イベント業界で生きていく
いつからだろう
イベントという単語はいつから使い始めたのだろう。。。
昔は自分がイベント業界で生きていくなんて思ってなかった。
中学校のある日、「生徒会やってみないか?」と先生が言ってきた。
生徒会なんて俺には全く縁がないものだと思っていたが、
試しにやってみたら意外と面白かった。
初めて人前で喋る仕事が。「生徒会書記」
これが俺の初めてのイベント事だったのだろう。
高校生になり、入学時にまた先生が「生徒会に興味ある奴いないか?」
つい手を挙げてしまった。
高校1年次は生徒会副会長。
高校2年次は生徒会会長。
高校3年次も生徒会会長。
高校になると生徒会の仕事に「文化祭」のまとめがある。
いわゆる裏方仕事だ。
パンフレットの印刷から、教室の割り振り、部活動のとりまとめなど。。。
ほとんどは先生が主体となってやってくれるから、今考えると大した仕事じゃないが、
あの頃は週7の部活もやりながらだったから、頑張ってる気がしてた。
この頃もまだ「裏方」=イベントではなく、「裏方」という認識だった。
そして、大学に入ると入学時にまた「生徒会や学園祭に興味ある人いませんか?」と
先輩方が入学オリエンテーションで募集をかける。
どうやら大学は「生徒会(学友会)」と「学園祭実行委員会」は別組織らしい。
普通はわざわざやらないよね。サークルや部活ならまだしも。
俺はなぜだか「学園祭やります」と手を挙げていた。
生徒会の仕事の中でも学園祭は何気に楽しかったから。
学園祭実行委員会。
初めて俺が名刺を持って、肩書がついた瞬間だった。
「学園祭実行委員会 主催行事局 局員」
それからは最低限の単位を取るものの、授業よりも学園祭が楽しかった。
金髪でバイクを乗廻し、走り屋などやっていた俺は学園祭の中でも浮いていた(笑)
学園祭や学友会に入る人って基本、真面目でいい人が多い。
まぁ、そうでなきゃ入らないよな、普通。
初めてやった「芸能人のアテンド」
初めてやった「ステージ組み」
初めてやった「理事長との打合せ」
二年次は「会場局 局長」
三年次は「実行委員長 兼 総合実行委員長」
四年次も「実行委員長 兼 総合実行委員長」
うちの学校は、大学・短大・専門学校が1つの敷地に入ってるため、
3人の実行委員長が選出される。
そして、合同学園祭のため、総合実行委員長が必ずその中から選ばれる。
3校合わせて、約100名の実行委員を束ねることになる。
こんな金髪ヤンキーがトップでいいのか?と思っていたけど、
こと仕事に関しては誰よりも楽しくやっていたせいか、なぜか学校側の評判は良かった。
四年次に「宣伝カーを走らせたい!花火を打ち上げたい!」と思い、予算調整して、
近藤予算を作ってもらった。今思うとパワハラだろうな。
その頃はインターネットなんてもちろんなかった。
パソコンもMS-DOSの時代。
でも、俺の強い味方!タウンページがある!!
警察や消防に申請もした。
花火屋さんと打合せもした。
地元の町内会会長に花火の了承も得た。
んで、学校側に話したら。。。
「それは相談ではなく、完全に事後報告というんだぞ」と怒られた。
ネゴり方は、さすがに先輩は教えてくれなかった。。。
垂れ幕がかかるので、理事長室を1週間真っ暗にしてしまったことも、
夜中まで仕事してて、警備員のオッサンに怒られたことも、
今となっては良い思い出だ。
三年次の終わり頃、就職活動をしなければならないと周りがソワソワし始めたころ、
「俺は何をしたいんだろう」と思った時、
選択肢として「イベント屋」か「バイク屋」だった。
リクルートが出していた就職本。若い子は知らないだろうな。
企業情報がみっちり詰まった本が学校にずらーーーーっと並んでいる。
そんな中でようやく見つけたのが「株式会社プラザ」だった。
イベント屋になりたかったから、そこしか受けなかった。
人生で書いた履歴書はそれ1枚。
イベント屋人生の本当の始まりだった。
就職する直前の3月。
会社に呼び出された。
行ってみると、「近藤君は4月から ”電算センター” 配属だから」と言われた。
はい?電算?センター?
日々、売上伝票、入金伝票の入力。
毎日毎日毎日・・・・俺は伝票に埋もれて死ぬのかと。
壁に向かって毎日カチャカチャカチャカチャ・・・・。
パソコンじゃないからね。オフコンだから!オフコン!
