「見えない難病と障害」 自立を目指しあえて退職 

前話: 「見えない難病と障害」 指定難病クローン病に

専門医・専門外来での治療を受けるようになり、腹痛や食べたものを吐くという苦しみから解放された。とは言うものの、治らない病気であることに変わりない。

良い状態を継続するための寛解維持・対症療法でも、少しずつ悪くはなる。だから、またいつ入院するか怯えながら生活をしていた。


食事制限で人と疎遠に

特に、脂肪と消化の悪い物を避けるという食事制限と、食べられないことで栄養が不足してしまう栄養剤摂取で下痢が頻発しているから、人と行動を共にするには困難だと感じていた。

行動を共にするには、理解がなければ難しいからだ。だから、必然的に人との関わりを避け、昼飯は、自分で作る手製の弁当か、うどん屋などを探し回る日々。食事を誘われることもめっきり減った。


おならを我慢

さらに、お腹にガスが溜まり、人知れずおならをしてガスを放出しなくてはならないし、下痢が激しく、1日で20回もトイレに駆け込むのでは、周囲と共同で動くことができない。

会社で打ち合わせをする際、来客を応接室に通した。応接室は周囲の喧騒を閉ざしてしまう。

僕は、いよいよ我慢の限界のような気がしたが中座するタイミングを逃し、おならをしてしまったことがあった。

周囲は、気付いていただろうが、その場では、気付かないふりをしてくれたのだろう、会話は途切れることなく進んだ。今から思えば、もっとやりようがあったなあと恥ずかしいばかりだ。


おならは、ときにうんちを漏らすこともある。ガス抜きできるかなと思っていると、うんちが出てしまうときもある。下痢状態では、よくあることだ。

日常生活の質はすこぶる低下し、さらに孤独になっていった。


この先も、異動があるだろうが、そのたびに病気のことを説明し、理解を求めなくてはならない。

時は、リーマンショック前の景気の悪い時代。インターネットの発達と共に、旧型の企業は、ネット新興企業に多くの市場を奪われていった。僕の会社も斜陽産業と言われて久しい。

病気を理由に配置転換を望んだ同僚や、使えないと判断された社員の中には、管理部門に配置転換となった者の、隅っこで仕事も与えられず、蚊帳の外に置かれている者もいた。端っこに机を用意され、雑務を与えられるだけで、傍から見ても仲間外れにされていた。

ああ、俺もそうなるかもしれない。あんな状態に耐えられないだろうと感じていた。

会社も斜陽で、入社時にいた社員3300人も、今は2000人ほどまでに減っている。さらに1800人までに減らす方針だった。この会社では、退職金が安い。満期で勤め上げても1000万円は出ない。役員でさえ、1300万円ほどだ。

しかし、

どんな状況下でも、定年までは900万前後はもらえるのはいい会社だとは思う。定年後は最長5年65歳までは250万円から200万円で雇ってくれる。

今度、異動になったら会社を辞めた場合にどうするかという、シミュレーションが頭の中を支配していった。


そう考えると、これまでの自分の人生を顧みてしまった。

中学時代、野球部だった僕は、3年の5月に退部してしまった。野球が好きだったわけでもなく、なんとなく入部していて、その月にレギュラーから外されたからだ。7月になれば3年生は引退なのだが、引退の二か月前での退部だった。

「この時期に退部すると、お前は一生後悔することになるぞ」

監督が、言った言葉は30年以上経った今でも、頭に残っている。

目標もなく、努力することもなく、逃げてばかりの人生でいいのか?

挫折が怖いから、三段階落として、120%合格を狙える高校に進学した。

実家を出たい、まだ就職したくないという理由から受験勉強もすることなく三校の大学を推薦で受けたが全部落ちて、最後に残った短大に滑り込み二年間を過ごした。

短大では、就職先もなく、採用条件には“4年生大学卒業見込み”という条件ばかりだったので、ここでも希望の大学から三つ落として、二校の編入試験を受けた。

一校は、3年次、二校目は2年次編入で合格だったので、迷わず3年次編入の大学に編入した。

ここでも特に目標もなく“4年生大学卒業見込み”という称号をもらうためだけに大学を卒業した。

そして運よく、多くの人が羨む会社に就職できた。

でも、このままでいいのか?

病気だから逃げるのか?

色んな思いが交錯した。


病気でも、なんとか自立して食っていけないだろうか。

贅沢は言わない、給料は半分でも二人の子供は養っていけるだろう。目標の給料は年収500万円だ。


事業やるなら、自分のサービスなり商品が欲しい。

ネット時代では、電子書籍や新聞を配信し販売するサービスはいけるんじゃないかとか、病気による食事制限で食べるもの無いし、うどん屋なんかいいな。うどんなら関西でも関東でも讃岐でもない、うどんが、僕の生まれ故郷にある。これなら、新しいうどん店になるんじゃないかなとか考えを巡らせた。


しかし、費用だ。

今の僕ではせいぜい自己資金は300万円ほどしか出せないだろう。

IT屋なら開発には1000万は必要だ。うどん屋でも同じくらいは必要ではないかな。

などと、妄想が広がっていく。


そんなときに、僕は10年ほどいたIT部門から、PRや広告代理などを代行する新会社へ出向となった。そしてすぐに、40歳代の希望退職の募集があるらしいと噂がたった。

会社は50歳代の早期退職は、常設のリストラ策として用意していたが、40歳代は初めてのことだ。僕は、総務に行き、その噂の真偽を確かめにいった。

どうやら、その噂は本当の話のようだった。


2009年3月末退社で50人、2010年9月末退社で50人の計100人の早期退職を募集するということだった。

大学を出て就職し23年目の春。いの一番に手を上げ、リーマンショック真っ只中の2009年3月末付けの第一陣で退職した。食事制限や酒を飲んではいけないため、一切の送迎会は断った。

唯一、同期入社の友人とだけ、日を改めて二人でささやかに会を催した。

出勤最終日の当日、部内の同僚にだけ挨拶をし、あとは全てメールで、連絡しパソコンを初期化して会社を後にした。31階立てのビルを背に、東京駅に向かう。意外とあっさりした退職だった。

難病、小4と小4の子供たち、家のローンを抱えての、かなりチャレンジな船出だった

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