何に価値があるか分からなくなりました

1 / 3 ページ

前に書いたもので、反響を呼んだ文章です。


Q&Aで話題になりました

この文章はQ&Aのやりとりから着想を得ました。

http://q.hatena.ne.jp/1402990130

「考え、考えきった結果、余計わからなくなりました。頭のなかにある一部を文章として書きだしたので、なんでもいいので回答を下さい」書きだした文章がこの本文です

http://q.hatena.ne.jp/1404286979

note.mu コメント25 1000PV 2014/12/6時点

https://note.mu/underthesky/n/n30c21fa8f179


岩崎夏海メルマガ(ブロマガ)に取り上げられました

http://ch.nicovideo.jp/huckleberry/blomaga/ar572430

1241文字の返信を頂きました


その他、個人宛てに送って、「すごいい文章だった」と言ってもらえました。


 では、ここからが本文です――


 最近何に価値があるかわからなくなってきてしまったのです。もしかしたら、何にも価値がないかもしれないですし、あらゆること、は価値があるかもしれないとも考えています。倫理的でないこと-例えば、人を殺す。しかも、特に理由なく。それすらも価値があり、また価値がないとも考えています。


 また今、体調を崩していまして、仕事をしていません。働かない理由の一つにすることもしないことにも価値を見出せないことが一つかもしれません。


 また、生きることについて、死ぬことについても考えています。まあ、これは在学時、また、それ以前からも考え続けたことでありますが。「社会的」(社会という単語もここでは自分は日本語以外の言語が使用できないので日本社会のことを指します)に意味があるとされていることは本当に意味があるのか、建前は意味があると装っていて、実はそこまで辛い思いをしてまで建前を貫き通すことが出来ない人が増えている。そのように、私(のみているパースペクティブ)としてはそう思います。それがニートであり、そこからさらに抑制された状態で、いわゆる「無敵の人」なのだと考えています。


 彼らは社会のハイコンテキストな空気に適応出来ず、社会の無言の圧力に抑制された存在なのだと思います。社会の倫理に虐げられた人間に今更、社会の倫理で説得しようとするのは無駄なことでしょう。しかしながら、刑罰という面において従順なのが不思議なのです。それは、おそらく、日本の教育、〜しなければならない(must be)が蔓延している結果なのでしょう


 最近、永井均や中島義道に興味を持っています。私がその気になれば、すこしくらいなら直接話ができるくらいの距離にいます。


 彼らになぜ興味を持っているかと言うと、恐らく彼らも、哲学という手法を用いて意味や価値、生、死について問いづづけた人だからでしょう


 今、自分自身がどうしたらいいかわからないのです。社会的には休養して仕事をするという回答をえられるでしょうが、今の仕事は、マニュアル化しコンサルタントによる効率化によって、(世界的も含み)社会がコモディティ化されている。それを経営者はわかっているので、マスメディア的にも経済社会的にも、現在の若者をゆとり世代といい、多くの問題を最近の若者的な問題にすり替えて押し付けている。俺たちの時代もそうだったと昭和世代はいうのだけれど、無縁社会化、監視社会化、昭和的なあなあさの消失、失われた10年、年金問題等々、当時の社会とは違い成長や豊かさという大きな物語が失われたのに関わらずのに同じもの、いやそれ以上のものを求められている。


 また、就職活動においてもビジネス化が進み、自分の世代もそうだったが、もはや、通過儀礼(イニシエーション)ともいえるものを乗り越えなければならない。しかも、この通過儀礼は文化人類学的な単純なものではなく、ホンネとタテマエが入り混じり、時にはそれが入れ替わる。欲望、または純粋な希望。そう言ったものが入り混じりそれを通過するにも。とてつもない精神的苦悩のあるものである。


 その通過儀礼を通過したとしても、ビジネスモデルとしての使い捨て、いわゆるブラック企業が跋扈している。厳しい競争を勝ち抜いても、その後に、さらに厳しい社会へと放り込まれるのだ。


 今の会社はグローバルな競争に向かわざるをえず、主要企業の行っていたビジネスモデルが一年たらずで崩れてしまう。


 企業倒産による、失業、リストラ、些細なミスによる解雇、これらは社会においては自己責任であり、手を差し伸べるものでは無くなってしまった。


 働かざるは食うべからず。行く場所行く場所そう言われる。

みんなの読んで良かった!