大飯原発運転差止訴訟の原告になったわけ

職場のあった石巻市は女川原発の立地市でした。

僕が原発に反対していたからなのか、電力会社の人が何度も訪ねてきては原発の話をしていきました。無言電話やいろんな嫌な事もありました。

それでも原発は危険と感じていたし、放射性廃棄物の問題などを訴えつづけました。


しかし福島原発が爆発し、私達は大阪府へ移住することになりました。原発は安全だと言い続けた電力会社や市町村や国は何も助けてくれませんでした。


震災後に向かった女川原発は本当に危なかったのだと自分の目で見て恐ろしくなりました。正面の集落は流され、木の高い位置には津波がここまで来たと標す様に籠や漁具が吊下っていました。


*奥の白い建物が女川原発。煙突も見える。



そして皮肉なことに移住先の大阪府茨木市から約70kmの大飯原発が唯一再稼働しました。

僕はどうしても許すことはできませんでした。


そして、私は裁判の原告になることを決意しました。

以下が第一回法廷での僕の意見陳述です。

(実際の意見陳述書には写真は添付されておりません。)

震災の事、原発の事、これまでの事を想いを込めてお話ししました。

これを読んで頂ければ、きっと原告になった理由を分かってもらえると思います。




陳述書 2012年8月29日 武藤北斗

福島第一原発事故の後、宮城から大阪に避難してきた原告の武藤北斗と申します。

2011年3月11日午後2時46分、私は仙台市にいました。地震には慣れているつもりでしたが、自然の力で大地があんな動きをするとは夢にも思わず、ただただ恐怖を感じました。地震で揺れる中、家族が心配で車に飛び乗りました。信号のない無法地帯を車が行き交う中、やっとの思いでたどりついた有料道は通行止めで、震災時は逃げることも困難だと実感しました。しかたなく下道で石巻へむかいましたが、道は歪み壊れ、橋は段差ができ、普通に走る事はできませんでした。なんとか家につくと、3人の子ども、妻、母は無事でしたが、父親が帰ってきませんでした。夜中に奇跡的に携帯が繋がりましたが、津波から逃れるため、父は雪の降る屋根の上にいました。電話は途中できれ、雪で体がぬれた父は寒さで命を落とすのではないかと覚悟しました。非現実的な恐怖が次々とおこりましたが、翌日から目に見えない放射能とたたかう過酷な避難生活が始まるとは思ってもいませんでした。

*津波の被害をうけた工場内(意見陳述には添付されていません)



ライフラインのない状況でラジオだけが頼りでしたが、そのラジオから信じられない言葉が聞こえてきました。「福島第一原発が爆発」。そして、女川原発のモニタリングポストから通常の400倍の放射能の数値も確認されました。先の見えない避難生活の中で、絶望のどん底に叩き落されました。奇跡的に助かった父は低体温症で弱り、原発爆発という事実を知らせるのはあまりにも酷でした。私自身も会社が流され、従業員の行方も分からず、未曾有の自然災害に混乱しているなか、見えない放射能との戦いは精神的にも体力的にも限界の状態に追い詰められました。

職場のある石巻市は女川原発の立地市であるため、私は原発に対していつも危険を感じていました。国や電力会社は原発事故は起きないと言い続け、危険を訴える市民や学者を軽くあしらうのを何度も目にしてきました。避難生活の中でその危険性が真実であったことを実感することになり、恐怖と怒りのはざまで胸が苦しくなる思いでした。放射能は目に見えず匂いもしないことが危険へのシグナルを鈍らせます。しかし、モニタリングポストの数値があがっているのであれば、この地域も危険な可能性はあると思いました。とにかく子どもを守ることを優先に考え、窓や換気扇をガムテープでふさぎ、水を探しに外出するときは服を3重に着て出ました。

 

*冷蔵庫の中身を調理。正面の窓枠はガムテープでふさがれている(意見陳述には添付していません)



生後3か月の次男は顔に湿疹ができはじめました。飲み水も貴重な状態では衛生的な処置などできず、放射能の明確な情報がない状態では外出して新鮮な空気を吸うことすらできませんでした。家族全員の体力が失われ、1週間が過ぎようとしたとき関西の友人が車で助けにきてくれました。すぐに息子を山形の病院に連れて行くと、顔面火傷と間違われました。

