リストラから中国へ渡り、嫁を連れて日本へ帰国

2009年3月、突然会社からクビを宣告された。

人材系の会社に勤めること15年、まさかあの日を迎えるとは思っていなかった。

「事業部を閉鎖します。あなたを別会社へ転籍します。」私はその会社についてよく聞いてみた。住まいは神奈川県川崎市、新宿の会社に勤めていたが、転籍先はどこなのだろう?当時私はガンで寝たきりの病の父を抱えていた。面倒を見るために関東の場所を離れられない。そんな思いで転籍先の説明会に出席した。出席者は同じ事業部の子らであった。


皆神妙な面持ちで会場にいた。転籍先の代表が立ち事業の説明を行っていた。その途中とんでもない言葉がその代表の口から出たのだった。


「新規事業が北海道の釧路で行われます。」私はびっくりした。関東で父の介護に立ち会う必要があるのに、会社都合で釧路など行けるものか!その話が出た瞬間、私は会場をあとにした。そして当時人材事業をの代表を務めていた取締役にメールでこう書いたのだ。

「事業説明会に出ました。釧路に行くというのは今の父の介護の関係で絶対に無理です。このまま会社を辞めさせてください。」

数日後、取締役から退職承認の返事が来た。


4月に会社を辞めた。その7日後に「父危篤」の連絡が来た。すぐに支度して実家に行った時、父は息を引き取っていた。あまりにもダブルダメージが強く、自分の不幸に涙した。これからどう自分が生きていくか、先がわからないままもう会社に行くことなく、家でじっとする日々が続いた。

数ヵ月後、付き合っていた私の彼女が「一緒に台湾のお茶屋がやりたい」といった。何もできずぼーとする日々、ようやく道が広がったと思った。早速渋谷のお茶屋の学校入学を申し込んだ。そして台湾のお茶視察ツアーを組んで彼女と一緒に新婚旅行を兼ねて行くことに決め、旅行社へ申し込んだ。なんとかリストラと父の死という不幸を乗り越える必要があった。よし!これから事業をやろう!気持ちは一気に高ぶった。

旅行の2週間前、家に何か大きな荷物が届いた。なんだろうと思い開けると、なんと私が彼女にプレゼントしたものばかり入っていた。服、本、お茶、ぬいぐるみなど。小包の下の方に彼女の直筆で手紙が入っていた。手に取り読んでみると、

「やはり別れましょう。お茶屋の話、台湾旅行の話はなかったことにしましょう。」

驚いた。なんてひどいことなのだろう。こんなに人は人を簡単に裏切れるものだろうか?リストラ、父の死、そして彼女との別れ、同時に1ヶ月以内に来た。本当に信じられなかった。私の当時の年齢は45歳、就職先なんてどこにもない。既に50社応募していたが全て返事がなかった。当時リーマンショックで人材会社が次々に倒産し、派遣社員が大きな公園になだれ込み、派遣村を形成していた時代、派遣会社元社員というだけで社会の風当たりは冷たかった。貯金以外すべてを失った感じだった。これからどうするのか、なにも解答もないまま、1年を無駄に過ごしてしまった。

1年経過した2010年3月、ようやくある会社から打診が来た。面接が通り大阪へ行くことになった。やっと暗黒の世界から抜け出せる、そう思い関東から大阪に引っ越すことにした。その会社は今考えるとブラック企業の一種だったかもしれない。

大阪へ引っ越したまでは良かった。すぐに1日7社と面談せよ、という指令が来た。研修も何もない。企業リストもない。車もない。勝手もわからない。人脈もない。私は必死になってネットで企業検索して手当たり次第に電話をかけた。しかし100件電話しても全くアポが取れない。仕方がないので重いカバンを持ち阪急阪神京阪近鉄と乗りに乗り飛び込み営業を敢行した。全く成果が出ない。しまいには毎日上からどやされる日々。酒を飲まないと眠れなくなり、私はついにうつ病になってしまった。

思えば大阪など行ったことも働いたこともない場所に1人で行くのは無謀だった。東京神奈川で大半の人生を過ごした自分にとって大阪の雰囲気はあまりにも違った。今まで会社がなんとか自分たちのレールを引いてくれたという時代はとうに終わっていたのだ。社会という荒波をどんな手段でも構わないからサーフィンしながら乗り切るという時代に日本は変わってしまったのか?

体調不全で家で休んでいると上司から電話がかかってきた。

「今すぐ六本木本社へ来い。30件アポを取るまで本社から出てはならぬ」

つまり缶詰営業をしろというのだ。この会社は入社2週間目でこれをやらせられる。私は労働基準監督署へ駆け込んだ。今まで人材会社では、派遣社員が自分の会社を訴えるために監督署へ駆け込む。まさにその逆の立場になったのだ。

監督署へ行くと、あくまで労働基準法に抵触する証拠を持って来いの一点張り。違法性はサービス残業以外出てこない。当時企業のパワハラはあまり摘発されなかった時代。もう方法なしと思い、東京六本木本社へ行った。

