つながりすぎたネットワーク

 以前Tumblrを眺めていたらこんなフレーズが流れてきた。
"小さな承認を大仰に分け合う、繋がりすぎた私たちのネットワーク"(合評 duenn feat. Nyantora/duenn 文:野田 努、竹内正太郎 Feb 20,2012)
 その結束の度合いに関わらず、集団ができた時にお互いの価値を認め合う(相互承認が行われる)というのは当たり前のことだと思うのだけど、それがテキストベースで行われる場合、おそらく書いた人の意図を少しだけ越えてテキストの意味は強調されることになる。
 その場の空気・熱気やニュアンスについては大部分が除去されてしまうので、当事者たちの間では自然な言葉・行動も後から第三者が見た時、ちょっと滑稽に見えてしまう。
 昔に比べればクリエイターは自分の作品をいとも簡単に多くの人に見てもらえるし、そもそも音楽を作るのもイベントの告知をするのもすごく便利になった。仕事をしている人ならば、素晴らしいアイデアを思いつけばすぐに公開できるし、自分の仕事に対する達成感も多くの人に伝えることができる。
 そしてそれらは自然に承認される。ごく自然な欲求の達成だし、なんの瑕疵もない。
 ただ、それを行う場所がインターネットになったこと、そして誰もがラブレターを一晩寝かせて推敲するような用心深い人ではないということは何気なく行なってきた相互承認がもたらすものを少し変えたのではないかと思う。
 たぶんSNS以前に比べると、今では至るところに「最高の仲間」や「素晴らしい体験」があふれかえり、その一方でやたらとみんな社会に絶望している。
 書いた本人はさほど意識していなくてもそれを見た第三者は「ああ、この人は素晴らしい人格者なんだ」「すごく優秀な人なんだ」という認識を持つ。
 しかし、その言われた人やものがちょっとアレだった場合、何気ない善意や社交辞令の言葉によってその対象をほめた人への評価も巻き添えも食うことになるのは避けられない。
 ある意味善意とネットワークにおけるアクティブさがその人の評価を貶めることになるんじゃないかとまで思ってしまう。
 今後その反動が来るのか、それともこれが標準となるのかはわからない。
 ただ、対岸の火事的な見方をすると、言葉の価値が下落していけば反動的にますます『信頼できる意見の持ち主』の価値は上がっていくんだろうなと思う。ちょっと前のアルファブロガー的な感じで。
 そして、そんなものとは無縁な自分としては、せいぜい言葉の字面に甘えて、むやみに満足する位置を低く設定してしまわないようにしないと、色々もったいないことになるような気がする。

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