2000年問題が目前に迫ったある日。
唯一無二の上司が
「あ、来月から、僕は静岡支社に転勤だから、あとよろしくね♪」
おい!まだ1年経ったばかりだろ!?
なんで俺が全社集計やら、買掛金入力一人でやるんだよ。
「あ、それから2000年問題のシステム処理もやってね♪」
チ~ン。。。
親会社のシステム部と日々喧々諤々。。。
こっち1人だぞ!?なんで、そっちは20人もいるんだよ。。。
と、いいつつ結局作ったプラザシステム。
もう電算センターに飽きていた俺は、全ての入力作業は営業マンが出来るようにした。
集計もボタン1つで出るようにした。
在庫管理も買掛金管理も総務が出来るようにした。
ようやく俺は営業部に転属出来た。
電算の頃から少しは手伝っていたものの、現場に出るのは人生初。
しばらくは怒られ、怒鳴られ、凹む日々。
休みはない。残業はある。ゆとりはない。ストレスはある。
そんな日々が3年位続くと、意外と慣れるもんで。。。
イベント屋といっても、様々な業種がある。
俺はイベント屋に就職したつもりだったけど、就職したのは「施工屋」だった。
施工屋というのは、簡単にいえばステージ作ったり、看板作ったり、備品用意したりと、
大道具+小道具のような仕事。
逆に「施工屋」以外、よく分かってなかった。
イベント業界マップなんてないんだもん。。。
ふとある時に「出向してくれ」と言われた。
日本トップの代理店のグループ会社。
もともと先輩が行っていたから、気軽な感じで行ったけど。。。
「免許取り立ての人間がターボチャージャー付の車に乗る感じ」
乗れなくはないよ。でも、無理だよ。だって、俺、施工屋だもん。
言い訳は当然通じない。
代理店業務なんて何してるのかなんて全く分からん。
テントの立て方は一切役に立たない。
スチレンボードの厚みなんて聞かれない。
ガチャとラチェットの違いなんて誰も聞かない。
必要なのは、計画立案、マニュアル作成、仕様書作成、テクニカル知識。。。
はて、俺は何をしにここに来たのだろうか。
まぁ、山のように仕事はある。
ほぼ毎日徹夜。
デスクで朝日を眺め、シャワーのために家に帰る。
毎日毎日、俺がやりたかったイベントの仕事をしている。。。はず。。。多分。。。
たった1本のイベント「2003年 第5回アジア冬季競技大会」
この仕事のおかげで、イベントの苦労が分かったし、楽しさも知った。
奥深さも分かったし、自分のレベルも分かってしまった。
クライアントには出禁間際までダメ出しされ、雪山にはスーツで登り、
地元企業にバカにされ、デザイナーには怒られる。
この時ほど、自分がどれだけイベントの仕事を甘く見ていたのか、
イベントの仕事がどれだけ大変なのか。ようやく理解出来た。
それでもやっぱり続けている。
施工屋→代理店出向→セールスプロモーション会社→制作会社と、
サラリーマンイベンターを続けてきた。
そして、独立。
シンシアプロデュースという会社はまだ出来て間もない。
あれだけダメ出しされた俺が、気付けばイベントの専門学校講師もやっている。
生徒達には「イベントは98%が辛い部分だぞ。楽しい所はたった2%あるかないかだよ!」って
何度も言ってきている。
「イベントは自己犠牲の上に成り立っている。自分がどれだけ大変な思いをしたかによって、
比例して来場者は笑顔になる」
「夢だけあれば食っていける。夢は諦めちゃいけない。死んでも諦めるな」
「やりたくないことはやるな。やりたいことだけやってろ。
でも、やりたいことのためなら、やりたくないことでもやれ!」
「目に見える全てが、お前たちの知識であり、経験だ。目に映る全てのものをイベントと思え」
「業界で生きていくなら、嘘はつくな。たとえクビになるようなことがあっても、嘘はつくな」
「イベント業界にはエンドロールはない。自分の名前は誰も知ってもらえない。でも、来場者が
感謝してくれる表舞台の人達に感謝されると、感謝が倍増されて届くこともある」
「イベントは98%が辛い部分だ。楽しい所はたった2%しかないぞ。
でも、たった2%の幸せが、人生の120%の喜びに変わる時が来る」
裏方仕事で大いに結構。
表に立ちたいとは思ってない。
表に立ちたいと思っている人達の踏み台になり、支えになる方が何十倍も幸せだから。
きっと、俺は死ぬまでイベント業界で生きていく。
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