社長に面会し、退職届を出した。月末まで速やかに大阪の会社の社宅を出るよう勧告された。こうしてわずか入社1ヶ月での退社。これで家まで失うことになってしまった。


もうなけなしのお金以外は何もない。大阪を出て東京にアパートを借り仕事を始めようとした。その時私の前の彼女が私に言った言葉が頭をよぎった。

「中国へ留学したいなあ。あなたも行ってくれば?」

当時、中国は沈みゆく日本の経済とは違い、北京五輪、そして上海万博開催と急激な経済成長を成し遂げていた。多くの日本人が上海を目指し、上海は日本人居住数ではニューヨークを抜き世界1位となっていた。巷の書店では中国語の学習テキストが所狭しに並び、電車の中では中国語の本を読む若者がたくさんいたのだ。もう私は46歳、このまま人生を終わらせるならいっそ中国へ行こう、と心に決めた。

大阪で全ての家財道具を廃棄、売り払い、荷物一つで東京へ戻ってきた。そして上海にある上海師範大学への留学を決め、私はその1ヶ月後に上海へ飛び立ったのだ。


2010年9月、46歳にして初めて中国の地を踏む。

中国国際航空夜便で9月5日上海国際空港到着。夜タクシーで走る上海の街はさながら未来都市に写った。追い詰められて求め来た上海、これから中国語をみっちり勉強し、英語と合わせ2カ国語を操れるトリプリンガルを目指さなければならない。期待と同時に、46歳でどこまで中国語をマスターし社会に通用する人間になれるか、不安は大きかった。

上海師範大学に入学し、中国語のレッスンが始まった。私は日本で以前に取得した中国語検定3級があったため初級レッスンが省かれ、いきなり中級からのスタートとなったが、このレベルの高さに驚いた。授業では全て中国語、先生は英語を話さない。しかもテキストの内容が中国の新聞とほぼ同じだった。周囲の韓国人、インドネシア人、日本人、ロシア人がいて皆普通に中国語で意思疎通している。私は全く彼らの話が理解できない。どうしようもないので英語を使って話を進めた。しかし先生はそれを許さなかった。

「君は日本人?中国に来たなら中国語だけで会話しないとね。」

先生の意見に従い無理矢理でも英語を捨てて中国語のみの会話にした。しかし、語彙力がないためすぐに会話につまる。仕方がなく「エヘヘ」と笑ってごまかしその場をしのいだ。


なんとか語学をうまく使いこなせるため、方法を考えた。私はギターが得意だったので、日本の歌を練習し、同時にテレサ・テンなどの中国歌手の原文を暗記し、ギターコードを覚えギターを持ち学校内の校庭に出てじゃんじゃか歌った。中国ではまだストリートパフォーマンスが一般的ではないからだ。毎日授業以外で暇な時はギターを持って校庭へ行った。30分も弾いていると中国人学生が来るわ来るわ、私の周りに円が出来一緒に歌を歌い始めた。「音楽に国境はない。友情はある」という信念を持ち長らくこうしたパフォーマンスをやっていたら多くの中国人友人が出来たのだ。毎日彼らと会っていると少しずつでも会話が出来る。この勉強法に勝るものなない、と私は確信した。

クラスの勉強についていくため、毎朝6時に起き中国語放送を聞き新聞を買って読み、寝る12時まで勉強する日々を6ヶ月間続けた。学校の勉強にもついていけるようになり、試験も満足な点数を取れるようになった。

半年の中国語学習は短すぎた。HSK試験(中国語検定)も3級と満足のいける点数ではないと思い、更に半年の授業を延長した。2011年3月11日、その期の授業がちょうど開始される時にあの事件が起こった。


上海で目撃した東日本大震災と実家の悲劇

口語の初授業の日だった。授業が終わると私は寮に戻り一息ついてパソコンを開けヤフーニュースを見た。そこにあったのは「仙台でM9の大地震発生」という驚くべきニュースだった。驚いて他のネットチャンネルを見たがまるで繋がらない。そう、その日の8日前、エジプトのムバラク政権が崩壊し、民主化を恐れた中国政府が軒並み西側のサイトを閉鎖したのだ。すぐにTVをつけニュースを見たがどこでも地震の報道はない。ようやくCNNのニュースを発見すると、そこで目にしたのは、実家のある宮城県名取市付近上空からの撮影で、家という家、トラック、乗用車や人が津波に巻き込まれ流されていくというショッキングな映像だった。実家には母と猫が住んでいる。大丈夫だろうか?

