裏口入学【3】

「裏口入学」【3】

■こうして福岡県立小倉西高校へ「贈収賄で入学」した私だが、この高校は居心地が良かった。転校試験は不正だったが、成績がまた昔のように、300人中で100番以内に戻ったから。平均すると50番全後だったか。

 小倉西高は、以前の、同じく不正入学した福岡県立城南高校に比べると学業では劣る。昔も今も、現役で早稲田や慶応、九州大学へも合格する生徒はほぼ皆無。よって、私の成績でも、上中下で言えば、学年で常に「上」だった。が、それは学業で二流高校だったからで、偏差値は60を上回ることはなかった。

私は中学時代と同じく、アイドル歌手やフォークソングに夢中になり、部屋中にポスターや切り抜きを貼ってファンクラブにも入った。勉強するふりしてオールナイトニッポンや歌謡曲番組に夢中になり、歌手やスターに憧れた。

また、クラスの一つ年上の中嶋が女の子とイチャイチャしているのに刺激を受け、オレも彼女を作ろうとクラスを見渡し、松下まり子に焦点を定めた。特に話したこともなかったが、なんかアイドル風で好みだった。

 ちょうどその前の試験成績がよく、何かの科目は学年で10番以内に入り、その表が全学年に配られ、体育のクラスでも目立っていた。

今がチャンスと思い、夢中でラブレターを書いて靴箱に入れた。衝動的に。恋する気持ちは素晴らしい行動を引き出す。が、3日たっても1週間経っても返事がない。ダメか。

と諦めかけた10日後、彼女の親友である竹下から呼び出しを受け、廊下で花がらのハンカチを差し出された。彼女が開くと封筒が。思わず奪うように取り上げ、そのまま小走りで体育館へ。まさに踊る胸を落ち着かせながら開くと「・・驚きました。・・・いいお友達として、よろしくお願いします」とOKの文面。やったー!と、まさに小躍り。恋する気持ち=性欲に感謝だ。

が、「つき合う」意味を知らず、OKの返事はもらったのだが、どうすればいいのかわからない。今考えても素晴らしいプラトニック・ラブだ。デートの場所は小倉玉屋や小倉城を歩いたり、図書館で一緒に勉強する程度。

菅生の滝で初めて手を繋いだが、最初は手のひら。そして徐々に指と指を絡め、付け根まで深く合体!もうそれだけでムスコは超勃起状態。きついジーパンに締め付けられた状態が何時間も続いたからか、腹が痛くなって困った。

草むらに寝そべり、キスのタイミングも計ったが・・・そんなことをするのは不良だ。キスなんかは結婚してからだと思いとどまった。

そんな姿を父は察していたのだろう。オレをいつも見下していた。

「金属バット殺人事件」一柳展也の父のように。

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■父はエリートだった。大学に1割行かない時代、「商科の雄」神戸大学経営学部に入学。卒業後は当時の花形である関西製糖に入社。その後福岡相互銀行(今の西日本シティ銀行)に転職し、30代で取締役になっていた。当時は小倉支店長を兼務で、これはあとで知ったが、この小倉支店は福岡県北部の本部も兼ねた、役員への登竜門だった。

(これは35歳を過ぎて知ったが、父の父、オレの祖父は、福岡相互銀行の前身である「福岡無尽」創業期のメンバーであり、やはり取締役検査部長をやっていた。オレが小学校低学年の頃に亡くなったので、詳しくは知らなかった)

そんな家系だったからだろう。オヤジとしては、オレは修猷館か小倉高校→東大や早稲田慶応、腐っても九大を期待していたが、到底無理な話。その努力もせず、女とデートしてアイドルにも夢中な日々。

ある日オレが部屋にいるとき、オヤジがスッとオレの部屋を開けた。そしてアイドル歌手だらけの部屋を見渡し、軽蔑するような目でオレを見た。

「なんね!?閉めろよ!」

そういうと、オヤジは無言で去った。既に身長ではオヤジを越し、気性も荒くなっていた。昔は何かというとオヤジはオレを殴ったが、もう手出しは出来ない。別に腕力は強くなかったが、キレた時の狂気は、かなり凶器じみていたからだ。

