今も残る震災のつめ跡を、関西に住んでいた私が見た3日間のお話(2)

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昼前頃に仙台空港に着き、初めて訪れた空港の様子に少し浮かれた。今まで訪れたことのなかった東北の”玄関口”ともいえる仙台空港。

至って普通の地方空港で、特に震災による影響は見られなかった。そりゃそうだ、震災後は早々に仙台空港は利用が可能だったし、震災から3年以上ももたっているのだ。普通に利用できないわけがない。

最近テレビで見る被災地は工事中の様子や仮設住宅の様子などばかりで、こういった一般の人々の日常の暮らしがどうなっているのかということはあまり見る機会がなかったので、自分の想像していた被災地の様子と少し違ったことに驚きはなかったがなんだか不思議な感じがした。

けれど、レンタカーを借りて空港の外に出てみると、すぐに震災のつめ跡を見ることができた。



なにもない。


最初に訪れたのは空港からすぐ近くの名取市閖上地区。海岸線からわずか5キロほどの場所である。


先ほどいた仙台空港の日常が少し滑稽に感じるほど、何もない。

ところどころ家や木が立っているが、ド田舎出身の私の地元でもこれほどに何もないことはない。



3年たった今でも、当然のように車が通る橋の欄干さえ作られていない。

友人が震災から数回現地に訪れていたので、ある程度被災地の写真を見ていた。もっと崩れた家や流された車、陸に乗り上げた船があるのかと思ったが、見事なまでになにもない。

がれきだけがどこかに移動されていて、残った土地は今も何もされていないままだった。



この名取市に訪れた理由は、閖上中学校に訪れるためだった。

海岸線からわずか数キロ。津波から逃げてきた多くの人が避難した中学校だ。

動画サイトでも、この場所からせまってくる津波の様子を撮影した映像がアップされているので、名前を知っている人も多いかもしれない。

もちろん校舎内に入ることはしなかったが、校舎の裏手にある体育館の少し開いた扉から中の様子を覗いてみたら、地域の人やボランティアによってあつめられた数々の品物が保管されていた。

おそらくこの地域のどこかで流され見つかった物が、いつか持ち主の元に戻ることを祈って集められているのだろう。

泥だらけのランドセルやピアニカ、上靴、位牌や写真など、遠くから見るだけでも家族の思いでが詰まったものばかり。

亡くなった人のものなのか、持ち主がこの場所にあることを知らないままなのか、ただ持ち主の元に帰れないものなのか。真相はわからないが、3年たった今も、震災当時のままの姿で置かれていた。


校舎の中には、今も3月の行事予定のままの黒板が見えた。


おそらくこの部屋も避難場所や物置や何かで使われていたのかもしれない。床や壁の泥などはある程度キレイにされていたが、よく見ると窓ガラスには津波の跡が付いていた。

何重にもなる跡。水がこの高さまで来ていたことがわかる。


黒板にも残されている津波の跡。


3回目の冬を迎えてもなお、今だこの状態のまま、そのままになっている。

それでも黒板には、閖上中学の卒業生らしき人がこの場所を訪れたくさんのメッセージを残していた。

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