手当たり次第東京の友人や身内に電話をかけたが全く繋がらない。夜中寝るに寝れず、外に出て私は発狂した。東京も震災に遭い、誰もが大変な思いをしている状況に違いなかった。中国人の友人が部屋に来て慰めてくれたが、寝るに寝れずスーパーに行って飲めない白酒を買い一気に飲んでベットに就いた。

翌日も状況がわからない。母は大丈夫だろうか?幸い上海の社会部の新聞記者を知っていたので電話した。彼にも情報が入ってきていなかった。12日、今度は福島第一原発が爆発したという報道が中国中央TVで放映されていた。母は大丈夫か?周囲の日本人学生たちに聞いてみたが情報は全く取れない。中には仙台出身の学生がいたが彼女も身内の安否確認だけで精一杯だった。

なすすべがない。日本に帰りたくても帰れない。もちろん授業は出れない。日本のネットニュースはなかなか繋がらない。ただ身内からの「母は大丈夫だよ」という連絡を待つより他はなかった。

13日月曜日だった。上海師範大学の学長から呼ばれた。応接に通され状況を聞かれた。私は何もわからない、どうにもできないと中国語で答えた。学長は学校として出来ることは何でもすると答えた。

あれから3日が過ぎた。もう母はダメだろう、このまま上海で勉強し続けてもどうにもならない。安否がどうであれ、学習を諦め日本に戻ろう、そう考えていた時だった。

親戚のおばちゃんからメールが入った。そこには「お母さんは亘理町学校(宮城県亘理町)の避難所にいます。安心してください」とあったのだ!まさか!と思い兄に国際電話を入れた、兄はもう興奮していて、何を喋ったかさっぱりわからない。とにかく母は救われたのだ!なくなった親父が助けてくれたのかもしれない。私はすぐに校庭に行き、上海の空に向かって「ヤッター!」と叫んだ。周囲の中国人は何事かとびっくりしていたが、そんなことはもうどうでもいい。母は助かったのだ!!


それから数日後兄が新潟を抜け、避難所から母を救出して東京に戻ったらしい。ガソリン不足の中よく帰宅出来たものだと感心する。実家そのものと家財道具は全て海の藻屑と化してしまったが、母と猫は助かった。私が帰国しても家も家財もない中、ここまで来たら居られるだけ中国にいてやろうと決心した。そして1日14時間勉強を復活させ、数ヵ月後には新HSK6級を取得した。

2011年度には中国の奨学金を取得し、卒業後上海で仕事をすることに決めた。


2012年6月中国の日系塗料商社に内定が決まり、そこから部長職として中国国内の新規販売営業を行った。広州、福建、江蘇省、上海、南京、無錫などを営業でまわり、言葉も完璧に使いこなせるようになり、新規顧客も獲得した。このまま中国にいたほうが良いだろう、そう考えた矢先に、尖閣諸島国有化問題で中国国内で反日デモが発生した。上海は大きな問題にはならなかったが、やはり地方になると日本人に対する嫌がらせがちょこちょこ発生した。

このまま中国にい続けて良いものだろうか?疑問を感じながら会社で営業を続けていた。中国取引先と日系企業と人脈が広がり、上海において住むに困らない状況を作り上げた。女性も困らなかった。日本人駐在員が望めば夜の盛り場に彼らをエスコートし、通訳と交渉係まで努めた。

誰もが私が日本に帰らないだろう、と思っていた2013年6月、私にとって運命的な出会いが訪れた。



彼女(今の奥さん)との出会い

日本人関係の友人がたくさ上海にいたため、人脈には私は困ることはこれっぽっちもなかった。そこで2歳年下の女性と知り合う。彼女は上海在住歴17年で広告会社を上海の静安寺(日本で言う赤坂見附)に構えていた。なんと彼女と初めて会って17時間でプロポーズしてしまったのだ!彼女も快くプロポーズを引き受け、我々は結婚することにした。

周囲もビックラたまげた!(笑)何を考えているのだろう?あいつらは、という意見が大半だったが、僕らは自分たちの信念を曲げることはなかった。彼女と付き合い2日目、彼女が驚くことを私に言ったのだ。

「私、日本に帰ります。横浜で新居を構えよう」

え?上海の会社はどうするの?そう聞くと

「閉めるか、売るかどっちかな?」

本気かい?もしそうなると私のビザが2ヶ月で切れる。会社を辞めるということを意味する。しかし私はそれで良いと思った。同じ上海で苦労、嘆き、涙、喜び、絶叫を味わった人種だ。彼女がもう上海はいいというなら私も日本に帰ろう!そう決意した。

そして2013年8月末、上海の日本料理店で結婚式&送別会を壮大に催した。皆懐かしいメンバーばかりだ。皆お互いに新天地で苦労し、現在も活躍されている人たちだった。この人たちを一生の友としていこう、そう誓った。

9月2日、ビザ切れ間際の私は先に日本へ戻った、成田を出て久々に熱い風呂を楽しんだ。湯船につかりながら今までの旅を振り返ったのだ。「ああ、5年前からはひどいことばかりだった。でも今こうして健康に楽しく帰国を迎えられたことを感謝したい。上海よありがとう!」

2014年4月今度は日本、横浜で壮大な披露宴を開いた。お客さんの中には多くの上海組が参加された。もう一生の友だよ。これから未来に向かって一緒に羽ばたこう!こんなことをみんなに誓った。


今私たちは横浜に2人と1匹の猫の3人で住んでいる。たまに上海の日々を振り返ることがあるが、昔話よりこれからの事をみんなで力合わせやっていこう、というお話になる。


2014年末、社会貢献事業を推進する一般社団法人を立ち上げることにした。海外、そして日本を元気にしていこうという意図を持って新規事業を立ち上げる。


ありがとう!皆さん。皆さんの心意気、一生忘れないよ!


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