妻が半年で亡くなりこの世に単身赴任になった話
今日は、2023年3月14日。6年前のこの日、多分人生最大の嫌な事の始まりの日だったのかもしれない。
楽観的な僕は、厄年とか。全く意識していなかった。ま、そんな余裕も興味も無かったし。。最近過去に遡って色々調べてみた。と言っても結婚後までだけどね。。
<<プロローグ>>
僕の厄年は、一つ前が
1999年(H.11年)の前厄・・・幸いノストラダムスの大予言は外れてこの世は無事だったけど、勤務していた会社が会社更生法の摘要を申請、更生管財人を努めてくれた現勤務先の大きな企業に吸収合併された。結果良かったのかな。。。
2000年(H.12年)の本厄・・・この年に4子長女が生まれたおかげで何も無かったのかな。
直近の厄年はもっとたくさんいろんなことが起きた。
2017年(H.29年)の前厄の前年2017年(H.29年)に妻が他界した。
2018年(H.30年)の前厄・・・白内障の2回目(右目)の手術をした。
2019年(H.31年)の本厄(最凶の厄年らしい八方除けの神社でお祓いしてもらった)・・・神奈川から愛知の本部に異動になった。30年以上も連絡が取れていない、いわゆる行方不明父親らしい人物の腐乱死体が発見されたと連絡があった。住宅の復旧・葬儀費用等々請求された。またサラ金に借金があったようでその分の弁済も要求された。
長い付き合いのある税理士資格を持った友人が亡くなった。
2020年(H.32年)の後厄・・・大阪の専門学校に通って一人暮らしをしていた娘が鬱になった。回収して、一緒に暮らしている。本人の将来もあるため現在は回復している事はお伝えしたい。
2022年は八方塞がり(大凶らしいので八方除けのお守りを買った)・・・年も年なのでしょうがないと思うけど、管理職を外された。2度もコロナになった。
人生の前半戦がいつまでで、後半戦がいつからかは良くわからないけど、自分の人生は、仕事して、当然結婚して、家を買って、子供作って、孫の面倒を見て。。。皆に看取られて笑いながら死ぬ。みたいなイメージだったけど、58歳で妻を失い、この世に単身赴任。(今は娘と一緒に住んでいるが。。)トピックス的な物だけでもこの世に残しておきたいと思い、閑職に任せて自分自身の記録として文書を書いていこうと思う。
何かの役に立つとか、同情してもらおうとか、そんな感じじゃなくこんなやつも世の中にいたんだなぁ(もしくはいるんだなぁ)っていう足跡を残しておきたい。
気が向いて、世間的に迷惑が掛からない範囲で何篇かに分けて書いていこうと思う。
人が死ぬと言う事、そしてそれが妻だという事、そして残された「1822」の話
<<結婚・出産>>
僕(7月3日生まれ)と妻:小百合(昭和39年2月22日生まれ)は、平成3年6月18日に結婚式を挙げた。その前の2月には入籍を済ませており、挙式時には既に長男がお腹にいた。
熱海市の市営住宅(@月8千円程度の家賃)で暮らし、平成3年12月の末に長男が誕生。平成6年3月には次男が誕生。その間僕は、会社を3つも転職した。幸いにも多少器用な僕はホテル立ち上げ時のオフコンホテルシステムの管理者として熱海に着任し、そのホテルがほぼ倒産状態となったことで、当時「草の根BBS」的なサイトで知り合った社長のソフトウェア会社に転職。次男が生まれる事を理由に、会社としてそこまで経済的に保証できないと言われ会社都合で退職。不思議な縁で、前職のホテルの知り合いからしっかりした銀行がついた大きなホテルの開業スタッフとして紹介され転職。
会社もしっかりしているのでそろそろ市営住宅を卒業して一戸建てを買おうと熱海の近くの神奈川に中古で一戸建てを手に入れた。驚いたことにこの一戸建ての前住人は、妻の銀行時代の同僚だった。ローン地獄に落ちたくないので、家賃程度の支払額でボーナス併用をして、気が遠くなるような30年のローンを組んだ。それもそろそろ終わる。
