10年間自殺することを考えていた。それを克服した。

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  自殺することを考える。それは高校時代からはじまった。

 高校時代、厳しく、辛い部活にいた。毎日練習で、月の休みは1回あればいいほど。私の青春時代というよりも、高校時代は部活に消えていった。マーチングバンド部だった。

 全国大会で金賞。確かに栄光だ。ただ、人間関係や中身、自分自身の満足度からすると、それよりも辛い感情が残ったというのも事実だ。


 休むことは甘え、熱が出ても風になっても、それでも頑張るのが正しい。できなければ、練習時間も練習するのがあたりまえ。そういうところにいた。病院に行くのでで休むというだけで白い目で見られた。

 そんなところでも、自分を律して努力してきた。だが、その努力が実ることはなかった。私はズボラで少し周りから浮いているところもあり、また遅刻などをするため問題児であった。体育会系なのにかかわらず、後輩からなめられていた。また、コミュニケーション能力もなかったため、ほとんど友人ができず、どちらかというと、部活仲間。といったほうがいい中の人しかいなかった。周りと合わなかった、いや、孤立していたのかもしれない。

 努力して、努力して、努力した。だが、成果はついてこなかった。楽しそうにしている人たちに差を付けられ、実力では後輩に抜かれた。良い先輩にすらなれず、能力もなく下手だった、つらい日々だった。

 きつい練習で部員は授業中寝ていたが、一定の先生たちは黙認していた。ただ、自分は頑張って起きて授業をうけた。母は双極性障害で悪い成績を取ろうものなら、心が張り裂けそうなくらい罵声を浴びせるのだ。練習で疲れて帰ってきて、母の愚痴、少しのミス、成績、部活を聞かされ、否定され続けた。100点のテストと40点のテストがあったら、100点のテストに対しては一言。40点のテストに対しては数十分、何時間も怒鳴られ続けた。そればかりではなく、部活をやめろと、週何回も言われた。私は頑張り続けた。


辛い、辛い日々だった。


 つらい部活、家庭から、心身ともに疲弊していた。絶望感からだんだんと死にたいという思いが芽生えるようになった。

 もうすでにうつ状態だったのかもしれない。だが、若かったので気力を振り絞って前へ進んだ。努力し続けなければならなかった。

 祖母の存在も重みになった。そういう努力し続ける姿勢を見て、その当時機能不全家族だった家族の救世主になれると思ったようだ、家事や洗濯、掃除を母の代わりにをするように、言われた。「あなたはスターだ」そう言われた。重みが増えた。

 様々な絡み合った重圧に耐え切れなくなってきていた。とても毎日絶望的な気分が頭のなかを支配した。他人は助けてくれなかった。ひたすら、授業の休み時間や、電車の移動時間は本を読んだ。本の世界の中にいた。また、自分のなかで空想世界を作っていた。今行っているアート活動に影響があるだろうと思う。

 灰色の世界を見ているようだった。楽しめることが、どんどんとなくなっていった。愚痴を聞いてくれる友人もおらず、だんだんと抑圧された感情のストレスがたまっていった。目の前を通り過ぎる急行電車に飛び込もうと思ったことは何度もある。


 どんなに努力しても報われない部活。どんなに努力しても否定する母親。部活は全国大会にたてた。全国大会のステージに限らず、ステージに立った瞬間。それだけが生きる糧だった。今も、音楽をはじめ芸術活動をしているのはそれがあるからだろうと思っている。


 大学に入ってからは、気を張ることは流石にできずぐうたらな生活になった。午前の授業をサボり、午後から投稿することも多々あった、やはり大学でもまわりに馴染めず、一人ずれていて、周りから浮いていて、一人のことが多かった。今ではぼっち飯と言うらしいが、ほとんどの昼食を一人で食べていた。人と一緒にいるのが普通。そういう存在に憧れた。

 頭のなかにある絶望感は消えることがなかった。母に否定され続けるのは変わりなかったというところもあるかもしれないが。死にたかった。というより、消え去りたかった。存在を忘れ去って欲しかった。

