僕がお金をたくさん稼ぎたいと思っている理由
僕はお金をたくさん稼ぎたい。
小学生の時、先生から「作文の書き出しで"僕は""私は"はできるだけやめましょうねー」って教わったけど、ここはあえてこの言葉で始めさせてください。
恵まれた環境の中でごく普通に育ってきたと思う。
小中高と地元の公立学校で、すくすくといい子に育った。小学生の時は普通に習い事をして普通に友達と遊び、中学生の時は普通に塾に通い勉強をし、高校生の時は普通に部活を頑張り普通に青春をした。
「東京に行きてぇなー」と思い、振り返ると適当に大学を決めた僕に、親は快く支援をしてくれた。地元を出て、横浜の大学で夢のキャンパスライフ。そこでも普通にサークルで遊び、バイトをし、勉強をした。
悪い道に逸れることもなく、ここに書けるような猛烈な受験をしたわけでもなく、普通に育った。たくさんの友人と信頼できる大人に恵まれ、ごく普通に、幸せに育った。
ほんのちょっとだけ違ったのは、父親がいなくなるのが周りより少し早かったこと。僕が小学4年生のとき、49歳で旅立った。
とても穏やかな人だった。父親に怒られた記憶はあまりない。学生時代にドイツへの留学経験もあった父は、僕が生まれたころにはすでに一級建築士として仕事をしていた。自宅のベットで療養しながらも仕事は続けていた記憶がある。たまにサッカーやキャッチボールをして遊んでもらっていた。病気をしてからは外で遊べなくなったが、「よくなったらまた外で遊ぼうね!」と言う僕に、父はいつも優しく微笑みながらうなずいてくれた。
病気が進行していたのは知っていたけど、まだ幼かった僕はまさか父親が本当に死ぬなんて思ってもいなかった。 ベッドがびしょ濡れになるまで泣いていた僕が、それでもすぐに立ち直れたのは歳の離れた姉と兄、そして母親のおかげだと思う。本当に周りに恵まれていた。
僕は馬鹿だから、当たり前なことに全然気付いていなかった。
なぜ小学生で父親を亡くした自分が普通に育ち、上京までできたのか。なぜ母親が仕事をせず、自分達の育児と家事に専念できたのか。なぜ、自分がやりたいことをやり幸せに生きられているのか。
馬鹿みたいに、普通が普通だと思っていた。
そのことにやっと気づいたのは、大学3年生の時。
急に、目が覚めたように留学に行きたいと思った。このまま大学生活を終わりたくなかった。高校の時から持っていた、「自分の夢」のために、アメリカでの生活と経験、そして英語力は必須だと感じていた。
調べてみて、分かってははいたがやはりお金がかなりかかることを知った。自分でバイトして貯めたりもしたが、時間と忍耐のない僕が工面できたのはほんのわずか。結局母親に相談した。

僕は自分の気持ちを説明した。この時、自分の夢のことも初めて母親に話した。母は静かに、真剣に僕の話を聞いてくれた。そして、母親が言った言葉は僕にとって晴天の霹靂、僕はいろんな感情でいっぱいになった。

自分が情けなくなった。僕が小学4年生の時、父は僕たち3兄弟が全員社会人になるまでのことを考えていた。そんなことも知らず、僕は「普通」に甘えて、何も考えずに生きていた。父親のいない末っ子が、部活や遊びや勉強に勤しみ、横浜の大学に行って楽しく生活する。そんな「普通」がいかに特別なことか、まったく分かっていなかった。自分の情けなさ、両親への感謝、尊敬、驚き。色んな感情が混ざり、自室で一人涙が止まらなかった。
そして今度は留学まで支援してくれる。ありがたくて、ありがたくて、本気で頑張ろうと思った。自分で生活費と学費を稼ぎながら大学に通っている人や、留学費用を稼ぐために昼夜バイトしている人もいる中で、自分はなんて恵まれているんだと、知ってはいたが、初めて気付いた。頑張りぬく義務があると思った。本気になる責任があると思った。
そして留学中の1年間は、人生で最も勉強し、最も悩み、最も頑張った一年だったと自負している。
留学の甲斐もあり、僕は来年から夢のスタートラインに立つ。ここまで生きてきて、やっと父親の大きさを実感できてきている。三兄弟の中で、自分が一番父親に似ているらしい。まだまだ父親のようにはなれないけど、いつか自分も彼のようなでっかい男に。これが、僕の今のもう一つの夢だ。
僕はお金をたくさん稼ぎたい。お金をたくさん稼いで、自分に子供ができた時に、自分の両親がそうしてくれたように、好きなように生きさせてあげたい。もしも自分が死んでしまったとしても、そのあと家族が不自由なく「普通」に生きられるくらい、稼いでやりたい。自分の子供が何かをしたいと思ったときに、心置きなく頑張らせてあげたい。それが、僕の両親に対する感謝の示し方であり、親孝行だと思っている。
これが、僕のお金をたくさん稼ぎたいと思っている理由です。
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