以後、平成9年1月に3男、平成12年7月に長女が生まれ大賑わいの家庭になった。
僕は仕事の都合で、断続的に15年に亘り家族と離れ、単身赴任生活を送っていた。これも家族6人を食べさせていけるように必死に頑張っていたつもりではあったが。。
<<突然の妻の入院>>
2017年3月14日 火曜日 朝7::30頃 単身赴任先に車で向かう僕を、いつものように玄関の外に出て大きく手を振り見送ってくれた妻 小百合。
なぜだかわからないが、「彼女に見送ってもらう姿を見るのはこれが最後かもしれないな」バックミラーにいつまでも手を振ってくれている妻をみながら、そんな気がした。「戦争で戦場に向かう人たちもきっとそういう思いで出かけたんだろうな。だから多分今職場に向かい、しばらくは家庭に帰れない自分もそんな気持ちになるのかな?」と釈然としない考えで自分の不安を抑えたんだと思う。一度単身社宅の御殿場のマンションに寄って、洗濯物を置き、トイレを済ませて職場に向かう。
数日前妻は、肌の痒みの治療のため、皮膚科に受診して「もらった薬を飲んだら足がパンパンに腫れた。あのやぶ医者のじじぃ」と毒づいて別の開業医に受診、小児科の先生だったが、大学附属病院の腎臓内科への紹介状を書いてくれたと言っていた。そして、この日に「大学病院に行ってくる」と言っていた。「結果がわかったら教えてね」と約束していたのだが、お昼過ぎても妻から連絡がない。ショートメールで「どう?大丈夫?」と送ると電話がかかってきた。
「あのね、先生が今から入院しろって言うのよ。どうしよう?」
「どうしたの?何があったの?」
「なんだか腎臓が悪いんだって。それに足の腫れは浮腫っていうらしいの。なんだかCTとか色々検査されて、おなかに水も溜まっているって言われた。」
「どちらにしても入院しよう。すぐに行く」
今まで彼女は風邪さえもあまりひかず、入院なんて4人の子供の出産がらみの時ぐらいしかした事が無かった。大騒ぎしながら病院に駆け込み、出産、1週間もすれば家族を1人増やして家へ帰ってくる。歯医者と小児科以外の病院とは縁が無かった。
え?なに?腎臓?最悪人工透析?つらいらしい。治るんだろうな?家庭は?子供は?家事は?一体何なんだ?いったい何が起きているんだ?と色んな不安が頭をよぎる。多分パニックになっていたのだろう。事態がつかめないボーっとした状態で、上司に「すみません。妻がなんだか緊急に入院することになったようでして、今から向かわなければならないので早退します。状況がまったくわからないので少しお休みを頂戴する必要があるかもしれません」と伝えた。上司は気を付けて急いで行ってあげて下さいと送り出してくれた。
病院へ向かう。妻が自分の車で病院まで行き、「駐車場が有料だからお金がかかるから持って帰って。どうせ検査で時間も掛かるらしいから急がなくてもいいよ。」というので 高校2年の娘と駅近くのコンビニで待ち合わせ、東海道線で熱海にある総合病院へ向かう。
妻は動脈採血するとのことでしばらく病院のロビーで待つ。看護師に呼ばれ医師の部屋に行き、説明を受ける。「ネフローゼ症候群」だそうだ。聞いたことも無い。原因不明だが腎臓が炎症を起こしているとのこと。炎症の対応の為ステロイド治療を行うが、免疫力が極端に下がるため他の感染症に罹る可能性があり、その際はどうなるかわからないので緊急入院するよう言われる。また、生体腎検査が必要で、腎細胞取得後6時間は寝ている必要があるという。また、胸水・腹水・内蔵浮腫・皮下浮腫が見られるという。。何が起きたんだ?何なんだ?誰の事なんだ?どうしろっていうんだ?妻は今日から入院するってことか?いつ帰ってくるんだ?