 

*肌に異変が始まり始めた当初(意見陳述書には添付されていません)



福島第一原発から遠い場所で落ち着いて避難・治療したい気持ちが強く、関西へ行くことを決意しました。宮城で原発の危険性を訴え、講演会や上映会を企画していた私に、多くの友人が電話をかけてきました。「今の状況を知りたい」「どう対応すればいいか知りたい」という助けを求める内容でした。放射能の質問には答えることができましたが、一番つらかったのは「大丈夫だった?今どこにいるの?」という質問でした。子どもを守るためとはいえ、放射能の危険性を訴えていた私が一番に逃げていたからです。泣いている友達に私は返す言葉が見つかりませんでした。

福島第一原発事故が起きなければ、もっと早く復興が進んだのは明らかです。放射能が復興を遅らせ、帰れない故郷を作りだし、必要のない不信感・怒り・悲しみ・憎しみを生み出しています。 そして、東京電力を救うためとしか思えない国の放射能に関する対応が日本の絆をぶった切っていきました。事故が起きたからといって、人間の放射能への影響は変わりません。実害とともに食品などの風評被害を作ったのは国に他なりません。

今回の事故は原発の安全が確認できない状態にも関わらず、許可を出した国にも大きな責任があり、この教訓を生かさなければなりません。しかしそれどころか、また無責任で危険な原発安全神話を作りあげ、再稼働前提の政策を進めようとする国の態度を見て、私はこの裁判の原告になる決意をしました。

関西に避難してから1年5か月が経過しました。住み慣れた宮城の家や海や山や自然や友人が恋しい。子ども達は友達や先生との突然の別れに苦しんでいます。津波から逃れ、家も無事だった私たちが、なぜこんなに苦しまなければならないのでしょうか。全ては原発の事故が原因です。あの事故さえ起こらなければ、多くの人が自分の街を離れることなく、自分の愛する街の復興に力を発揮できました。日本は同じ過ちを繰り返そうとしています。原発が爆発しても過ちに気付かないのであれば、日本という国が原発により消滅するのを待つしかないのでしょうか。命をかけて守った子ども達にそんな未来は残したくありません。そして、捨て場を決めることもできない「放射性廃棄物」を作り続ける原発を子ども達に残すことも絶対にできません。

原発安全神話にのっとった経済性の話に興味はありません。福島や東日本の今を直視すべきです。大飯原発での事故を想像してください。今は多くの国民が原発や放射能に関する知識を持ち、携帯電話に放射能測定器が搭載されている時代です。こんな状況で大飯原発が爆発事故を起こせば、関西圏が今世紀最大の大パニックになることは間違いありません。滋賀県のシミュレーションでは大阪にまでヨウ素が拡散されることが示されています。そうなった時、いったい誰がどうやって責任をとれるのでしょうか。福島原発事故の賠償すら今なお不明確なままです。双葉町から町ごと避難してきた住民は、いまだに200名を超す人たちが避難所に住んでいる状態です。

私には信じられないことですが、活断層の危険性を指摘されている大飯原発の再稼働を国が認めてしまいました。防潮堤の建設も、事故時の重要な施設である免震棟もない状態で、どうして原発の安全を謳えるのでしょうか。危険性を訴える専門家や市民の声を無視して起きた福島第一原発事故の教訓をあざ笑うかのように、安全を規制するはずの国自らが安全神話を作っている現状では、私は原発事故で苦しんでいる人、亡くなった人に顔向けできません。

原発爆発事故が自分の国でおこっても、安全を規制する気がなく、事業者のいいなりになっている政府など頼りにできません。国民の意思を無視し、国民の命をおびやかす危険な状態で再稼働した大飯原発3・4号機を、司法の正義の判決で停止して頂く事を心より求めます。この裁判の判決で日本や世界の子ども達を新たな放射能被害から守る事ができます。私は司法を心から応援し、一緒に歩んでいきたいと思っています。

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