普通の主婦の普通じゃなかった半生 (実話自伝)登校拒否〜身障者〜鬱病からダイバーへ 総集編
それで私は美容室を辞めました。
私が自立してから一度しか会っていなかった母のもとに戻るのは嫌でしたが、他に帰る場所はありません。
私は母のもとに戻らざるを得なくなりました。
その頃の母は化粧品のセールスをしていました。
膝が痛いといって戻ってきた娘を仕事が辛いから甘えていると思ったのでしょう。
相変わらず世話はしてくれませんでした。
でも、一月以上かかっても治らない膝の激痛。
私は彼氏に頼んで大学病院に連れていってもらい詳しい検査をしてもらうことにしました。
それまでのお医者さんとは違い、大学病院の先生は親身になってどこがどう悪いか?調べてくださいました。
検査には何週間もかかりました。
その頃はCTもMRIもありません。
単純撮影のレントゲンだけでは異常が見つからないので、膝がぱんぱんにふくれるまで注射器で造影剤を入れて、いろんな角度からレントゲンを撮りました。
レントゲンを撮った後は、また注射器で入れた造影剤を抜きました。
それから、膝を支える筋肉がどこまであるのか?を調べるために膝の周りに針を刺して電極をつけ電流を流し、正常かどうかを調べました。
ただでさえ痛む足にその検査は痛くて辛いものでしたが、それで私の足がどう悪いか?がわかりました。
難しい説明はお医者さんじゃないとうまくできないのですが、膝には太い骨が2本あります。
その内側の骨が私の場合曲げた時に外側の骨より突起していて、その上についている膝のお皿がかなり外向きになっている生まれつきの障害でした。
激痛の原因はお皿を支える靱帯も外側と内側では長さが違ってゆるくて、それで簡単にお皿が外側に外れてしまい、お皿が外れた時に膝の筋が切れてしまったり、軟骨が欠けてしまったりすることによる出血と痛みでした。
そして、膝の上太もも部分の筋肉も普通の半分の長さしかないということでした。
何万人に一人居るかいないか?というかなり珍しい障害で私の検査結果は学会で発表されました。
「治るんですか?」そう聞いた私にお医者さんはこう言いました。
「今の医学では膝のお皿の周りにグルっとメスを入れて靱帯を切断し、お皿を一度取り外してから突起している方の骨を削ってお皿をはめ直し靱帯をつなぎなおすしか手はありません。でも、その手術をした場合、リハビリに1年くらいはかかりますし、たとえリハビリをしたとしても歩けるようになる保証はありません。それと若いお嬢さんには酷ですが膝にケロイド状の傷跡が残ります。」そう言われました。
頭の中が真っ暗になりました。
でも、その後にお医者さんはこう続けて言われました。
「今は転んでお皿が外れた時に傷ついた筋と欠けた軟骨で痛みが激しいでしょうが、半年もすればそれは自然治癒します。そうすればまた歩けるようになります。ただまたお皿が外れれば同じことの繰り返しになりますが、医学は日々進歩しています。それにかけて様子をみますか?」と。
完全に歩けなくなるかもしれないリスクを抱えた大変な手術よりも、私は医学の進歩にかけることにしました。
それまで痛いのを我慢しての松葉杖だった私は、その診断から車いす生活になりました。
身障者として認定してもらい身障者手帳も貰いました。
まだその頃バリアフリー化されていなかった町での車いす生活は予想以上に大変なものでしたが、半年も我慢すれば歩けるようになる。それを希望に頑張るしかありませんでした。
彼氏は私が身障者になっても、変わらずそばに居てくれました。
母は相変わらず無関心でそれほど心配した素振りも見せませんでした。
だけど、後になって家の仏壇の引き出しから私が見つけた紙に母はこう書いてくれていました。
「厚子の足が軽くすみますように。」
気分屋で怒りっぽく私のことなどほったらかしで喜怒哀楽の「哀」を見せたことのない母。
意地っ張りの母が私のことを心配していてくれた。。。
私はその紙をみつけた時、声を上げて泣きました。
働けなくなった私の生活費は母が工面してくれました。
彼氏もバイトして稼いだお金を私のためにつかってくれました。
そして半年が過ぎた頃、お医者さんのおっしゃった通り、私は歩けるようになりました。
ただ、またお皿が外れれば逆戻りです。
4時間以上の立ち仕事禁止、スポーツは水泳以外禁止、走るの禁止、階段の上り下りも極力禁止、制限だらけの生活でしたが、私はまた歩けるようになったことがこの上なく嬉しかったです。
いつ、また歩けなくなるか?わからなくても。
美容師は諦めるしかありませんでした。
そして足がずいぶん良くなって来た頃、私は私にもできる仕事を探しました。
私は唯一の取り柄だった絵を描くことを仕事にしました。