「先生治るんですよね?」と聞いた僕に「完治することはありません。寛解という言葉を使うのですが、治療を継続して普通の生活ができる可能性はあります。ただ、ネフローゼ症候群に至った経緯が調べなければならないのですが、そこが非常に心配です。」先生が何を言っているのかわからない。
妻が入院している病室に行く。とりあえず、入院の為に必要なマスク・ティッシュ・ウェットティッシュとか買って欲しいという。
駐車場に停めてあった妻の車に乗って娘と家に帰る。何か食べなきゃ、野菜を炒めてラーメンを作る。2つのラーメン丼に盛り付け食べようとすると、「パパずるい!」と娘が怒る。何があったのか?「私そっちがいい」同じ量を分けたのに、どうも娘からは僕のラーメンの方が良く見えたらしい。そんなにズルをするパパだと思われていたのかとちょっと愕然とする。確かに単身赴任が多く、当時17歳の高校生だった娘とは、7年程度しか一緒に暮らしていない。月に数回は帰省していたが、それは多分一緒に生活をしているとは言えないのかもしれない。僕は最近になって、娘が好きな食べ物・嫌いな食べ物を知った。僕も娘もお互いの事を良く知らないのか。。交換して食べる。僕は胃がせりあがっているようで、吐き気もするし食欲もない。ラーメンとか食べ物が喉を通る感じではない。ちょっと歩いてくると娘に告げてその辺を歩き回る。足が折れそうになっても歩く事をやめられない。俺って弱いんだな。
翌日の3月15日は、急遽お休みにしてもらった。雪が降ったらしく山の上が白い。娘は自分で7時前に起きてきた。車で娘を駅まで送る。洗濯とか掃除とかしていたが、10時には終了してしまう。一人になって不安で淋しくなってじっとしていられない。ペットボトルを近くのスーパーのペットボトル回収場所まで持って行って、スーパーの売り場をうろうろする。
娘が学校から帰るというメールが来たので駅まで迎えに行く。娘は家に帰ると、自分でうどんを作って食べた。
とりあえず100均で風呂桶・ウェットティッシュとか買う。妻の病院に向かう。3月21日生体腎細胞検査だそうだ。早く帰ってきて欲しい。
「カレーでも作ったら?しばらく食べられるよ」の妻からの提案で家に帰って娘とカレーを作る。考えてみたら娘と料理なんてするのは初めてだ。
吐き気がするほど何か不安だ。心臓が常にドキドキしている。友人のシェフから電話をもらう。「大変だな。でも先の事を考えてみてもしょうがない。」と言われ少し落ち着く。そう、まだ何もわからない。少し走ろう。少し気持ちが晴れる、でも眠れない。飲みたい気分だが、こんな時にお酒を飲んでもろくな結果にはならないのでやめる。
翌日から片道車で3時間かけての単身赴任先の職場へ出勤する。夕方早めに仕事を終えて妻の病院に顔を出すつもりだったが、面会時間は18時まで。全然間に合わない。次男が見舞いに来たらしい。
<<妻がSTAGE4の胃がんであることが分かった>>
実は僕は4月から浜松へ異動することになっていた。この状況ではとても困るので、上司に相談はしていた。事務仕事なので、会社の上層部に掛け合ってくれて熱海に拠点を設けてもらい、そこでしばらく勤務する事になった。また、異動は取り消せないので長男に自宅近くの拠点に戻ってきてもらった。大変助かった。関係各位に、心から感謝した。私事なので、状況によっては退職を覚悟で浜松への異動を断らせてもらう必要があったかもしれない。皆の心遣いに涙が出そうだった
出勤・お休みを繰り返して家事と病院と必要な事をこなしていく。後任者との引継ぎが終われば、往復6時間の通勤は無くなる。毎日毎日が色々と初めての事ばかり。娘の定期を買いに行ったり、病院の限度額申請をしたり、三男の卒業証書が郵送されてきたり、いつもは妻が手伝ってくれていた異動の引っ越しを娘と二人でしたり、、、
