一生、下半身麻痺と診断された父との約束

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告知された直後の父は、弱気だった。

下半身の感覚は全くない。夢ではないのだ。


「お前たちには伝えておかなければ」と「石井家の系譜」みたいなメモを渡された(誰と誰の仲が良いとか悪いとか、祖父の酒癖とか・・・)。


孫を残して自分が死ぬというストーリーの絵本を出すと言い出したりもした。

父が絵を描いているところなんて見たことないが?というツッコミは置いておき、少しでも前向きになるよう「死んだと見せかけて生き返ったって話にしようぜ」と伝える。


リハビリにも前向きにさせなければならない。

寝たきり状態から車椅子生活にするにも、本人の努力が必要なのだ。

「ここから回復してくれよ。そしたら、俺が今書いている本に、その話も出せるからさ。夏くらいまでに歩けるようになってると原稿的に助かるな」などとその気にさせる。


仕事関係の人がお見舞いに来てくれる。

だが、父の状態を見て、泣き出してしまう女性もいた。

仕事中に動き回っていた父とのギャップが大きいからだろう。

ただ、泣くなら病室の外でやって欲しいと思ったりもする。

父は前を向かなきゃいけないのだ。


平成26年3月下旬。

父は教員の仕事を退職する。

仕事人間で、有給消化率が絶対に低かった父は、病室で定年を迎えた。

自分の身体よりも、職場を気にしているようで、退職の挨拶で同僚にお菓子を配りたいと言い出す。

それどころじゃないだろうに、と思いつつ、学校の職員室に大量のお菓子を届けた。

その際、父が職場に置いていた私物も引き上げる。

校舎などを直していたと言っていただけあって、大工道具とかチェーンソーみたいな道具を受け取る。



銃刀法的に大丈夫だろうかと不安になる。


父、車の処分に反対する


少しずつ、父の気持ちも前向きになってきた。

リハビリの時間外でも、病室内で握力を鍛えたり、感覚がない足を動かそうと意識を集中させたりするようになった。

「ちょっとだけ指が動くんだよ」と言ってくる父。

「おお、すごいな」

下半身麻痺には変わらないから、焼石に水だとは思いながらも、父の気持ちを奮い立たせなければならない。

少なくとも寝たきりから車椅子までたどり着かねばならない。


症状固定の診断書をもらい、介護保険や身体障害者の手続をする。

父のリハビリも車椅子での運動が始まる。

やはり車椅子生活が現実なのだと思い知らされる。

そのうちに、ベッドから上半身を起こし、身体を滑らせて車椅子に移動させる動きができるようになった。

これで、病院内を車椅子で移動でき、自販機や売店にも行けるようになった。



行動範囲が広がったからか、よりリハビリをやる気になる。

たまに、足がビクッと反応したりする。神経を集中させているようだ。

車椅子での生活になることを前提に、父が借りていた畑を明け渡した。


さらに、誰も乗らないであろう車も処分しようと父に提案した。

しかし、父は反対した。

俺はまた歩けるようになるんだから

と言うようになった。

自分に言い聞かせるかのように口にする。

さすがに車の運転は無理だろうと思いつつ、車検時期までは保留にしておこうかと決める。

最初に治るかもって言っちゃったのは私だし。


2014年5月。

父の下半身が動くようになってくる。歩行器を使って立つ練習も始めた。

まだ感覚が戻らないらしいが、片足は意識をすると少し動かせるらしい。

主治医も驚きを示すようになった。


父が主治医に質問する。

退院した後、歩けるようになったら、尿管をどのタイミングで外せるのか、などを聞いていた。

主治医も「そこまで行けるか分からないけど、石井さんの場合は、特別だからなあ」と一般的な方法を説明をしてくれる。


この頃、症状固定という診断であれば、受給できる年金があることを知った。

そこで、年金受給用の診断書を作ってもらったら、「治癒の可能性」欄には「未定」と書かれた

症状固定=治らないと言っていたのに、未定になっている。これでは年金はもらえない。

父に診断書を取り直すか聞くと、「いいよ、たぶん治るから」と言う。


車椅子生活なら、父は施設に入るしかないと思っていた。

実家は全くバリアフリーではない。廊下も狭い。玄関までに20段くらいの階段を上らないといけない構造だ。倒れた母に介護は無理だし、弟だって大変だ。


しかし、この頃から、弟が、父が家に戻るための動きをし始めた。

「できるなら、戻ってきて欲しいと思っているんだ」と言い始める。

