雑誌を作っていたころ(28)

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社長の異変


 青人社も創業10年を迎え、出版界で少しは知られた版元になっていた。しかし平凡社を一緒に辞めた創業メンバーは、この時点でほとんど社を去っていた。嵐山さん、筒井さんはもの書きとして著名人となり、渡邉さんは若手を何人か連れて「spa!」に行った。三村さんは河出書房新社に移り、西田さんはフリーの編集者になった。残っているのは、ぼくと社長だけだ。

 16人の社員のうち、昔からの仲間がぼくしか残っていないのは寂しかったらしく、馬場さんはよく、ぼくを誘って飲みに行くようになった。知り合いに紹介するときには「こいつは息子のようなものですよ」と過分な押し出しをしてくれた。馬場さんの子供は娘が2人だったから、男の子が欲しかったのかもしれない。


 作家でマネー評論家の邱永漢氏と一緒に会食をしていたときのことだ。健啖家で知られた馬場さんだが、いつになく食が進まない。と、突然馬場さんが苦しそうに顔をゆがめて席を立った。ぼくは悪酔いしたのだろうと思ったが、邱さんは何か異変を察知したらしい。馬場さんが席に戻ると、早々にお開きにしようと言い出した。


 こと健康に関して、馬場さんほど神経質な人はいない。積極的に運動はしないが、家にぶら下がり健康器を置き、毎朝ぶら下がってから青竹を踏む。娘が犬を連れてきてからは、「ムンク」と名付けたその犬と散歩するようになった。そして毎食後必ず歯磨きを30分。荒くれ編集者を気取っていたぼくらは、「そんなに長生きがしたいのかねえ」と、いつも陰口をたたいていたものだ。


 そして馬場さんは生命保険が嫌いだった。学研から紹介されて、ニッセイのお姉ちゃんが会社に出入りすることは許したけれど、自分では話も聞こうとしなかった。ぼくらがお姉ちゃんの色香に迷って保険に入ると、「金をドブに捨てるようなものだ」とさんざん嫌味を言った。

 ところが、邱さんとの会食の後、何を思ったか馬場さんが1億円の社長保険に入った。そのときぼくらは「節税のためなら、主義主張も曲げるんだな」と朝三暮四ぶりをさんざん嘲笑したものだが、後になってそれは深慮遠謀の賜物であることを思い知らされることになる。


 社長保険に入ってから半年ほどたって、幹部が馬場さんに呼ばれた。「じつは、食道に潰瘍ができたので、しばらく検査入院する」という話だ。みんなは「なあに、鬼の霍乱ですから、すぐ良くなりますよ。病院で骨休めしてきてください」と言っていたが、ぼくは半年前の異変を思い出し、嫌な予感にとらわれた。馬場さんに何かあったら、この会社はどうなるんだ。

 ワンマン会社にはありがちなことだが、青人社にはナンバー2がいない。嵐山さんも筒井さんも西田さんも、みな馬場さんのワンマンぶりに嫌気がさして辞めたようなものだ。譜代の家臣で残っているのはぼくだけだが、ぼくは若すぎるし経験が浅い。学研からやってきたお目付役の葛西さんと菊池さんも、独立するときに戻っていったから、青人社は父親と子供たちだけの組織になっていたのだ。


 しばらくしてから、馬場さんの奥さんに呼ばれた。「じつは、食道ガンなんです」。目の前が暗くなった。慶応病院で主治医の先生と話す。

「発病は3年くらい前ですかね。食べたものがつっかえるような症状があったはずです」

 あれがそうだったのか。

 3年前といえば、学研から独立した時分だ。倒産を覚悟してスタートしたのだったが、社長の馬場さんには背負いきれないくらいのプレッシャーがかかっていたのだ。そんなこととはつゆ知らず、ぼくらは結果オーライの好景気に、ただ浮かれていた。お医者さんは余命を「3カ月から半年」と診断していた。


 奥さんとの申し合わせで、馬場さんには絶対に知らせないことになった。となると、幹部たちとの連携が重要になる。しばらくたってから、メンバーを召集してこの事実を知らせた。みんな一様にショックを受けた。ぼくは全員に箝口令を敷き、学研にも知らせないことを申し合わせた。知られたら、少なくともいいことはひとつもないという予感がしたのだ。

 それからというもの、ぼくが連絡係として会社と慶応病院を往復することになった。会社の動向を馬場さんに知らせ、指示を仰いで社に戻る。「ドリブ」と「おとこの遊び専科」については、編集長を同行して毎号の企画説明をして許可を得る。営業の仕事もあるから、急に忙しくなった。

 独立時は広告バブルのおかげで大黒字だった青人社だが、営業の立場から見るととても危うい状態だった。「ドリブ」は部数を伸ばせず、「おとこの遊び専科」は葛西さんが去ってからぱっとしなかった。販売収益だけで見れば、どちらも赤字雑誌だったのだ。もしも広告が昔の水準に戻ったら……。試算してみると、倒産は免れない。


 ぼくは慶応病院に行き、馬場さんに人事異動の計画を具申した。「ドリブ」はエッチな記事もあるが一般誌なので、広告面では安定しているが、「おとこの遊び専科」はエロ雑誌だから、広告バブルが去るといきなり影響を受ける。だから「おとこの遊び専科」だけでも部数を伸ばし、販売だけでやれるように立て直しておく必要があると思ったのだ。

 反対されるかと思ったら、意外にも馬場さんは「思うようにやってみろ」と言ってくれた。その案をただちに実行したところ、新編集長の大浦君が期待通りに活躍してくれて、「おとこの遊び専科」はたちまち息を吹き返した。


 馬場さんが退院することになった。末期ガンの患者にはよくあるらしいが、症状が安定している時期に、しばらく家で過ごさせるための措置だそうだ。何も知らずに喜んでいる馬場さんに、ぼくはエルメスのネクタイをプレゼントした。

「これを締めて、みんなに元気な姿を見せてくださいね」

 相手のためであるにせよ、嘘をつくのはつらいものだ。

 退院した馬場さんは、すぐに会社に現れた。全社員を前に、退院の挨拶をしているとき、胸元にはぼくが選んだネクタイがあった。

「この姿を目に焼き付けておこう」

 ぼくはそう思って、いつまでも社長の顔を見ていた。

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