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■時は高度成長期のまっただ中だったが、オイルショック後の不況時でもあり、銀行役職者の立場としては激務が続いていたようだ。さらに、オヤジは高血圧で糖尿ぎみ。さらに痛風で足も引きづって歩いていた。母が野菜や青菜をジューサーにかけ、懸命に家で青汁療法をしていた。

当時、父は44歳。今思えば激務だったようだが、銀行で一番の出世コースに乗っていた。社の代表として、銀行業界のヨーロッパ視察員にも選ばれ、まさに順風満帆のビジネスマン生活だった。「家庭の長男問題」を除くと。

オヤジとしては、オレがとにかく一流大学にさえ行けば、すべては丸く収まると思っただろう。オレもそう思った。友人とかスポーツとか性格とかどうでも良く、とにかく、人間の価値は学歴と偏差値で決まると。

 しかし、現実は・・・まりちゃんとアイドル歌手が最優先。井上陽水やチューリップ、吉田拓郎にも夢中になり・・・勉強は上の空だった・・・・

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■父の死

そんな高校2年の秋、ある朝、学校へ行こうとすると、どうも父の様子がおかしい。布団に寝ていて、意識もあるし、目も開いてるのだが、なんか天井のアチコチを見ている。

母の「あんたはさっさと行きなさい・・」で、学校に行ったが・・・

父は脳血栓だった。倒れて入院し、1週間後に病院へ呼ばれた。父は意識はなく、延命装置のようなものを身体に繋がれ、テレビドラマなどでよく見る、強制的な呼吸マスクで息をしていた。子供心に、やばいなと思った。

 その1週間後、父は死んだ。44歳だった。

高校から普通に帰宅したある日、家では通夜の準備が進んでいた。オレの顔を見た母は、「パパが・・」と泣き崩れたが、オレは特に動じなかった。悲しくなかった。

通夜の自宅には多くの人が来て、「私は栢野さんのおかげで今があります!」と泣き叫び、その場に崩れ落ちる人もいた。オヤジはやはり、「エライ人」だったのだ。

通夜で坊さんがお経を上げていたときだ。皆は神妙な顔付きで下を向いている。何割かは泣いていた。

 母の横にいた小学校5年の弟が、異常な光景に周囲の顔をキョロキョロ見たあと、急にウワッと泣き出した。パパが死んだことに気づいたのだろう。可哀想に。弟がどの程度、父のことを思っていたのか知らない。が、オレよりはるかに親想いの優しいヤツだ。

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■通夜が終わり、オレは自分の部屋に一人籠もった。高2といえば、まだまだ子供。学校生活以外、世間のことは知らない。父親が死に、今後の生活はどうなるだろうという漠然とした不安はあった。世間的には片親というやつ。差別的な匂いもある。

 しかし・・・オレは父が死んでうれしかった。

喜ぶというカンジではないが、開放感があった。なんというか・・・ウルサイヤツがいなくなった。敵がいなくなったというのが正直な気持だ。

 が、皆の手前、笑うわけにはいかない。一応神妙な顔付きで、自分を誤魔化すため、一抹の不安を吹き払おうと、当時、流行っていた沢田研二「時の過ぎゆくままに」を大音量でかけた。

 聴きながら、サビの部分で涙が出た。ホッとした。こういうときには、やはり涙を流さなくては。「ちょっと。音が大きいわよ」と注意に来た親類に涙の顔を見られ、これでオレも悲しんでいると伝わっただろう。

 しかし、泣いたのは父を想ってのことではない。通夜でブルーな気持ちに、歌の歌詞とメロディがマッチした。タダそれだけのことだ。

父が死んだ。でも悲しくはなかった。父にはむしろ、憎しみに近い感情があった。それが何なのか。優等生ではないオレを見下していた・・・その裏に潜んでいた、自分の本当の気持ちに気づくのは、それから30年もの歳月が必要だった。

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