生きづらいと感じているすべての人に宛てるインドからの手紙
彼らの一日の稼ぎは数百円程度で、その半分を親方に持っていかれる。
というのも資本がないため自分のリキシャーを買うことができず、親方から借りているのだ。
数人で一台を交代で使っているワーラーも少なくない。
朝は1ルピーのチャイで済ませ、昼は食べず、夜は数十円のサモサとカレーを食べる。
そして残った何百円かをすべて田舎に仕送りしている。
インドのチャイが非常に甘いのは、その商売相手の低賃金労働者たちのカロリー需要と考えると分かりやすい。
そして夜はリキシャーの上で明かし、また同じような一 日が始まる。
それで彼らはこの上なく幸せなのである。
なぜなら彼らの稼いだお金で子供たちの腹はくちくなる、学校にも通える、嫁はきれいなサリーを買えるからだ。
自分が働いただけ家族を幸せにできるから。
自分が何をしているのか知っているから。
自分が、俺が、家族を幸せにしている。そのことを強く感じているから。
失業保険も生活保護もなくて、体だけが資本で、病気になったら、怪我したら、自分だけでなく家族も飢えることになる。
明日さえも分からない日々。
それでも誰もが生きる理由を知っている国。
ここでは生きることはとても単純で、生きることと食べることと働くことが直結している。
すべてがイコールで結ばれ、ひとつでも破綻すると生きることができない。
危うい方程式の上に、今日も何億の人間が、新しい日を待っている。
V
日本ではものごとが複雑になりすぎて、大事なことが見えない。
なんのために生きるのか、なんのために働くのか、誰も分からないまま生きている。
これだけ豊かでモノに溢れ、教育にも恵まれているのに、字さえ読めないインド人が分かっていることに人は気がつかない。
毎日太陽が昇る奇跡にも気がつかない。
なんのために働くのか。
今の世の中では、旅行に行くためとか、欲しいものを買うためとか、働く目的が余暇の部分にシフトしてしまっている。花金の飲み会を励みに、一週間を耐え忍んでいる。
働くことと生きることがどう結び付くのか、うまく想像できない人間があまりにも増えすぎた。
だから大事なことが見えにくくなっているのかもしれない。
働くことの本質は、食べること、そして生きることにあったはずで、それがずれていないインドでは誰もが大切なことを見失うことはない。
インドでは貧しいリキシャーワーラーもスラムの住人も、アンタッチャブルと呼ばれる社会の最底辺に置かれる被差別者たちも、誰ひとり死ぬことなど考えない。
考えたこともない。
誰もが生きようとしている。
今日を生き抜こうともがいている。
不確定な日々を懸命に、全力で生きている。
それなのに屋根もあって明日の糧にも困ってない日本人がみな死にたがる。
どうしてだろう。
リキシャーワーラーもスラムの住民もみんないい笑顔をする。
なぜなら生きていて、自分が家族を養っていて、自分が幸せだと知っているから。
一切手抜きせず丁寧に生きてきたから。
それなのに19時に地下鉄の階段を上がってくる日本人はみな下を向いて暗い顔をしている。
どうしてだろう。
VI
今やテレビや映画では、虚構の死が嫌というほど溢れている。
他方、本物であればあるほど、死は生活の領域から遠ざけられ、忌み嫌われている。
かつて生活の一部であった死は、病院の真っ白なシーツの上か、かび臭い大学の研究室に追いやられてしまった。
親族の最期を家の畳の上で看取り、家族みんなで遺体を拭いて、死装束を着せ、葬る。
親類、近所のどこかしらで死は繰り返され、死は誕生と同じくらい身近で、生活に根差したものであった。
こうして、日常のなかで死への感受性は育まれていったはずだ。
感じることですくすくと育つ人間の本性であって、学校で教わることではない。
現に、我が国の最高学府でも教えてくれなかった。
鳴り物入りで始まった死生学の分野横断講義は人間疎外的で寒かった。
人は自分や大切な人の老い衰えや忍び寄る死の影にはっとしてはじめて、縋るような思いで四国を回り始めるのだ。
死生学って一体誰のためのものなのだろう?
現代の歪んだ死生観こそが、現代への切符の代償だったのだろうか。
ゴールが見えないとペース配分が決まらないように、死が見えないから、生が決まらない。
死が抜け落ちてるから、生が宙づりになってしまっている。
死に方が決まらないのに、生き方が求まるはずがない。
どんな死に顔で死ぬか決めれば、どんな面下げて生きるか自ずと決まる。
死が隣り合わせのインドでは、生がありありと浮かび上がっているようだった。
VII
19歳でインドに流れ着いて、いろんなものを見た。
まだまだ感受性が瑞々しくて、感性も研ぎ澄まされていて、多感な時期だったこともあって、とてつもない衝撃を受けた。
旅は、シルクロード横断後、42か国目を数え、大概のことには肝が据わっていたはずだが、それを凌駕するカルチャーショックの洗礼だった。
人肉の焼ける臭いが風にのって漂ってくる夕暮れのガンガーのほとりで、あるいは真っ黒に焼けた痩せて骨ばったワーラーの、運命を背負い込んだ因果な背中を眺めながら、生きるってこういうことなのか、と漠然と掴めた気がした。
と、同時に、人生の方角を見失った。
日本であくせく働くことがばからしくなった。
19時に地下鉄の階段を上がってくるひとりになりたくなかった。
不安定な生活でも、自分が何をしているか知っていて、どうしてそれをしているのかもちゃんと知っていたかった。
思考をなくしたボロ雑巾にはなりたくなかった。
リキシャーワーラーみたいな笑顔で笑っていたかった。
日本の大多数のように大事なものを見失いたくなかった。
日本の社会で、それを見失わずに正気を保って生きていける自信もなかった。
この感覚を、日本に溶け込むために、飼いならしてしまいたくなかった。
これが日本を出た理由のひとつ。
本当は直接話すべきことでこれまで言わなかったけど、ひょっとするともう会うこともないかもしれないから。
井の中の蛙の幸せを羨むような、ナンセンスな話であることは、よく分かっている。
VIII
インドは恐ろしいほど生きることに執着した大地だと感じる。
生きることに呪われた大地。
生きるために体を売った結果養えない子供を産んでしまった母親は、その子の眼を刳り抜く。
あるいは、脚を切り落とす。
なぜなら、脚のない子供を抱いて座っていればより多く施しを受けることができるから。
その子供も眼がないことで、ひとりでも施しを受けて生きていくことができるから。
すべては生きるために。
生と光を天秤にかける。
それがインド。
路上にはこうした子供を抱いて座って物乞いしている母親が多い。
しかし、実は本当の母子でない場合も多々ある。
インドにはレンタルチャイルドという闇ビジネスがある。
こうした障害児や攫ってきた子供を、あまり施しを受けられない物乞いの女性に貸し出すのだ。
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