り合いのカフェの天井から落ちてきた子猫でした。
真っ白でフカフカで天使みたいな子。
「天井から落ちてきた」「天使みたいな」そして母のことを「天に祈る」気持ち。
それで「天」と名付けました。
小さな天があの時期に居てくれたおかげで私は家で泣いている暇がありませんでした。
8月に入院するまでちょこちょこ家に来ていた母は天を抱いてこう言いました。
「あなたは私の分まで元気で長生きするのよ。」と。
天は本当に天からの授かり物だったように思います。
写真 家の子になった頃の天。
読んでくださったすべての方へ。
ありがとうございました。
この私におこった物語が、今、いろんな問題を抱えているすべての方々の励みになればと思います。
そして、私が今ここに居ることに感謝し、
この物語を母に捧げます。
「ママ、産んでくれてありがとう。」
母の遺骨は半分はお墓に、半分は母の好きだったグアムのタモンビーチの沖合いに散骨しました。
海は繋がっています。
どこで潜っても私は母と一緒です。
著者の井筒 厚子さんに人生相談を申込む
著者の井筒 厚子さんにメッセージを送る
著者の方だけが読めます