グラフィック・デザイナーといえば聞こえはいいですが、広告やポスターや包装紙やケーキの箱などをデザインする地味な仕事です。
それと、プラスして地方モデルのバイトをしました。
それも、モデルといえば聞こえはいいですが、写真館の店先に飾る写真やカメラマンが写真展に出す写真のモデルや地方紙のモデル、岐阜放送の岐阜だけで放送されるCMのモデルです。一度だけ全国紙のファッション雑誌に載ったことがあるくらいのマイナーなモデルでした。
モデルの仕事は楽な割にギャラが良くて助かったけど、うまい話はありません。
頻繁にある仕事ではなかったです。
写真 モデルの仕事をはじめた頃、当時有名だったファッションアドバイザーの方と。
写真 モデルの仕事をはじめた頃、 これは写真館のモデルです。
長い恋の終わり。
足の障害は治ってはいませんでしたが幸いまた歩けなくなることも無く、日々はすぎていきました。
私は22歳になっていました。
高1からの彼氏とはずっと続いていました。
彼は本当に優しい人で、私の願いをかなえられるだけ叶えてくれていました。
彼が車の免許を取って車を買ってからは、毎週のように海が好きな私を海に連れて行ってくれました。
海の無い岐阜県から海は遠くて3時間以上もかかるのに。
夏は泳ぎに、冬はただ海を眺めに。
彼との想い出の多くは海と海に行く車の中での会話や一緒に聴いた音楽です。
楽しい時も喧嘩した時もなにかといえば海に行きました。
海に行けばどんなことがあっても二人で笑顔になれたし、優しい気持ちになれました。
私たちは高1から7年間、ほとんど毎日一緒に居ました。
まわりはみんな私たちがそのまま結婚するものだと思っていました。
友人たちも母も。
私もなんとなくだけど、そうなるものだと思っていたと思います。
だけど、私はそんな優しすぎる彼を当たり前だと思っていたのです。
私は優しくしてもらえることに慣れすぎて、彼が居てくれることを当然のように思っていて傲慢になっていました。
ある日、突然、別れはやってきました。
彼が悪いのではなくて。
私のせいです。
その頃、私は大学のサークルに入っていました。
学歴のなかった私は大学生活に憧れていたのです。
大学に通っている友人たちが楽しそうで、サークル活動っていうものがしてみたかった。
その大学の学生だった訳でもないけれど、サークルに入れてもらって大学生の仲間になったような錯覚をすること、それがとても楽しかった。
彼はそれに反対でした。
毎日、何をするにも一緒だった私たちが私がサークルに入ったせいでで週一くらいしか会えなくなったから。
どんな辛い時でも一緒に居てくれてサポートしてくれてた彼よりも、私はサークルの楽しみにハマっていき、彼のことをないがしろにしていました。
怒ったことなどなかった彼を怒らせてしまいました。
「そのサークルでの遊びか、俺との毎日かどっちが大事なんだ?」って。
サークルには同年代の男の子たちもいっぱい居ました。
そこで浮かれていた私を彼は許せなかったのでしょう。
男の人が考えて口に出す言葉は真剣なものです。
今はそれがわかるけど、その当時の私にはわからなかった。
私は彼が言った言葉を無視しました。
ちょっと怒っているだけだろう。
そんな軽い受け止め方をしていました。
何日か過ぎた夜、サークルから帰ってきた私の部屋の前まで彼は車でいきなり来て、
彼は私に車の中から「さよなら。」を言いました。
走りすぎるテールランプを見ながら、そこまで言わせても、
私はいつもの喧嘩程度にしかとらえていなかったのです。
なんか怒ってるけど、私から気持ちが離れる訳がないって、あまりにも自分勝手な解釈です。
すぐに戻ってきてくれる。
その時、謝って別れたくないと言っていれば、私が反省して彼がしてくれたすべてのことがどれだけ大事なことだったかに気づいていれば、私たちは別れることはなかったでしょう。
でも、私はたかをくくっていました。
彼の怒りが冷めれば元通りになるって。
それどころか、彼が私の元から離れる訳なんてないって思い込んでいました。
どれだけ高慢で嫌な女だったのかと思います。
彼は二度と戻ってきてはくれませんでした。
あの「さよなら。」が最後の言葉だったのだと気づいた時には手遅れでした。
数ヶ月が過ぎて私がなくしたモノの大きさに気づいた頃、彼にはもう新しい彼女ができていました。
私と違って彼をとても大切に彼のことだけを想う彼女が。
彼が私と付き合っていた時から彼のことだけを想っていた彼女が。
その時にはもう、私には入り込む隙間はありませんでした。
彼の新しい恋人のお腹には命が宿っていました。
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