09さようなら【息子たちに 広升勲(デジタル版)】
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この話は、わたくしの父が1980年に自費出版で、自分と兄の二人に書いた本です。
五反田で起業し、36で書いた本を読んで育った、息子が奇しくも36歳に、
五反田にオフィスを構えるfreeeの本を書かせていただくという、偶然に五反田つながり 笑
そして、息子にもまた子供ができて、色々なものを伝えていければいいなと思っています。 息子 健生
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さようなら
昭和四十八年三月頃だったと思う。母ちゃんから手紙が来た。
“会員としていろいろな活動を参加してみました。それはいい勉強になりましたが、会員をやめたいと思います”という内容だった。
会員がやめることは会長の父さんにとって淋しいことであった。しかし、愛する女性が去ってゆくという淋しさではなかった。
だから、その手紙についてそれ以上くわしく思い出せない。
ともかく母ちゃんは、その手紙を送ってよこしたあと、会には姿を見せなくなり、父さんと逢うこともなかった。
それより四ヶ月前、四十七年十一月、会の専従職員として働いていた佐藤憲行さんが職員を退め、一部の会員の人と“あずみの会”という青年の交流を目的にしたグループをつくった。
母ちゃんもそのグループに加わり、ソフトボールをしたり、ハイキングに参加したりしていると、風のうわさを耳にしたことはあるぐらいだった。
その“あずみの会”もいつとはなし消えてゆき、母ちゃんと父さんの結びつきは、自然にうすく遠くなっていた。
そんな母ちゃんから、半年に一度ぐらいは電話があった。
「今度の都知事選には、美濃部亮吉をおねがいします」というような政治活動が、主なる要件だった。
きけば、母ちゃんは、勤めている三鷹中央保育園の先輩の勧めで“民青”に加入して、熱心に活動をしている、ということだった。
“彼女らしいな、何かをしていないと気のすまない娘だな”と思った。
父さんの方からは母ちゃんに電話をしたことも手紙を書いたこともなかったが、会で発行する会報“みんな”は、会の活動の一つとして送っていた。
母さんが会をやめてからも、父さんはみんなの会の活動をつづけていた。勇者の園一号館ができ、二号館を建て、三号館の建設も着工していた。
みんなの会は青年を中心にしたサークル活動から福祉事業体としての社会的な責任が大きくなって来た。
しかし、仕事が多忙で恋をするヒマがないということはない独身の父さんは、その間も常に結婚をしたい、と思っていたし、好きになった女性も何人かいた。また逆にプロポーズをされたことも何度かあった。
だが、そのどれもがどこかチグハグであった。
かといってその間に母ちゃんのことを恋する心で想い出すということは、ただの一度もなかった。
それが結ぼれたのだから、縁というものは不思議なものだね。
政治の形態を変えなければ
保育園に就職して半年位は、みんなの会の活動に参加したけど、退めて足が遠のいてしまったの。その理由はね、保母の仕事が楽しかったの。
もう一つ、保母として働きながら、社会の矛盾を感じたの。
子どもを育てているお母さんお父さんの、生活の状態や会社での厳しさなど知ったの。
また、保育をする上にも、理想に近づけるには予算がない。
このような社会の矛盾、ひずみを改めるには、黙っていてはいけない、自分も参加して行動しなくては、そう思い、政治活動に関心をもち民青活動をするようになったの。
働きながら子供を育てることは大変なことなのよ。
中小企業で働くお母さんは、子どもが病気をすると休まなければならず、不当に解雇されたり、保育園の保育時間が短いため、保育園から帰ってまた別の人に頼んでみてもらうなど、保母としての責任の大きさがわかって来たの。また仕事はすべてが新鮮に受けとられ責任の重いことだけど楽しかったの。
民青活動を続けていく中で、みんなの会に対する考え方がかわって来たの。
みんなの会では、老人ホームをつくる目的で募金活動をしているけれど、出来たところでわずかな老人しか入園することはできない。もっと現在の福祉行政全般をかえていくような政治運動をしなくてはならない、そう思いはじめ、お父さんとは考え方がちがい会を退めたの。
民青活動を夜十二時頃までやって帰宅することも多かったわ。
でも仕事にさしっかえないよう睡眠時間だけは八時間とるようにし、健康には充分気をつけたの。
だから、母ちゃんはやせたことは一度もないの。
母ちゃんは思ったの。
いい人だな、と思っていても、考え方が違うと、いつのまにか気持がうすらいでゆくものだなーと。
そんな訳で、みんなの会を退めて以来、二年間。父さんのことを想い出すこともなく、母ちゃんは、保育の仕事と、民青活動の毎日が続いていたの。
父さんは、母ちゃんが好きなのに父さんが相手にしないから母ちゃんが身をひいたように思っているようだけど、それは思いすごしなのよ。
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