リストラに遭い中国に渡り嫁を連れて帰国した

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なぜリストラに遭ったのか?


このシリーズ、既に同名に近いストーリーを残しているので同じ内容にはしません。あしからず!


思えば2009年リーマンショックで私は会社を辞めるハメになりました。きっと同様の体験をされる方も多いでしょうが、当時は派遣村とかで随分人権問題がクローズアップされましたね?私は人材会社勤務でしたので非常に苦しい時期を過ごしました。あの秋葉原殺傷事件もあの時期です。これを機に派遣会社はどこでも叩かれる風潮となり、随分肩身の狭い思いをしたものです。



私は大手派遣会社で、新宿本社勤めしていました。ある日上司からメールが届きました。「事業部売却のため売却先の新規事業説明会に出席すること」これを読んで、ああ、来たな、と思いました。リーマンでかなり売上がダウンし、リストラをやるという噂が出ていたからです。

説明会に出るとみんな同じ事業部の連中が騒ぎ立てました。いつ会社がなくなるのか?賃金はどうするのか?みんな不安でしたねえ。

説明会に出たら説明者が「これからは北海道釧路の案件をやっていただくことになります」え?釧路かよ!?行ってもいいと思いましたが、父がガンに犯され宮城県の病院で寝たきりだったのです。この時期いくら会社都合だろうと釧路はいけないなあ。そう思い取締役に相談したら、案の定「追い出し作戦」だったのです。要は体裁を整えた上でのリストラです。

ああ、もうこの会社は嫌だなあ、と思いました。長く勤めても同じ境遇が何度もあるに違いない。それならいっそのことやめて宮城県へ父の介護に行こう!と思ったのです。


会社を辞めた数日後に「父危篤」のニュースが入りました。「葬式の格好でこい」と母が言うものですからすぐに仙台へ行きました。到着すると父は既にお棺の中にいました。悲しかったです。もう少し時期がずれていて欲しかった。リストラの最中にこんなことになるなんて。リストラが前後していたらもう少しゆっくり介護出来たに違いない・・・


それから1年、ボーとした日々が続きました。転職にしても企業にしてもうまくいく要素がないと考えた私はその翌年に上海へ留学の旅に出かけることにしました。

新天地、上海!

上海では、上海師範大学の普通中文課程に入りました。自分が45歳なので実に大学入学は27年ぶりでした。18歳の時の大学は(東京経済大)、自分のしたいことというより就職を見据えた入学でしたので、実感は湧きませんでしたが、今度は自分の力で大学を選んだという点では、これからやりたいことを思い存分出来るという希望感がこみ上げてきたものです。


しかし、最初の壁は自分の中国語力でした。日本では中国語検定3級を取得していましたが、はっきり言えば資格なんてペーパーでなんの役にたたない。現に18歳くらいのインドネシア人学生の会話力に翻弄されていたのです。彼らが華僑の子供とはいえ、こちらは日本人男児だぞ、負けてたまるか!ライバル心がこみ上げてきました。


とにかく、中国語でビジネスができるレベルにならないと話にならない。私の理想はかなり上にありました。彼らに負けるどうこうではなく、上海でビジネスの第一線に立てなければいけない。


そうして、1日12時間~15時間の勉強をして(こんなの受験勉強以来だぁ~)1年目にHSK6級を取得、2年目で高級ビジネス中国語課程へ、奨学金を取得し、2年目終了時には日系企業に就職が決まり、部長職で営業管理部門を任されました。


実は2011年3月の地震で、津波で家を失い、家財道具をなくし帰るにも帰れなくなっていたのです。もうビザが取れるなら中国に永住してもいいのかな?そんなことを考えている時でした。中国人と結婚して中国に住んでしまえ!そんな甘い考えが崩れた時がありました。


被災地から東京に避難していた母が脳溢血で倒れ、非常に危ないという知らせが兄からメールで入ってきました。私は大急ぎで飛行機を取り、その翌日に急きょ東京に戻ったのです。

母の手術は成功しましたが、年老いた母は津波で家が流され住むところを失い、東京で孤独の生活を送っていました。兄は母を看病しながら泣いていました。母の看病を1週間続け、私は上海に戻りましたが、2人を東京において私1人が上海で悠々自適な生活を送っていてもよいのだろうか?そんな疑問が生じてきました。


確かに日本でこっぴどい目に遭い、新天地上海に来たのは良かったけれど、やはり私は日本人であるし家族もいる、しかも47歳の年だ。もう自由になることは出来なくなっているのかもしれない。そこで今の仕事を一生懸命1年間やって、日本に戻ることを半分決意したのです。

しかしこのことは会社の上司には言えませんでした。まだ入社して数ヵ月、全く実績も残しきれていないし、何より自分自身も今の状況に納得していない。それならせめて今年1年は多いに暴れてみせよう。その後は全くわからないが。(連合艦隊司令長官山本五十六みたい!)


会社の上司に言われ、1人で中国福建省に行きました。目的は市場開拓です。しかし、現地には知り合いが全くいない。日本人はおろか中国人の知り合いすらいなかったのです。仕方がなく現地で「表面処理」という地元のメッキ協会が発行している機関紙を手に入れ主要な中国人の連絡先に中国語で連絡を入れたのです。中には「ふん!」という態度でガチャギリするものもあり、精神的な苦痛を味わったこともあります。それでも行けるところは行ってやろう!


なにせ1人、言葉ができても中国の場合方言がある。上海から来たといえば嫌われる。一番恐ろしかったのは最近福建で日本人排斥デモが2件起きたこと。こんな不安定な状況でよく日本人1人行かせるな!ここの代表は、と思ったものでした。(翌年会社を辞めるとき専務に説教しました。社員の安全をなんと思っているのか!!撮)


それでも厦門という場所の「厦門大学」の教授に会うため、堂々白昼大学の正門をくぐり中に潜入したりしました。ばれれば公安に捕まり刑務所行きでしょう。しかしこの教授は許してくれたのです。「日本から来てくれたのは嬉しい。それにしても君のような中国語話す日本人は見たことがない」とまでいわれました。教授は3人自身の仲間を紹介してくれたのです。


ゲリラ戦には強かった自分ですが、上司には可愛がられなかったかな?しょっちゅう対立ばかりしていました。「ああ、この会社は長くはないな」と思い仕事そっちのけで上海日本人会の人たちと交流ばかりしていました。


そこであったのが今の嫁です。2013年上海の白木屋で知り合い、しこたま飲んでカラオケーに行ってキスしまくって、翌週上海植物園にデートし「結婚しよう!」言ったのが全てかな?


なんと白木屋で知り合い、プロポーズまで延べ6時間という早さ!このことは縁を重んじ相手を理解するのに長い時間かけて伴侶を得る中国人をぶったまげさせました!!

「信じられない~!日本人って」

それに対し私は中国人に言ったものです。

「君は釣りをするのに(私に釣られていいのか)とか確かめて魚を釣るかい?違うだろ?人間の時間なんて一瞬だ。頭で考えるものではない。感性で決めるものではないかい?」

みんなの読んで良かった!