いつの間にか頼もしくなっていた。

弟は、ソーシャルワーカーと打ち合わせ、どうすれば自宅の構造で生活できるかを考え始めたようだ。

階段は車椅子を滑らせる機械を使えば上り下りができる。いつの間にか研修も受けていた。

居間に介護ベッドを置けば、生活はできるという結論になった。


ただ、この生活では、弟が実家に縛られてしまう。いつか家を出たくなることだってあるだろう。そのときに、父の介護に縛られてしまうのではないだろうか。

そんなニュアンスの言葉で弟の気持ちを探ったら、

「兄ちゃんの言うように、夏までに歩けるようになるってのも、あながちなくもないかもね」

あっけらかんと答えてきた。


父のリハビリへの前向きな態度を見て、病院からの帰り道に感じた。

医者から一生、下半身麻痺と言われても、気持ちを奮い立たせ、周りの考えも変えてしまう。そんな父の行動は、世間に勇気を与えてくれるに違いない。

勇気をもらえた。この話は、自分が孫に語り継いでいこう。

そんな美談にまとめてしまう自分がいた。


だが、父の物語は始まったばかりだった。


父、家に帰る


2014年6月。

これ以上は、入院が続けられないということで、退院。

父は実家に帰り、車椅子生活となった。


リハビリは、週1回のデイケアでおこなうことになった。

しかし、父は、自宅でもリハビリの運動ばかりをする。

歩行器を使って、手の支えをせずに立つ練習。

それができたら、歩行器を使って足を動かす練習。


定期的に実家に様子を見に行くたびに、父の症状は回復していった。

歩行器を使って歩けるようになった。

家の中の段差がとにかく厳しいらしい。


また次に行くと、

杖をつけば歩けるようにもなっていた。

「あれ、尿の管はどうした?」

「ああ、もう取ってもらったよ」

ちょっと足が悪いおじいちゃん、くらいの動きができている。


母が文句を言ってきた。

「聞いてよ。朝、何か車のエンジン音がすると思ったら、お父さんが勝手に運転してっちゃったのよ

「いや、ちょっと近くを運転しただけだよ」

万一、事故でも起こしたら、過失の程度が重くなるから止めてくれ、と釘を刺してはおいた。

が、言うこと聞きそうな雰囲気ではない。


次の機会には、実家の玄関が広くなっていた。

車椅子で階段を移動させる機械がなくなっている。

「ああ、もういらないからレンタルやめた」

孫に追いかけられ、ぎこちないが早歩きくらいのスピードで歩けるようになっていた。


2014年11月

車の運転ができるようになった。

動きを見ていても、問題なさそうなので、もう何も言うまい。


2014年12月。

デイケアでのリハビリも卒業した。

車だけでなくバイクにも乗れるようになり、市外まで出かけるようになった。

立ち幅跳びの練習をしているらしく、60センチ。新記録70センチなどと記録を連絡してくる。

実家に行くとキッチンに立ち、孫にオムライスを作ってくれる。

「まだ膝が張っている感じで、正座はきつい」

いや、そんな61歳はたくさんいるから!


父は、宣告時の医師について、

「あのときの先生たち、ひどいよなー、もう俺、死ぬんだと思ったもん」

と今では笑い飛ばしている。


もちろん、定期的な通院は必要だが、「寝たきり、よくて車椅子生活」と言われた父は、ここまで回復することができた。医師の診断を覆してしまった


私自身、「医者がダメだって言っても、治った例は山ほどある」とは口に出したものの、この未来は描けていなかった。

未来はこうだと決めつけちゃダメだと良い意味で思い知らされた。


2015年1月。

下半身麻痺を告知された日、打ち合わせをキャンセルした総合法令出版さんより、本が出版された。

父の話も少しだけ書いたところ、無事、原稿に残された。


「ここから回復してくれよ。そしたら、俺が今書いている本に、その話も出せるからさ。」

親父よ、この約束は守った。


「鉄棒と水泳は俺がもらってもいいか」


今度は、そっちがこの約束を守る番だ。

さっさと孫を鍛えてくれ。


あと少しだ。



この話から学んだこと

・お灸よりもでかい病院に行く

・とりあえず前向きな反応をしておこう

・車の運転にはくれぐれも気をつけて。


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将来、自分が同じような状況になったとき、父の話を思い出し、気持ちを奮い立たせるため、ここに刻んでおきます。


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