2017年度の最後の3月31日の内視鏡検査でネフローゼ症候群の原因が「スキルス胃がん」と診断された。え?胃がん?誰が?またパニック?色々話を聞いて回る。大腸がんで治療しながら元気に勤務している友人に「がん?俺は今生きてるもん。それでいい。」がんは治らないけど、治す必要もないのかもしれない。元気で痛くなければそれで良いと思った。
そして、拠点は熱海に設定してもらったが、御殿場の単身赴任の荷物を浜松へ移す。妻の状態が落ち着いたら、浜松へ単身赴任するつもりだ。不安で精神的に追い詰められながらでも、それぐらいのんきな感じでいたようだ。
4月13日。この日は一生忘れないだろう。妻は生まれて初めての手術(腹腔鏡)を受ける。事前説明を受けた彼女は、「おへそに穴をあけるんだって。大丈夫かな」とおどけながらも不安そうだった。いよいよ時間となり、病室から歩いて手術室に向かう。手をつないで歩きながら、「大丈夫だよ」って声は掛けたが、不安で泣きそうな彼女の顔が今でも忘れられない。手術室のドアが閉まる瞬間歯を食いしばっている彼女の横顔が見えた。手術が終了し、医師からの説明があった。「腹膜転移が見られるため、切除手術をしても無駄。がんのステージ4。1年後の生存確率50%」。。。誰の事だ?上司に電話で報告しているうちに、涙が出てきてうまくしゃべれない。上司は「大丈夫だ。おふくろが半年の余命宣言を受けて、もう10年も生きている。10年前より医学は進んでいる。」
いろいろなところに相談した。セカンドオピニオンを求めるようアドバイスをもらった。また近辺での優秀ながんセンターの情報ももらった。本当に皆助けてくれる。ありがたい。
そんな中で、娘との生活を続けながら妻の治療方法についても色々考えた。辛い抗がん剤治療を続けさせてでも、少しでも余命を延ばすべきか?痛み止めと気持ちの悪さを取る薬と、精神安定剤で少しでもまともに生きている時間を確保すべきか?妻とも相談し、これ以上痛い思いをしたくない。という彼女の意見をもって、抗がん剤は体調不良を起こさない程度の治療としてもらい、定年後一緒にやろうと思っている事を少しでも実現させることにした。医師にもその旨を伝える。医師からも、腹水からがん細胞が発見されたのでQOL(QUOLITYOFLIFE)を優先して治療していく事を提案された。TS-1を1日2回3週間。2週間休んで2日間48時間をかけてシスプラチンの点滴。。だそうだ。。。様子を見て投与薬剤の変更・緩和措置を考えるという。初めて聞くような薬の名前、病気の名前、僕はずっと通院している病院で、精神安定剤と睡眠導入剤を処方してもらった。
<<浜松に赴任・妻の入退院の繰り返し>>
そんな日々を過ごし、長男が仕事をしながら妻の面倒を見てくれるというので、僕は浜松に赴任する事にした。いつまでも会社にわがままばかり言えない。そして、多くは病室内だったけど、可能な限り帰省して妻との時間を作るようにした。
4月中旬には、外泊許可。39日ぶりに同じ屋根の下にいる。散歩に出かけようとすると、淋しそうな顔をするので一緒にいる事にする。そのころでものんきな僕は、妻が帰ってきてくれている事に安心して、彼女の体力が落ちた後でも一緒に出掛けられるようにキャンピングカーショーとかを見に行ったりしていた。2泊してまた入院。。
4月の末日には一時退院。当然帰省して病院の精算をして家に連れて帰る。帰宅途中で寄ったスーパーの試食のパンを食べて涙ぐむ妻がいる。「パンってこんなにおいしいんだ。病院で私何を食べてたのかしら。おいしい。おいしい。」それからしばらくは、食事もでき、庭の草をむしったり、散歩をしたり徐々に回復しているように見えた。食事の量も若干増え、時にはお茶碗1杯のお米も食べられるようになったが、すぐに食べられなくなった。薬さえ吐いてしまう状況だ。また病院に連れていく。即時入院となった。妻とは、6月18日の結婚記念日に伊勢神宮に参拝に行こうと約束していた。今回の入院で、自信を無くしたようで、「行けないかも。。」と泣き出してしまった。
