50歳にして親に捨てられました。No.2

小2の11月から泣き虫でチビなばあちゃん子の人生がジェットコースター並になりました。

年子の弟が大病を患いました。

その日風邪気味で学校行ったものの、熱が上がり保健室の先生が家に迎えの電話をしたら、弟が救急車で大学病院に運ばれたから誰も迎えに来られないと。

10月の半ばから健康そのものの弟が、発熱背中の痛みを訴えていた。
毎月の様に熱をだし蕁麻疹が出ては藪医者通いは私の方だった。
藪医者はちょっと親に甘えてるだけとか言ってるうちに、重篤になった。
弟は腎臓病だった。
水も制限され、大好きな果物も食べられない。
痛い注射を毎日の様に受ける。
まだ6歳なのに、研修医にデカイ態度をとる。
隣のベッドのお兄ちゃんは白血病で、お見舞いにメロンがくると、「僕も白血病だったらメロンが食べられるのに」と両親を困らせた。

毎週末は大学病院の家族控え室が私の居場所で、薄暗いカビ臭い毛布をかぶって少女コミックを隅から隅まで読んでいた。

小児病棟には読書スペースがあり、青白い顔したかわいい女の子が何人かいてよくおしゃべりをしてた。
その子達は白血病だったと後から知りました。

その頃父親はリストラに逢いアルバイトと退職金で食い繋いでいました。
弟の治療費が嵩みついには電話も売りました。
祖母と私は家に残されほとんど母子家庭状態。

金曜日になると必ず弟が危篤だとお隣さんの電話が鳴る。
木曜日の夜は明日の朝がこわくて眠れなかった。

金曜日学校から帰る道がとてつもなく遠くて足が重い。

隣のおばちゃんがばあちゃんを呼ぶ声がすると、またかと震えた。
片道2時間近く峠を越えて大学病院へ行くのが7か月続きました。

6月の蒸し暑い日にとうとう弟は逝ってしまいました。まだ7歳でした。

毎週末通った峠を越えてワゴン車で連れて帰る時、泣き続ける母を見ながらこれからどうしたらいいのかわからなかった。
弟が入院して7か月母は数回しか家に帰ってこなかった。
小1以上の子供は危篤以外は付き添い不可だったらしいけど、母は病院に頼み込んでベッドの脇に簡易ベッドを持ち込んで片時も離れず看病してました。

私は弟が羨ましかった。
両親は弟の看病で私には祖母しかいない毎日。
泣きながら授業参観のプリントを破ったこともありました。
クリスマスもお正月もばあちゃんと二人。

ある日近所の人がもらいっ子が元気で自分の子供が病気になるなんて、そんな噂話を耳にしました。

薄々感じてた違和感はこれだったんだとわかりました。

だから弟が亡くなった日自分に居場所はあるんだろうかと不安な気持ちになりました。
ばあちゃんが生きてる間はそれでもまだ良かったんだよね。守られていたから。

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