異国にて舞う姫。

    Jennyに初めて出会ったのは今から2週間前の月曜日、フランス語の教室内であった。一クラスに一人は可愛い子がいるであろう、と勝手に信じていた私は、授業初日、何気ない素振りで教室内を見まわし、クラスメイトを一瞥した。ふと、私の左後ろに座っている一人の女の子に目が止まった。肩にかかるストレートの黒髪、健康的に焼けた肌、そして何よりも特徴的な大きな瞳。そして彼女は中学時代に付き合っていたSにどことなく似ていたのである。教授が訳のわからないフランス語をまくしたてる中、私は彼女の国籍がどこであるのかを考えていた。彼女の隣に座っている友達らしき女の子が典型的なフィリピン系の顔立ちであったので、彼女もやはりそうであろうか、と思ったが、どことなく違う。髪や肌の色は東南アジア系ではあるが、顔のそれぞれのパーツははっきりとしていて、どこか西洋的でもある。知己のメキシコ人にも似ていたのでもしかするとメキシコの血も入っているのかしらん、とも思えた。全くもって人の顔というのは不思議である。東南アジアとメキシコのハーフであろうとだいたいの見当をつけたときに、出席確認をしていた教授が私の名を読み上げた。私は、”Here.” と少し格好を付けて発音してみた。しかし私の淡い期待とは裏腹に、彼女と一言も話すことなく授業は終わった。えてしてそういうものである。

  この時点では、私は彼女に特別大きな関心を抱いてはいなかった。クラスの可愛い女の子を探すのは、新学期の楽しみの一つであるし、私が受講している他のクラスにも魅力的な子が見受けられた。国籍不明の彼女は大勢の可愛い外国人の一人に過ぎなかったのである。いや、強いていえば、昔の彼女にどことなく似ているという、靄のかかった既視感が彼女の存在感を少し強めたかもしれない。事実、私は授業中に何度も後方の壁がけ時計を見るかのようにして、彼女の方に視線を向けた。昔の恋人、Sの面影を探すかのように。

  彼女の名前を知ったのは二日目の授業であった。大学の講義では、自由に席を選べるが、大抵の場合、一日目と同じ場所に座り、各々の指定席が出来上がっていく。私は彼女の隣に座るという度胸もなく、一日目と同じ席についた。すぐ左後ろには彼女。どうやらここが私の指定席になりそうだ。座席はUの字形に、教壇を囲うように配列されている。厳密に言えば、中心の平行線が下に沈んだHの形をしていて、各々の列は直列である。私は教授と相対する平行線の左側に座っていて、一方の彼女は私の左側頭部に向かうように、垂直線の後方部に位置していた。つまりわたしが左後ろを少し振り向けば、白板を見つめる彼女の視線とぶつかるわけである。同じように、少し振り向くだけで彼女の机の上に立てかけられた名札が視界に入る位置でもあった。[Jenny] 。フランス語の教授は授業の初めに、紙に名前を書いて立てかけるように求めていた。受講生の数は20人前後と決して多いわけではないが、この小学校の最初の授業のような氏名判別方法は、発音からスペルを推察できず、まして人の名前を覚えるのが大の苦手である私には好都合であった。

  三日目、私が少し遅れて教室に入ると、そこにJennyの姿はなかった。いつもの席が他の生徒に既に取られていたため、空いていた、今までJennyが座っていた席に腰を下ろした。彼女の友達、Yの隣である。講義はグループワークを伴いながら進むので、授業の間に何度かYと話す機会があった。Yはやはりフィリピンで生まれたようで、高校生の時に、この国に家族と共に移ってきたようだ。話す彼女の垂れ目を見ながら、私は彼女がパンダに似ていると思った。Jennyがどうして授業に来ていないのか、Yに尋ねようかと思ったが、私はまだJennyと会話をしたことがないので、いきなり彼女の話題を出すのも憚れた。このようにして私は、壊れもしない石橋を叩いて今まで生きてきたのである。Yは高校生の時、日本語のクラスを取っていたようで、私が日本人だと知るとたどたどしく「ごわんにちは。」と日本語で挨拶をしてくれた。私が「こんにちは。」と繰り返すと、Yは「こんにちは。」と今度は正しく発音し、「もうだいぶ日本語、忘れちゃった。」と英語で言い、微笑んだ。今度は可愛いタヌキに見えた。つづく




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