パレスチナの難民キャンプのお母さんから聞いた、あたりまえの言葉
何も知らなかった僕
INTIFADA(インティファーダ)って知っていますか?
僕は当時(2001年)、その言葉すら知りませんでした。
テレビも見ない。ニュースにも興味がない。
バイト暮らしでふらふらしていた僕には、まったく縁がない言葉でした。
(たとえニュースを見てたとしても、そんな言葉、出てこなかったかもしれませんが…。)
僕のインティファーダとの出会いは、「地球一周の船旅」を主宰している、あるNGOの倉庫を掃除していた時に、訪れました。
(僕は、安く船に乗るために、そのNGOでボランティアスタッフをしていました。)
うず高く積まれた段ボールの一つを開けると、妙に迫力のあるTシャツが入っていました。
マスクをしている男が、何かに向かって石を投げようとしている絵柄が入ったTシャツ。
「 INTIFADA 」というローマ字が大きく入っていて、なんか無性に心がざわつくTシャツでした。
鬼気せまる、怒りが襲い掛かってくるような感じがして、
「コワッ」、「キモチワル」っていう第一印象。
家に帰って、ネットで調べてやっとINTIFADAの読み方を知りました。
インティファーダとは、イスラエルがパレスチナを軍事占拠していることに対する抵抗運動。
大きな軍事力を持つイスラエルに対して、パレスチナ難民にはろくな武器がありませんでした。
パレスチナ人たちは頭にストールを巻き、イスラエル軍の戦車やヘリに向かって、石や爆弾を投げて抵抗していました。
僕が見たTシャツは、その姿を絵にしたものでした。
しかし戦車に対して石を投げつけたって、当然敵うはずもなく、パレスチナ側にはたくさんの死者がでていました。
僕が見た、パレスチナ人難民キャンプ
僕が乗船した船は、地球を一周しながら、たくさんの国に寄港しました。
その寄港地の一つが、イスラエル・パレスチナ。
2001年6月、僕は100人ぐらいの日本人グループの一人として、ヨルダン川西岸地区にある、デヘイシャ難民キャンプに行きました。
そこは難民キャンプというよりは、一つの街でした。
コンクリートで作られたたくさんの建物が並び、現地の援助団体が用意したコンピュータールームまでありました。
ここができたのは、第一次中東戦争が始まった1948年。50年以上続いていた難民生活の中で、人々は不安定なテント生活などではなく、もうすでにその場所に根付いて生活していました。
壁に描かれた絵。1948年にここが難民キャンプになった当時は、こんな感じだったのか。
ただ普通に生活が営まれているとはいえ、少し前までイスラエル軍によって、難民キャンプの外への自由な出入りが制限されていました。
また、キャンプで子どもが生まれ、人口が増えたにもかかわらず、敷地は拡大されないために、建物は上に伸びていくしかない。
みためは立派でも、インフラは満足に整っていない。5人家族が6畳ぐらいの部屋で寝泊まりするような、とても厳しい状況でした。
難民たちをひとりひとり通すためにイスラエル側が設けたものキャンプへのゲート。
今では使われていないが、その時の無念さを忘れないためにこの門だけは残してあるそう。
ゲートが使われていた当時の様子
手をあげるパレスチナ人をイスラエル兵がねらっている。
「What did he do? ( 彼が何をしたの?)」
その街を回りながら、一人の少年の絵や写真が、いろいろな場所に貼ってあるのをみました。
現地の人に尋ねたところ、その少年は、イスラエルとの紛争の中で、最初に亡くなった少年だそうです。
その悲しみ、苦しみを忘れないために、たくさんの場所に彼の顔を貼っているそうです。
最初のインティファーダが始まって、初めて殺された子ども。
そのころは学校に壁がなく、紛争が始まって教師たちがインティファーダに参加しようとすると、子供たちも一緒に飛び出していったのだそう。
子どもたちが、戦車に立ち向かう理由
僕らは、笑顔の子どもたちとキャンプをまわりながら、一緒に遊んだり踊ったりして、楽しい時間を過ごしました。
みんな本当に楽しそうで、元気いっぱいでした。
でもその場所は、何十年と続く紛争地。
そこで聞いた、彼らのお母さんの話が、今でもとても印象に残っています。
“僕たちと笑顔で遊んでいた子ども達は、実は一週間ぐらい前から今日まで、全然笑わなかった。
”一週間前、キャンプの子どもが一人、イスラエル軍に殺された。”
“その少年は、大人たちの真似をして、イスラエル軍の戦車にむかって、石を投げた”
“石を投げた子供に向かってイスラエル軍は、大砲をぶっ放した”
実は子ども達にとって、戦車やイスラエル兵に石を投げる行為は、ちょっとした冒険だったり、勇気試しになっているのだそうです。
なので、いくら親がやめろといっても、内緒で勝手に参加してしまうそう。
その行為は、イスラエル軍からみると、
卑怯なパレスチナ人が、無垢な子どもを前面にだして戦うことで、人道的に攻撃できないように仕向けているようにうつるそうです。
でもお母さんは、涙を流しながら僕に言いました。
「自分の子どもを好きこのんで戦地におくる親が、いったいどこにいる!」と。
本当にその通りです。
そんなこと、ありえない話です。
今、僕にも娘がいますが、
僕は、自分の娘を戦場に行かせ、命の危機にさらすなんてこと、絶対にしない!
戦場にいかせるどころか、いつ爆弾が落ちてくるかわからない不安に怯えながら生活させるなんてことも、絶対にさせたくない!!
一週間も笑わなかった子ども達でしたが、でもその日は元気いっぱいに笑って、遊んでくれました。
たった一瞬の笑顔かもしれないけれど…。
お母さんからもらった、衝撃的な言葉
お母さんはまた、こんなことも言っていました。
「この何十年も続く紛争で、私たちは世界から忘れられていると思っていました。
だけど今日、大勢の日本人達が、はるか遠い日本から私たちの所に来てくれた。
それも『平和の船』という名の船に乗って!
それが私たちにとって、どれだけ嬉しいことか。」
僕はその言葉に、とても強いショックを受けました。
僕は、パレスチナの現状を勉強し、その悲惨さをわかったつもりでいました。
でも心の8割は、ただの観光気分でした。
現地の人と交流して楽しくすごせたらいいな、
普通の日本人が行ったことないような場所に行けるなんて嬉しいな、
ていうような、とてもミーハーで簡単な気持ちで行ったのに、それがパレスチナのみんなには、こんなにも大きな事だったなんて!
今も、何もできない僕ですが…
今、もしかしたら、あの時の子どもたちは、もうこの世にいないかもしれません。
生きていたとしても、恐怖と絶望のなかにいるんだと思うと、胸が苦しくなります。
難民キャンプのみんなに出会ってからも、相変わらず無力な自分。
ですがせめて、僕がみてきたことを、ここに書いておこうと思いました。
僕が行った2001年と今は、いろいろ状況が変わっているのだと思います。
ですが、パレスチナのお母さんが言っていたことは、今でもそのまま、その通りだと思います。
どこの国の誰だったとしても、
自分の家族や親しい人、愛する人が戦争に行くなんて、絶対に望まない。
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