毎日点滴をして、ようやく5月中旬には少し調子がいいらしく、電話をかけてきたりした。抗ガン治療について体力的な問題でシスプラチン投与は少し時間を置いた方が良いという事だった。体調も良いみたいなので、一時退院させてもらう。
自宅に帰ってきた妻はとにかく食べられるときは食べるという感じで、朝の5時頃にパンを食べたり雑炊を作って食べたりしていたらしい。抗がん剤の影響は、唇をうろこ状にして、口内炎ができてしまった。医者からは治らないと言われたと悲しそうに告げられた。
<<最期の二人だけの生活そして旅行>>
6月に入ると割と調子がいいようで、駅の近くまで一緒に散歩に行ったりできるようになった。時々検査の為に通院するけど、このまま治っちゃうんじゃないかと思っていた。そうだ、この子が死ぬわけが無いんだ。のんきな僕は、妻との伊勢神宮参拝計画を綿密に立て始めた。
6月14日 僕は妻を連れて浜松へ向かう。単身赴任アパートで少し体調を見て18日には伊勢神宮に行こうと思う。浜松へ向かう東名高速道路の途中で、富士川SAとか牧之原SAで休憩しながら走る。妻が楽しそうで嬉しい。浜松では、散歩に行ったり、仕事終わりにショッピングまで行ったりして過ごす。もしかして、二度と妻と歩く事さえできないかもしれないなんて考えていたが、今は一緒にいる。そして楽しそうだ。志都呂のイオンで妻にアースカラーの緑色のワンピースを買う。これを着て伊勢神宮に行くそうだ。浜松での二人きりの生活は、妻もとても安定していて、食欲もそこそこあって本当にこのまま一緒に暮らしていけるんじゃないか?と思えるほど幸せだった。
6月18日26回目の結婚記念日。伊勢神宮に向かう。伊良湖からフェリーで行こう。船の中でも、伊勢・鳥羽観光のガイドマップを見たり、デッキから伊勢湾の島々を見たり楽しく過ごす。約1時間で鳥羽に到着。大江寺という延命長寿のお寺に行く。二見興玉神社で夫婦岩を見たり、始めて御朱印長を買って御朱印を貰ったりした。外宮近くに行って食事をして外宮を参拝する。早めに外宮を出てホテルに向かう途中に月夜見宮がある。参拝する。妻は神社の方に黒く焦げた木について色々質問している。楽しそうだ。ホテルにチェックインして、河崎の町の観光に行く。僕は沢山動画も写真も撮った。夕食は妻の提案で魚民に行く。
6月19日朝7:00には起きて内宮へ向かう。いい天気だ。内宮をお参りしてお祓い横丁へ。松坂牛串とか食べて、伊勢うどんも食べる。楽しい時間はあっという間に過ぎる。浜松に帰るフェリー乗り場に向かう途中猿田彦神社に参拝してフェリー乗り場へ向かう。
しばらく浜松で二人っきりの生活を過ごし、23日には神奈川に連れて帰る。
<<徐々に妻の体力が無くなっていく。そして僕の大きな過ち>>
7月の中旬には、自宅から通勤できる施設への異動が決まった。引継ぎ・単身社宅からの引っ越しの準備等々でばたついた。ようやく引っ越しも終わった頃から妻の調子が徐々に悪くなっていく。食欲は落ち、下腹部が痛いという。そんな感じで、7月は調子が良かったり、お腹が痛かったりを繰り返しながらそれでも、就職している息子2人を除く家族4人で一緒に暮らす。8月に入ると、食欲も無くなり、7日にはまた入院になった。全身栄養管理だそうだ。それからしばらくして、入院中の妻は医療用のモルヒネでずいぶん楽にはなったようだ。しかし、余り具合は良く無いようで、腕は注射の跡だらけになり随分やせた。お腹だけは妊婦のようにぷっくりしているが、身体全体に妊婦のようなふくよかさはない。
