統合失調症になった私 第二章

統合失調症になってから 闘病

第一章で話したように私は今の旦那さんとお付き合いを始めて約一ヶ月ほどで緊急入院(措置入院)となった。毎日毎日幻聴には大変苦痛であり、誰かと話していても音楽をイヤホンで聴いていても頭の中に鳴り響く。幻聴がない日はとっても幸せな気分だった。
鳴り響いた幻聴だとわかった言葉の中で一番苦痛だったのは

「お前なんか生きている資格がない」
「早く死んでしまえ」
「生きている価値がない」
「死ね!死ね!・・・」

などと「死」へ対する誘導詞が多かったためだ。その声も当時一番聞きたくなかった人からの声であったり、自分でその存在が怖いとか嫌だとかを感じることのあった人の声だったため布団の中にもぐりこみ両耳をふさいでも聞こえてくる「幻聴」というものから逃れたくて処方された薬を飲んでただただ一日中ボーっとしながら過ごしたり、寝ていたり・・・という日が多かったと思う。

緊急入院となった日のことは、途中までで記憶が途切れたままだ。
多分彼と私の賃貸物件で過ごしていた。私は止め処となく聞こえてくる幻聴と会話でもするかのようにぶつぶつと何かを話していた。ワンコも私の近くでうたた寝でもするように穏やかに寄り添っていた。彼はベランダに近いところにあるパソコンで何か作業をしていた。穏やかな夕暮れだったことは記憶にある。でも、その後の記憶はありません。

ここからは彼に後々に聞いてわかったことです。私は突然ベランダへ向けて走り出したそうです。きっと幻聴によって誘発された行動だったのだと思っています。彼がその日一緒に過ごしていなければ私は今こうして生きていることもなかったでしょう・・・
彼は私が当時住んでいた賃貸物件の5階から飛び降りをするかもしれないと判断したのでしょう。普段からは考えられないほどの力と叫び声で暴れていたそうです。そして、救急車で入院施設のある精神科のある病院へ運ばれたそうです。

ここから先は私の記憶です。運ばれた日も目覚めた日も覚えてはいません。
ふっと何か違う感覚にびっくりしたように起きた私。無機質なコンクリートの壁に囲まれた四畳半ほどの空間。ドアにはしっかりと施錠されていて、ちいさなついたてがあって覗くと蓋のないトイレが設置されていました。自分で洗浄できるボタンやコックなどはありません。(トイレをした後に巡回している看護師に部屋の外にあるボタンで洗浄してもらうもの。自分では流すこともできません)シングルサイズのマットレスのようなベッドが設置されていて、薄い掛け布団と枕がひとつ。他に私物もなにもありませんでした。自分自身がこの場所に運ばれてきたことも、もちろん時間や記憶もないのでまず一番先にどこにいるのか?携帯がないのか?タバコが吸いたい。この三つを看護師に話したことは覚えています。でも、まだ看護師では判断ができないため次の日に医師に確認をとったら返事しますと言われたのでなんにもすることがないまま最初は過ごしていました。
でも、数時間後には「幻聴」が鳴り響き混乱状態の私がそこに存在した。頭を両拳でたたきだしたり、「もう言わないで」と泣き出したり、そのうち疲れてしまって眠ってしまうこともありました。数日が過ぎたころ主治医と名乗る白衣を着た医師が私のところへやってきた。そこで何が起こってここにいるのかを知っているのか?とか私の中で記憶に残っている部分を聞いてきた。でも、私の中には数日なのか数時間なのか抜けた空白の時間が存在していることを話し、医師から「ここは病院です」という話だしから私の中で空白の記憶を埋めるように説明がありました。「彼と飼っているワンコが心配だから帰りたい」と懇願したが受け入れてはもらえなかった。

数日が過ぎて、「面会ですよ」という看護師からの言葉で初めて無機質なコンクリートの部屋から出ることができた。面会に来てくれたのは彼だった。彼に会った時、彼は普段と変わらず穏やかな笑顔をしてくれた。私は泣き崩れ彼に何を話したのか覚えてはいない。少し落ち着きを取り戻したころに彼が私にこういってくれた。「エルスィート(ワンコ)はちゃんと世話をしているから心配しないで治療に専念して元気になってね」その言葉にココロから感謝した。彼は私の住んでいた賃貸物件から出勤しまた帰宅してワンコの世話をして週末だけ洗濯物などを私に届けたり必要な備品などを届けて、自分の家へ戻り、また一週間の荷物を持って私の賃貸物件へと戻ることの繰り返しをしてくれたのだろう。彼の優しさに甘えていたこと、甘えるしかできなかったことに悔しかった。この統合失調症という病気を恨んだし、受け入れることや理解することができなかった。もちろんこの病気になるきっかけとなった存在である会社の先輩や家族、過去にお付き合いをした理解のない彼氏など自分にとって悪影響を与えたと思った存在全てを恨む、憎む、妬むことが一番最初に病気に対してとった行動のひとつだったような気がします。

