精神障害の母とアル中の父から教えられた「実にシンプルな生きることの意味とは?」後編
※最後に追記文を載せました(2019年3月15日)
前回のお話では、私の生い立ちについて簡単に触れました。
その後、両親だけでなく、私の人生も上手くいかなくなっていました。
大学進学のために、家を出たものの、3年のときに、中退してしまいました。
外側の言い訳は、
「父親がリストラされたから家計の負担を減らすため。あと、このまま大学に残っても別に得るものもないだろうし。」
というような、かっこつけた理由を付けていました。
しかし、ホントのところの中退の理由は、そんなかっこいいものではありませんでした。
それは、ただただ衝動的なものでした。
大学では、親友と呼べる友達もできて、それまでの人生の中でもっとも楽しく、そこそこ上手くやれていたのですが、どこか生きづらさを覚える瞬間というのがあり、どうしても逃げ出したくなってしまったのです。
実は、私には発達障害があることが最近になって分かったのですが、この時の逃げ出したい感覚というのは、どうやら発達障害の特性から来ているものだと考えています。
↑追記:病気や障害の診断は医師によって変わってくるということがわかり、現在は発達障害なのかどうかは追求しないことに決めたので、真相はわかりませんが当時の状況のまま書いています。(2019年3月15日時点)
当時はもちろん、そんなことは分かりませんでした。
そこからずっと、色んな仕事を転々とするようになります。
中退してすぐは、実家に戻るのがいやで、大学近くの美容院で見習いを始めました。
なんとしてでも、友人と会うために大学近くに残りたいと思ったからです。
しかし、しばらくして辞めてしまいました。
色んな技術を覚え始め、美容学校の通信生にもなったばかりのことでした。
スタッフともかなり打ち解け始めたのに、なぜだか苦しくなってきたのです。
その後も、ホントにたくさんの仕事を経験してきました。
長く働けた仕事もあれば、一日で辞めてしまった仕事もありますが、覚えていないくらいの職種を経験しました。
どの仕事も、同じ2つの理由で辞めたくなりました。
その理由とは、ある程度、会社の人と仲良くなり始めると苦しくなってくるというのがひとつです。
あとひとつの理由は、仕事に対する自信がなくなってしまうというものです。
元々、人とのコミュニケーションが苦手だった私は、小学校の高学年頃から、おびただしい量の人間関係の書籍や心理学の書籍などを読んで、人並みになろうと試みました。
そのかいあってか、その後の人付き合いは普通にこなせました。
仕事でもプライベートでも、人から相談されたりすることも多くなってきました。
あなたと話をするとなんだかほっこりすると言ってくれる人もいたりしました。
ところが、実際のところ、それらはあくまでも書籍を読んで得た知識をそのまま再現してきたからのことに過ぎませんでした。
ホントの意味での人間付き合いやコミュニケーションは、よく分かっていなかったのです。
なので、誰かと親密になればなるほど、だんだんと苦しくなって逃げ出したくなってしまうのでした。
また、人間関係だけでなく、仕事についても同じで、常識が身に付いていなかった私は、ひとつのことをするために、何時間もかけて、そのことについて調べなければ、行動することができないでいました。なので、日々の業務をこなすために、毎日クタクタになっていました。
表情に感情があらわれにくい特性があるため、いつでも余裕で仕事をこなしていると勘違いされてしまうことがよくありました。
そのため、働き出すと、すぐに、色んな仕事を任されたり、指導役に回されたりということがよくありました。それらのほとんどが、自分の能力以上のことだったので、すぐに辛くなってしまい、逃げ出してしまうというパターンが続きました。
そうして、転職を繰り返したり、お酒を飲んでばかりの日々を送ったり、ギャンブルにのめり込んだり、いけない遊びにハマったりと、とにかく自暴自棄な生活を送っていました。
ついには、精神科に入院することになってしまいました。
その入院をきっかけに、生活保護を受給した時期もありました。
この生活保護から抜け出すのにとても苦労しました。
一度は抜け出せたかと思ったら、また受給者に舞い戻ってしまうというスパイラルが続きました。
生活保護の仕組みというのが、一度抜けだしても、どうしてもまた生活保護に戻してしまうような仕掛けになっているようでした。これについては、他で書いてみようかと思っています。
それからも色んなことがあり、数年が過ぎました。
ある日、久しぶりに実家に帰りました。
お金を借りに行ったときのことです。
元々、家族らしい家族ではありませんでした。前編にも書いたように、ちょっと変わった家族だったので、小さい頃の写真や、家族の写真は一枚もありません。
また、家に帰っても、おかえりやただいまを言うという習慣もありませんでした。
