10ヶ所転移の大腸癌から6年半経っても元気でいるワケ(1)

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はじめに

2008年4月。S状結腸原発、肝臓2ヶ所、リンパ7ヶ所、更に腹膜まで・・・と転移だらけの末期がんだった私が、手術から6年4ヶ月が経過して、その出来事がまるで嘘だったかのように元気に生活している。ちなみに2009年の肝再発・再手術後は「抗がん剤」も拒否して経過観察のみ。よって抗がん剤の副作用に苦しむこともなく、精神的にも身体的にもガンの呪縛から逃れて幸せな日々を送っているのである。

現在ガンに苦しんでいる患者さんやその家族の方に何かしらお役に立てば、との思いで書き始めた闘病記だが、まとめ始めてみると如何に自分が多くの方にお世話になってきたか、そして、その人たちのお蔭で今の自分があると言うことを痛感させられる。みこしは担ぎてがひとり欠けても傾いてしまう。多くの人たちに担がれて私は三途の川から引き揚げて来た。感謝を込めて今までの経過を徐々にアップしていこうと思う。


お断りしておきますが大腸ガンと言う病気の性質上「下ネタ」が多々登場しますが、どうかお許し下さい。




 それは2007年の2月。突然のがん告知から遡ること1年前の出来事だった。痔による出血は経験したことがあるが、その日、トイレットペーパーに付いて来たのはレバー状の血の粒々。3ミリ程の粒々が7,8個連なっていた。便をしたわけではないのに飛び出してきた不可解な物体。『ひょっとして大変なことが起きているのでは?』楽観的な私にしては珍しくなんとも嫌な予感が脳裏をよぎった。
 
とりあえず病院に行かなければと思い、翌日朝一番で市内にあるクリニックに足を運んだ。かかりつけの内科はあるが肛門科併設の方がより確かかと思い、バスを乗り継ぎ町外れの小さなクリニックへ向かった。
 
「切れ痔だね。薬を出すから治らなかったらまた来て下さい。」出されたのは小さなチューブに入った塗り薬だけだった。
 
内視鏡検査を勧められるわけでもなく診察は一瞬で終わってしまった。こんなことならわざわざ来ることもなかったかな?と思いながら、まあ良かったと胸を撫で下ろした。
 
「切れ痔って言われた!大変なことかと思って行ったけど良かったよ~」帰宅した夫に洗面所でそう話しかけたことをはっきりと覚えている。まさか誤診とは思わずに・・・。
 
それから半年余り何事もなく時は過ぎていった。
 
ところが秋に入ると、しばしば鈍い腹痛を覚えるようになった。既に閉経していたが、それは鈍い生理痛のような感じで、我慢できない痛みではないものの、気分のいいものではなかった。そして腹痛のあった後には決まって少量の出血があった。それは子宮からではなく明らかに肛門からの出血だったが、痔のような痛みはなかった。

 

しかし、クリニックでは「切れ痔」の診断を受けていたから痔なのだろうと・・。しかも月に1,2度くらいの頻度ではわざわざ病院に行く気にもなれなかった。痛みが酷いとか大量の出血でもない限り、好き好んで肛門科に行く人などいないだろう。
 
9月10月11月・・・と少量の出血と鈍い腹痛はあったが、12月はそれもなく治まったかのように見えた。中3の息子の受験も目前に迫り、12月は最終面談と受験票記入と忙しい日々が続いた。
 

 



年が明けて、私立校の受験が始まった。第一志望である公立の入試は3月だが私立も何校か併願するのが当たり前で1月から2月にかけて入試ラッシュとなる。公立校の前哨戦とも言える私立高の受験が終わり、めでたく全て合格した。特待合格も勝ち取れたので第一志望である県立合格の自信にもつながった。   すべては順調にことが運んでいるかのように見えた。まさかその数日後に恐怖の出来事が起きようなどとは・・・誰が想像したであろうか?  