9月7日妻の具合があまり良くないのを会社の皆が知っていたが、歓迎会をしたいというありがたい申し出で、久しぶりに飲みに出かける。妻は「行かないで。。」と泣いていたが、自分の歓迎会に自分が行かないわけにはいので、「ちゃんと帰ってくるよ。明日又来るね。」と会場に向かう。
僕は大きな過ちを犯してしまったようだ。
<<妻が自分を失った>>
歓迎会の翌日の9月8日、二日酔いっぽい身体を引きずって午後に病院に向かう。朝から「ただいま!」って病院に行く予定だったが、どうしても起きられなかった。
妻の病室がなんだか騒がしい。看護師さんが3人で困っていた。尿を採取したいのだがカテーテルを入れさせてくれない。午前中までは意思の疎通ができたのだが、急にできなくなった。「ちょっと待ってね、ちゃんとするから。ちょっと待ってね、ちゃんとするから」と頭を抱え、身体を前後に揺らしその言葉を続けている。
看護師より、宿泊による付き添いを勧められ、妻に確認するといて欲しいということなので付き添いをすることにして自宅からキャンプ用のコットを持ってきてもらう。二人の病室の夜が始まる。妻は天井に何かが見えているような動きをして、手をつなぐことを多く望んでくる。うとうと寝ては目覚め、天井を凝視する。5時頃やっと眠れたようだが、5:45には目覚め、なぜ自分が病院にいるのかわからない様子。
「トイレに行きたいけど身体が動かない。私事故にでもあったの?」
「おむつだからそのまましていいよ」
「そんなのヤダ。なんで?。。。。この子もうすぐ死んじゃうよ、可哀想じゃない?本当に死んじゃうよ。みんなでひと芝居打ってんじゃないわよ。もういい!」
僕は妻に質問してみた。
「ねぇ僕分かる?」「パパでしょ」「じゃぁこの子は?」「S(長男)でしょう」「この子は?」「M(次男)でしょ」「この子は?」「T(三男)でしょう」「じゃぁこの子は(娘M)?」「知らない。誰その子。」。。。
娘は病院のロビーで泣いていると看護師さんが教えてくれた。「医療用モルヒネの継続使用で、全く別の人格が出てくるケースもあるんですよ。。」だそうだ。
それは今まで見たことの無い表現をする彼女だった。
妻はおむつが擦れる関係で、臀部・太ももに沢山の水泡ができている。水包が破れて体液が染み出るので、足にガーゼを沢山巻いてもらっている。それに気づき、目をむき「なにこれ!きたならしい!とって、すぐ取ってよ!」と看護師に怒鳴る。
「ねぇ、あんたたちこれは何の遊び?この子死んじゃうよ。それでいいの?」を繰り返す。「あーつまんねぇ、つまんねぇなぁ」
モルヒネの濃度が変更になった。妻がメーターを見た時違和感が無い様に1の表示にしているようだ。夕方に精神安定剤を処方してもらって1時間程度眠ってくれた。
徐々に、落ち着いてきてきていたので入院している事実・カテーテルを入れている事実等を説明し理解したようだ。「つまんねぇなぁ」は相変わらず連発する。「テレビかラジオないの?」というので、RADICOでFM-YOKOHAMAを付けてやるとそのまま眠ってくれた。
朝、長男に来てもらって交代して夕方まで自宅で寝てまた病院に行って付き添う。そんな日が続く。。。
<<僕は妻の衰弱しきった身体を毎日見すぎてその衰弱の酷さに気付かなかった>>
