「死」が突然目の前にやってきた 〜出会いから看取るまでの2年半の記録

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ゴールデンウィーク。
T病院は治療はすべてお休み。
知らなかった。
驚いた。
せっかく数値が正常になって治療を受けられる状態なのに、
1週間以上治療を開けるなんて。。。
日に日に悪化する様子を目の当たりにしていた私にとって、たかが1週間が怖かったのだ。
ガン細胞のほうが元気を取り戻すんじゃないか。。。



治療再開も、予定の30回の放射線照射を終えて治療の効果はあまり見られないとの診断。
2回めの抗癌剤を勧められるが血液の値が微妙。




この頃には本人も私もすっかり病院の治療に信頼をおけなくなっていた。
飲めるかどうかわからないけれど「スーパーフコイダン」を1本購入した。



2010年5月16日。
病室へ「スーパーフコイダン」を持っていく。
口から水も飲めなくなってからは、何かを飲もうとするとゲフッと言って吐き出す。
吐き出すかどうかわからないが、飲んで見るという。


少し口に含んむ。飲み込む。
また少し口に含む。飲み込む。
そして40mlほど飲んでみた。
30分ほど様子を見たところ、ゲフッと来る様子はない。
期待を胸に、その日はそのまま帰宅。
心臓が痛いという。




翌日朝、メールが来る。
トイレに行ったらフコイダンの香りがしたという。



やったーーーーーーーーーーーーーーーーーー!



少しは食道を通ったのではないか。。。


1日に100mlを4回飲めるといいと聞いた。
そのペースで飲めるようになり、ガン細胞が死滅してくれたら・・・。




しかしそう簡単には行かなかった。
副作用で吐き気もあり、フコイダンの強い香りが辛いらしい。
飲めるとはいえ、少しずつで時間がかかるため、何度も飲むのは難しい。




2010年5月19日。
水分(フコイダンではなく)を口から摂れたことを医師団に伝えると、「おお~」の声。
CT検査をしたところ食道が通っているのを確認できたという。



食道が通っているかを検査するのにバリウムを飲む提案をされていたが、
私は断固拒否していた。
私が知らないことでもあるかもしれないが、バリウムといえば体内で固まる
ものというイメージがある。便秘になったら下剤を・・・という話を聞くじゃないか。
納得いかない説明に、そんなものを試す気には到底なれなかったのだ。



一筋の光を護りたい。その一心だった。




病院といえば、患者一人ひとりの状態を全部把握し、
初めに治療計画や看護計画は立てるものの、
状況に応じてその都度最適な治療をするものと思っていたが、
いろいろ信じられない出来事は起こった。


どうせ命が長くないと思っているから、丁寧な説明もいらないとでも思っているのかと
勘ぐりたくなるほどだった。
それだけ患者とその家族は「死」を感じながら、感じないようにして、
すべてを訝りたくなるほど不安の渦の中にいるのである。



病気毎に基本の治療スケジュールはあるものだけれど、
その治療の理由や他の可能性について、あまり納得できないという時や、
話を聞いてもわからないという時には、
医師の説明を盲信せず、セカンドオピニオンを受けたりしてみるのも大事なことだと思う。





死との対峙


2010年5月26日。
本人の強い希望により、自主退院。


1日2000mlの水分と2000kcalの栄養を摂るよう言われた。
一般の家庭でとても出来るものではない。
それでも家に帰ってくるとホッとした顔を見せる。


これは私にとっては本当に「死」と対峙する日々の始まりとなった。




ほんの少しだけ開いた食道は、ガン細胞が成長すればまたすぐに閉じてしまう。
開いている間にスーパーフコイダンをできるだけ飲んで欲しい。
それ以外に水分もカロリーもなるべく摂れるように。


点滴もなしで十分に摂取できるはずもなく、彼はどんどん衰弱していく。




T病院に戻りたくないという彼を、入院させてくれる病院、
それが無理なら栄養分を点滴してくれる病院を探した。


行く病院行く病院で、T病院で治療していたのなら・・・と戻ることを勧められる。
それもそうだろう。
でも戻りたくないという彼が首を縦には降らない。
しかもずっと個室で入院費も嵩み、支払えずにいた。