それは1月終わりの土曜の夜9時ごろのことだった。便意を催しトイレに入るとシャーっと言う音と共に水様便が出たように思われた。おなかを壊した感じでもないのになぜ水様便・・・と思って腰を浮かし便器を見た私は我が目を疑った。便器の水溜りが真っ赤に染まっていたのだ。便が混じった様な感じはなく正に鮮血の色。一体何が起きたのか?   土曜の夜から日曜にかけて同様の下血が4回。とにかく痔と診断したクリニックにもう一度行くことにした。   触診で「もしかしたら奥のほうに癌があるかもしれない」と癌の可能性も匂わせたものの、じゃあ内視鏡検査しましょうという言葉は出なかった。翌日も来るように言われクリニックを出たが、どう考えてもこのままではらちがあかない。

 

私はここで見切りをつけることにした。自宅に戻ると早速クリニックに電話。嘘も方便で「もし手術になった場合、実家近くの病院が良いのでそちらに移ります。」受付の女性は、「ハイ分かりました」と言うだけで紹介状という言葉も出なかった。あっさりと縁が切れたのだ。   この判断が最初の生死の分かれ目だったような気がする。駄目と思ったらサッサと見切りをつける。遠慮がちな日本人はどうもこういったドライさに欠けていて、チャンスを失うことが少なくないように思われる。ましてや命がかかっているとなれば、もたもたしている暇はない。  


 主人とも相談して隣町にある有名な肛門科専門病院に行くことにした。正確に言うとその病院が経営する検診センター。以前主人が世話になった本院は不便なところにあるが、検診センターはターミナル駅から近く、車を運転しない私にとっては好都合だった。とりあえず電話で相談すると「一度来院されてから検査の予約を取ってください。」とのこと。

初診の担当医は触診するなり、すぐに内視鏡検査を受けるようにと翌週に予約を入れてくれた。




内視鏡検査の前々日から主人はおばの法事のため、東北の実家に帰省していた。息子が入試の真っ只中と言うこともあって私は家に残り、主人1人で帰省。内視鏡検査も1人で大丈夫と思ったので、主人が留守なのは承知でとりあえず予約の取れる最短の日にちに入れてもらった。
 
そして検査当日.。あれほどの大量下血を経験し、なんでもないわけないとは思いつつも、至って平常心で検査に望んだ。私は元々好奇心旺盛なので、いったいどうなっているのかこの目で良く見てやろうと内視鏡の画像を食い入るように見ていた。薄暗い部屋でモニターは大腸の内部を鮮明に映し出していく。

検査が始まってまもなく非常にグロテスクな画像が映し出された。明らかな腸管の狭さくが見られ、その壁面はグチャグチャ。それは腸に住みついた生き物、モンスターと言うか、見てはいけないものを見てしまったような・・・私は思わず息を呑んだ。ドクターは優しい口調で「癌かもしれないな~」と小声で言うとさらに奥へと内視鏡を進めて行った。

ポリープも発見。しかしながら先ほどのグロテスクな画像と比べると腸は明らかにきれいでお化け屋敷を抜け出したかのような明るさがあった。軽い鎮静剤のみだったため途中で眠ることもなく、自分の腸内をくまなく観察することが出来た。   なぜか「癌かもしれないな~」と言う言葉にも特にショックは感じなかった。癌かもしれないけど違うかもしれない。グロテスク振りからして良くないものであることは分かっていても、なんかいまひとつピンと来ない感じがした。恐らく鎮静剤のせいもあったのだろう。

全てが終わるとナースがやってきてストレッチャーごと隣室に運び込まれた。「しばらく休んでください」と言われ、疲れもあってうとうととしていた。
 
30分くらい経っただろうか。「先生からのお話がありますから着替えて待合室でお待ち下さい。」と言われ検査着から私服に着替え待合室に行くと程なく呼ばれた。
 
医師は机の上のモニターに映し出された先程の「画像」を大変厳しい表情で見つめていた。そして、顔を画面に向けたまま、キッパリと「これは癌です!」と告知されてしまった。正面向かって言われなかった分、衝撃は和らいでいたかもしれない。さっきは「癌かもしれないな~」とやさしい口調で言われたのに、わずか1時間後になんでこうもキッパリと断言されてしまったのか・・・。大体が普通は細胞診の結果が出るまで最終診断はお預けのはず。1週間とか10日後に主人と一緒に結果を聞きに来るつもりでいたのに・・・。
 