 精神科に行ってみることにした。あまり効果がなかった。薬を処方されるだけだった。短い時は30秒で診察が終わることもあった。

 大学でも若干の問題児だった。心因性失声症を患ったこともあるし、遅刻魔であることもある。こともあった。

 当時、まだ大学に自由な空気があって、教授たちも自由な人が多かった、そういった教授たちと話し、少し癒やされた(もちろん、知識欲から話しかけにいったのだが)ところもあるが、頭のなかにたまった絶望感を消し去るには不十分だった。

 大学は若干文系情報系でコンピュータにはまっていた。コンピュータに無料のLinuxなどのOSをインストールして、ひたすら目標とする環境を構築できるまでコマンドを打ち続けた。それは、久々に楽しかった。ただ、まったく生産性のないことだった。ゼミのボスにも指摘されていたし、ある程度は自分でもわかっていた。だが、それくらいしか楽しいことはなかった。

 大学ではある先輩とであった。後々出てくることになる人物だCさんという人だ。彼もトラブルメーカーで出会った時はたしか、すでに留年していた。彼はうつ病を患っていた。科研の共同研究で彼の雑用をすることになりその時親しくなった。


 私自身も、母に中学時代から、「なんでできない!!」と怒鳴られ続けて嫌いになった英語を落として留年した。4.5年で卒業した。就職活動は少ししたが、まったく就職できそうになく「お祈りメール」ばかりもらった、やる気が出なかった。私は社会に必要とされてない人間なんだ。そう思った。リーマン・ショックが起こったところで完全に諦めた。というより、必修の英語の単位がとれるかどうか、出席率が足りないと落ちるので、諦めざるを得なかった。


 大学を卒業した。卒業式はホールなどではなく、教授棟の最上階。出席者は十人弱でいつもは長い学長の話も短く、静かで短い卒業式を終えた、社会落伍者としては最適な処遇だったのかもしれない。


 大学を卒業すると、何もすることがなくなった。通っていた精神科にはデイケアという作業療法的なことを行って治療する施設が併設されていたので、そこへ通った。

 そこはお局様が支配していた。彼女は医療事務担当。だが、院長先生もやとわれでケースワーカー(PSW、作業療法士)も彼女に逆らう事はできなかった。彼女が気にいるようなイベントを行い、何かデイケア内で大きなものが必要なときは彼女の承認が必要だった。

 時に、患者と一対一で話し、機嫌悪い、または、患者との意見が食い違うとがと患者のせいにし、病院から追い払っていた。「腐った福祉」とはいうがそれを体現したような人だった。それが、「人を救う」であるとか、「人を導く」といった事をいう人に対して厳しい目線を送る強いきっかけになった。

 デイケアで、社会の役には立たないようなことをして、家に帰るとTwitterのタイムラインを眺めていた。なにもつぶやく気にならず、たまに「死にたい」とつぶやいた。

 そのお局様ともめてデイケアを去ることになった。運悪く東北大震災の数日前だった。次の病院のための書類は極めてずさんに作成された。

 福祉ですら、こんなありさまなのだ。そういう絶望感が新たに加わった。Google+というSNSが始まり、ニートとしてどうでもいいやりとりをしていた。あの時は、あそこは居場所だと思えた。

 そのSNSで出会った、あるイラストレータがいた、彼女もうつ病だった。その人が好きだった。弱く、時に攻撃的、でもとても美しい世界をみていた。そして、つらい過去を持っている。そんな人だった。彼女がTwitterで「死にたい」と書き込むのを見て、辛かった。こんなにも美しい絵を書くのに、筆を動かさず、絶望しているなんて。私は調子がいい時は彼女を励ました。「大丈夫だよ」そう、言った。

 私の好きだという想いは少しは伝わったようだった。彼女もそれをわかってくれていたようだ。けれども、住んでいる場所が遠く、コミュニケーション能力のなさと、そういうことへの不慣れから、だんだん距離が生まれていって、疎遠になってしまった。


 前に通っていた精神科とは違う、福祉施設にたまに通っていて、週一回音楽の時間があった。そこで、ピアノやギターを伴奏していた。その時期の救いはそれだったのだろうと思う。演奏をいろんな人から褒められた。


 ぼんやりしたり、昼夜逆転したり、死にたいと思ったり、ほとんど人とのコミュニケーションは母の罵声かインターネットのテキスト。そんな生活をしていた。

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