入院生活(措置入院)
入院生活は決して楽ではなかった。同じように繰り返される起床、薬、朝食、薬、昼食、薬、晩ご飯、薬、就寝の流れ。ワンフロアの中に喫煙所が設置してあったためタバコと食事と薬の繰り返し。ワンフロアの中からは一歩も出られず、一階にある自販機でさえも自由に行き来できなかった。隔離病棟という名のフロアだったからだ。エレベーターが見える食堂からは面会に来られた方や帰られる方が見えるだけで私にはもちろん面会に来てくれる家族はいなかった。週末に疲れた顔ひとつ見せずに私のところへ面会に来てくれる彼がたった一人の私の家族のようで本当に嬉しかった。
週に一度くらいは主治医と話をする機会があるのだが、正直自分で自分自身を分析したり理解することができていればきっと入院していないと思う。だから主治医と話をするときも何を話していいのかわかないし、措置入院であるがゆえに自分の希望通りに退院ができないことも苦痛のひとつだった気がします。ただ、入院生活をしながら感じたことはあんなに苦しくてつらかった「幻聴」がほんの少し落ち着いた気がしたからだ。薬の効果ももちろんあっただろう、そして何より自分を変えたことは周りに入院しているうつ病や躁うつ病、統合失調症などの方がいたからだろう。当時はこの入院時に仲良く話をしたり喫煙所であったりする人を仲間意識で捉えていたことは確かな記憶である。今まで同じ統合失調症の方と知り合う機会もなかったし、私にとっては親近感のある仲間意識は強かったと思います。入院となりこの病院へ運ばれてから一週間から10日を過ぎたころに一般病室へ移動となった。その時ほど感じた開放感と嬉しさは忘れない。自由にお手洗いへいけたり、喫煙所へいけたり、当たり前の生活を当たり前と感じさせなかったあの無機質な空間から出られたことが嬉しかったからだ。カーテンで区切られた4人部屋。ここが約2ヶ月近い入院生活を送る私の部屋である。

私は入院をするにあたって様々な手続きが必要だったはず。でも、私だけでは書類は通らない。両親がしていることもなかった。同じく東京に住む姉が書類などの手続きはしていたそうです。でも、一度二度しか会わなかった・・・会うことはなかった。きっと私という存在が嫌いだったかもしれない。そして私も姉が嫌いだった。私は神戸に住む両親や同じ東京に住む姉が嫌いだった。成人したひとりの大人でもこういうときに頼らなければならないことが一番嫌だった。私が入院するとほぼ決定で救急車で運ばれてきたときに彼が私の携帯から神戸の両親や姉に連絡をとってくれたらしいのだが、その日からもう8年という月日が流れていこうとしているのに誰も旦那さんに謝ることはしていない。何度も促したが結局しなかったのだ。彼がお金のない私が退院する時に入院費を立て替えて払ってくれたこともあったし、感謝することはたくさんある。立て替えたならば誰かから返金がなされたであろうことがなかったんだ。ただ私は彼に返済できないかもしれない借金をしたのだ。成人した大人として認められる部分と成人した大人であっても認められない部分があることに矛盾を感じつつ過ごした日もありました。

話は戻って。しっかりと向き合うことをしなければならなかったのかもしれないけれど、向き合うことができなかった一度目の入院生活。ここではただただ時間が過ぎることが私の中で受け入れられるひとつの要素だった。他は何一つ受け入れられなくて病気のことも家族のことも・・・ただ鉄格子などをした窓が全部だったので自ら死を選ぶことも何もできない無力さに悲しくて時間が過ぎてゆくのをボーっと眺めながらこの時私は「ただただ生かされている」とよく表現していた。
生かされている・・・これは無力で無気力でただのニートといっても過言ではない。働くこともできずただただ食事をし、薬を飲み、眠る。この繰り返しをしているだけなのだから。生きているだけで誰かに迷惑をかける。生きてる意味をもたない。生きている意味も探さない。私の28年間の人生では一番最悪な状況に甘えて生きていた。その当時彼が面倒くさいといって別れて行くこともできただろう。でも、彼は傍にいてくれた。私はカゴの中の鳥のような犠牲者感で過ごす日々をつらいとよく話していたが、一番の犠牲者となったのは誰なのだろう?28歳の時には考えもしなかったことに今は視野を広げることができる。

本当の犠牲者とは誰なのか?それを考えるのがこの病気の答えになるのか?それも違うと思う。
誰にでもうつ病や躁うつ病など統合失調症、精神的な疾患以外でも身体的な障害でもなりうる可能性はあるのだ。それを犠牲者と呼ぶのか?きっと自分自身のものの捉え方や考え方、癖や個性も性格も全てがたまたま一致した時に発症するような気がしている。
病気になったことを恨んだり、妬んだりしていることよりも先ず病気を克服するために最初にしなければならないことは病気を知り、理解していくことだと感じます。この考えにたどり着いた時には8年もの月日が流れていました。そのくらい経たないと気づくこともできないのかもしれないし、私はのんびりしていてとろい性格なので遅かったとも思います。

考えてみてください。病気になった時風邪だったら?なんにも言わないかもしれませんね。でも精神疾患だから身体的障害だからこそわからなくて誰かのせいにしてしまうのかもしれません。人間の心理は答えのわかるものには困ったり悩んだりしません。未来がわからないから誰かのせいにして責任転換をして楽になろうとするのです。病気と本当に闘う気持ちがあるのならばきっと私のように症状が安定してきて日常をなんとか生活していくことはできると思います。

病気と闘うということは、理解をし病気を知ることからです。相手を知らなかったら戦うこともそうですが弱点とかも見つけられないでしょう。闘ったからといって痛い目にあうこともありません。恐れないで自分の病気の特徴や種類を知りましょう。

今回は初めての精神科へ入院となり、自分が今なら気づけた様々な気付いた点を同時に書いてみました。きっと乗り越えられる!きっと快復へと導くことはできる!確かに治せるとは書けません。私自身も病気が治って完治しているわけではないですから。でも、希望を持って一日一日を過ごすことはできると思います。

次回は入院生活で得たもの、そして間違ったことを綴ろうと思います。

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