あと、家族で食卓を囲むということもほとんどありませんでした。
誕生日を祝うなんてこともありませんでした。
正月やお盆に親戚の家にでかけるなんてこともほとんどありませんでした。
そんな実家に帰ったときのことです。
私が帰ったと、父親に気づかれないように、コッソリと母親を玄関まで呼び出しました。
父親はその頃アルコール依存がひどくて、暴言を吐くことが多かったからです。
私は、小声で母親にこう言いました。
「お金貸して欲しいんやけど」
すると、母は、何も言わず、嫌な顔ひとつせず、お金を持って来てくれました。
私は、元々、両親のためにお金をいっぱい稼いで喜ばせてあげたいと考えていました。
それなのに、現実といえば、お金をあげるどころか、お金をもらってばかりでした。
他にも、両親の世話をしようと、一度は実家に戻って暮らしはじめたこともあるのですが、その時に父はなけなしの全財産を私にくれました。アルコール依存から体はボロボロになっていたので、死を覚悟してのことかもしれないと思いました。それなのに、当時の私はそのお金もあっという間に使い果たしてしまっていました。
挙句の果てには、家も出てしまいました。
定職にもつかず、結婚もしない私は、親に合わせる顔がありませんでした。
それでも、お金が必要だったので、その時だけは実家に帰ってお金を借りるという親不孝な行為を繰り返していました。
そして、話は戻りますが、この日も、母は黙ってお金を貸してくれたのでした。
お金を受け取った瞬間、あまりの申し訳なさに、涙が溢れてきました。こらえようとしても、こんなに涙は出るものなのかというくらい、大粒の涙が溢れてきます。
父親にバレないように、静かにしなければいけないと思いつつも、泣き声まで出てしまう始末でした。
ホントに子どものように、泣きじゃくってしまいました。
とにかく情けなさと、申し訳なさでいっぱいだったのです。
その時の私の生活状況や、それまでの出来事など、どこでどう生きてきたのか、両親は詳しいことは何も知りません。
また、母親は、ある程度は精神症状は改善してはいましたが、やはりちゃんとした会話をするには、まだまだという感じでした。知的な遅れのある発達障害の人と話すような感じの会話になります。
話をしたいときには、分かりやすく簡単な表現にして説明すると、ある程度、理解してもらえるかなという感じでした。
それなのに、その時の母親は私のことを全部分かっているかのように、こう言ったのです。
「泣かんでよかやんね。生きとけばそれでよかと。ただおるだけでよかやんね。
アンタが泣きよったら、おいも悲しかよ。」
標準語訳(泣かないでいい。生きていればそれでいい。ただ存在してるだけでいいよ。アンタが泣いてたら、私も悲しいよ。)
毎日、自責の念にかられて、どうしようもなくなっていた私に、ドカンとその言葉は響きました。
とにかく、正社員として働き、出世して、結婚もして、子どもも作って、良い家に住んでというエリートコースを歩まなければという、強迫観念にかられていました。
(今思うとこの自分で勝手に作り出した思い込みによる強迫観念が、苦しみのすべての根源だったように思っています。正社員でなくても生きる道はいくらでもあるのに、浅はか過ぎた・・・。)
普通の人として生活できない自分は、なんて価値のない人間なんだろうと思っていました。
人様に頼らないと生きていけないなんて、生きている意味などあるのだろうかと、死を考えることもありました。
そんな私に向かって、母は、
「ただ存在していればそれだけでいい、それ以外のことはたいしたことじゃない」
というシンプルな生きる意味について教えてくれたのでした。
そして、まだ玄関で泣きじゃくっていると、
今度は、寝たきりでほとんど動かないはずの父が、
そして、幻覚幻聴のせいでまともな会話ができなかった父が、
起き上がって、私の方に向かって歩いてきたかと思うと、一言、
「生きていれば、色んなことがあると」
そうつぶやいて、トイレに入っていきました。
親らしいことは、何ひとつも言ったことがなかった両親から、その日は、すごく大切なことを教えてもらいました。
それから私は、少しづつではありますが、なるべく自分らしく生きるように心がけるようになりました。すると、ちょっとだけ生きるのが楽になってきました。
生きるということはどういうことなのか?
このことを、小さい時から、散々考えこんで、悩みまくって、答えを探して、色んな人と話したり、色んな本を読んだり、色んな経験をしてきたのですが、まさか両親から教えられることになるとは想像もしませんでした。
追記:このストーリーは2014年に投稿した作品です。2018年10月に父親は他界しました。私が最後に見た父の姿は、このストーリーに出てくる父でした。いつか会いに行こう、いつか行こうと思っているうちに、もう会えなくなってしまいました。
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