他の病院を探すしか無い・・・。




2010年6月4日。
足首から足先までむくみが出る。
身体を横にした時に下になる足のほうがよりむくむようだ。
少しだけ勉強したマッサージをする。
「気持いいな」
できる事をまた一つ見つけた気がした。
毎日マッサージしよう。



むくみは数日経っても良くならない。
ネットで調べると、エネルギー不足による低タンパク血症から来るようだ。
やっぱり点滴してくれる病院を探して点滴するだけではだめだ。



区役所に行き、高額医療費申請をする。
ガン治療のように治療費が高額なものについては、本人の収入によって
治療費を減額してもらうことができる。
私は普通に収入があったが、彼はほぼ無収入だったため、
支払う治療費の上限が3万円となった。
これに部屋代・食事代をプラスして払うことになる。




内心、私の心は悲鳴をあげていた。
どうしたらいいんだろう。
どうしよう。何がいいんだろう。
考えて考えて考えて考えて。
怒られて、弱々しく怒られて。
それが堪えてまた考えて。



怖かった。。怖かった。。
このままじゃ私が殺してしまう。どうしよう。。
どうしたらいいんだろう。。


お金があったら最新治療というのも受けさせてあげたかった。
ネットで問い合わせると、
「残念ですが、手遅れです」
の返信。


そんな・・・・・



「死」が迫っている。
それは現実。
でも、まだ諦めない。
諦めずに抗いたいという彼と共に、まだ闘い続けたかった。





最期の闘い


2010年6月23日。
やっとの思いで見つけたTS病院。
この病院を選んだのは、ホームページに書かれてあった言葉に希望を見出したからだった。
「癌末期自宅療養やホスピスなどでの治療が困難となった方の苦痛緩和医療。
 各種悪性疾患の抗癌化学療法の外来及び短期入院診療」


まさに当てはまると思った。
この病院なら受け入れてくれるんじゃないか。
そう思った。


タクシーで病院へ行く。
しばらく待つと、外科外来前で待つように言われる。
外科?外科の先生が診てくれる???


手術不可能ということで、T病院では放射線科でしか診てもらえなかった。
だから外科で診てもらえるということが、嬉しかった。


担当となったS医師は、
「今日、入院できますか?」と。
神様にでも出会った気分だった。
有り難かった。


後でS医師は言っていた。
明日にでも死ぬんじゃないかと思ったと。
それでも受け入れてくれたのだ。その気持が嬉しかった。涙がでるほど嬉しかった。


S医師は食道ガンの専門ではなかったが、私達の話を聞き、
今までの治療内容とレントゲン写真、その他必要な情報はすべてS医師から
T病院へ問い合わせるとおっしゃった。


S医師自身も細かく調べてくれ、日に1度か2度は病室を覗いてくれ、
休日にも顔を出してくれた。



ほどなくしてむくみも収まった。
ヘモグロビンの値は正常値の半分。
死がそこまで迫っていたことを思わせられる。


それでも、私の感覚は分厚いビニールカーテンに包まれているようで、
そのカーテン越しに降りかかる針を見ているかのようで、
死という緊迫感をうまく掴むことが出来ずにいた。


頭では治すのは難しいだろうと思っていたと思うけれど、
感情は治すんだ、奇跡を起こすんだということでいっぱいだった。



2010年6月25日。
5度の吐血。出血の原因や部位は特定できないという。
頭痛がある。



2010年6月26日。
今後の治療方針の説明があった。
T病院で使った抗癌剤よりも新しく強いものを試してみたいとのこと。
最後の賭け。すべてお任せする覚悟。
副作用の説明も全て受た。


出血量が多いことから、S医師はガン細胞からの出血を疑っていた。
その場合出血量が増えれば、体外に出すことができずにそのまま気を失うこともあるという。
彼と話し合い、新薬の使用をお願いした。

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