白髪混じりのベテランドクターに「これは癌です」と明言されてしまっては返す言葉がない。癌診断を受けて泣き出す患者も多いと聞いたが、たった一人で、しかもその場で断言されてしまっては涙すら出なかった。一転ドクターは優しい口調で「おなか切らないといけないな~。どこでも紹介状を書きますから。」と私の気持ちを気遣うように話しかけてきた。
 
私はすぐさま近くにあるがんセンターの名前を出した。「それは良いですね。今すぐ紹介状を書きますから、予約はご自分で入れてください。」と言われ診察は終了となった。程なく紹介状が出来上がり、看護師さんが手際良くがんセンターの電話番号を書いた紙を持ってきて、「すぐに予約を入れるように」と念を押された。

 

携帯電話は持っていたが感度が良くないため、間違いなく事を進めようとビル入り口にある公衆電話へと向かった。紙を持つ手が震え、番号をプッシュする事すらままならなかった。「大腸癌と診断されて紹介状を戴いたので予約をお願いします。」緊張で声も震えているにもかかわらず、電話していること自体、何か嘘のように感じられた。

 

恐らく混んでいて予約は何日も先と思い込んでいたが、「明日の2時半が空いていますが、来られますか?」と言われあっけに取られた。恐らくキャンセルが出たのだろう。正直なところ、もう少し心の準備が欲しいところだったが、予約を入れてもらった。それにしても、なんともまあスピーディなこと。下血があったことを除けば昨日まで一応元気だった人間が明日にはもう「がん患者」ということでがんセンターの門をくぐることになろうとは・・・。

 

主人にも連絡しようとしたが時刻を見ると正におばの法事の真っ最中。携帯にかけるわけにもいかないしとにかく家に帰るしかない。自宅までは小1時間かかったはずなのだが、頭が真っ白でどこをどう歩いたかすら覚えていない。ただ、ずっと頭の中を遺書の文面がエンドレスで駆け巡っていた。

 

何とか自宅にたどり着いた私は手洗いを済ませるなり、引き出しから自分の分の保険証券を取り出しテーブルに並べた。まずは死亡保険金の額をチェック。そして入院・手術の際の保険金。とりあえずこれだけあれば大丈夫だ。私が死んだとしても少しのお金は家族に残せる。なんかホッとした。
 
取りあえず大学生の娘と電車で30分ほどの町に住む妹に連絡し、翌日のがんセンター受診に付き合ってもらうことにした。

 

妹はその5年前に乳がんを患っていた。早期とは言え、癌と聞けば本当に心配した。入院中は都内の病院に日参した。すっかり元気になり安心した矢先に自分自身がガン宣告を受けようとは・・・。

 

両親を早くに亡くした私たち姉妹はお互い家もそう遠くない距離に建て、何かにつけ励まし合ってきた。常に元気いっぱいな姉が癌宣告を受けたことに妹もかなり動揺していたが「私の時お世話になったから出来る限りのことはする」と気丈に応えてくれた。
 
娘は勿論驚いていたが、常に冷静な性格で母親の一大事にも表面上は冷静に対応してくれた。そして受験真っ最中の息子には公立高の入試が終わるまで伏せておくこと。大騒ぎするであろう主人にもしばらくは内緒にしようと言うことになった。
 
夕方に息子は帰宅したが、何事もなかったように明るく振る舞い、軽い食事を準備して、いつもどおり塾へと送り出すとほっとした。とにかく受験が終わるまで気付かれない様に振舞うことが「親の役目」と思い、精一杯演技することを心に誓った。
 
夜に主人から電話があった。伯母の法事を終え、実家に戻ったところだという。内視鏡検査はどうだったかと聞かれ「なんかポリープはあったけど大丈夫みたいよ。念のため細胞取って調べてもらっているけど。」「そうか良かった。結果はいつ判るんだ?」と言われ、「10日くらいはかかるみたいだけどね。」とあっさり返答した。

 

まさかもうがんの確定診断ついていて、明日がんセンターに行くなど口が裂けてもいえなかった。息子の受験が終わった後だったら本当のことを言ったかもしれない。いや、もしかしたら言えなかったかも知れない。この時の心情をこう例えて話すと皆理解してくれる。「1万円落としたのなら言えるけど、100万円落としちゃたらすぐには言えない。」事が余りにも大き過ぎると口に出すのもためらってしまう。そんな感じだった。

 

 


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