以後、毎日泣いている妻がいた。そしてだんだん目覚めている時間が短くなり、それでも話しかけると答えたし、水も飲みたがった。9月14日には、既にストローから水を吸い上げる力も無く、僕は補水用の「吸い飲み」というものを数種購入して持ってきた。それを使って水を飲ませようとするが、うまく飲ませることができない。ほんの少しずつ口を濡らす程度にしか水が飲めないようだ。時々すごく暑がり、うちわであおいでやるとそのうち寝てしまう。果たして僕がいる事を認識しているのだろうか?徐々に痛みを訴える回数が増加してきた。医者はモルヒネの量を増加したようだ。息苦しさも出てきて16日には酸素マスクを着けてもらった。モルヒネの増加で呼吸数が少なくなるそうだ。この日、ついに持ち込んでいたキャンプ用のコットが崩壊した。
17日には、何故だか海側の大きな部屋に移動した。付き添い用のベッド・シャワー・トイレ・キッチンまでついている。外は台風の余波で波が高い。大きな波音が聞こえる。
妻の母親がお見舞いに来てくれた。母親は長女の手を握り「なんでこんなんになっちゃたんだ」と泣く。僕たちは毎日妻の事を見ていたので気づかなかったが、やはり頬はやせこけ、青白い顔に青白い手、酸素マスクを着けて苦しそうな息、お腹だけがポッコリ膨らんで、だらしなく広げられた足。。。それでも僕の妻だ。
この日は、次男が付き添いで宿泊する。僕は家に帰って久しぶりに夜寝る事にする。
<<そしてその日を迎える>>
9月18日 長男の運転で長女と僕と3人で病院に向かう。しばらく妻の顔をながめ、話しかけたりしていたが、看護師さんが体をきれいにするという事で部屋にやってきたので、近くのコンビニに昼食を買いに行く。帰ってきてもまだ処理が終わっていないようだった。待合室で待つことにする。看護師さんが走ってやってきて「脈拍が急に落ちてきたのでそばにいてほしい」
三人で妻の手を握る。心電図が徐々に落ちてくる。僕は頭をなぜながら「ねぇ。もう頑張んなくていいよ。痛いのたくさん我慢したね。もう終わりだよ。ありがとう。もう頑張らなくていいよ」
心電図はついに0になった。15まで上がって、5に落ちる。そしてついに0になって動かなくなった。15:55。先生が来て死亡確認。死亡診断は16:08。結婚から9,590日。僕の妻は永遠にいなくなった。
それからは、体をきれいにしてもらったり、娘が化粧を手伝ったり、葬儀屋と打ち合わせをしたり。。。。妻の身体は葬儀屋に預かってもらった。死亡から24時間以上経過しないと火葬はできないらしく、19日は時間的に間に合わない。20日は友引で火葬場がお休み。21日は友引の翌日ですでに空きがない。22日の午後に火葬することになった。
18日以降僕はずっと眠っていた。泣きわめくわけでもなく、悲しい感情に押しつぶされることもなく、身体が暑くて食欲がない。子供たちが皆帰ってきてくれて、妻の遺品の服の処分とか、仏壇の作成とか、食事の準備とかやってくれた。「皆こんなに成長したんだ。すごいな。」ようやく20日にごみを出したりする元気が出てきた。なんだか大きなものを失った実感があって、それが妻を失ったことだとわかっているが理解できていない。子供たちもあえて明るくふるまってくれているようだ。
22日の直葬(お別れ会と火葬)に備え、黒の腕章を子供たちが作ってくれる。「ママはきっと喪服とか嫌がるよね。Yシャツに黒のネクタイ黒の腕章で行こう。娘は制服でいいよネ!」
22日妻の身体が現世最後の日。朝早く目が覚めた僕は、朝食を作るのも面倒なのでほか弁にお弁当を買いに行った。無意識に6個のお弁当を買ってしまった。帰って子供たちに言われて初めて気づいた。直葬の会場には、妻の母親と妹一家、僕の妹一家。親戚が来てくれた。妻の遺体が台に乗せられていた。伊勢神宮に行った時と同じアースカラーの緑色のワンピースだ。少し笑っている。懐かしくなって「ねぇなんでそんなとこに寝てるんの?」と言って、ほっぺをチョンと触ってみた。僕はその感覚に愕然とした。妻の頬は、以前の柔らかさのみじんもなく、まるでスーパーの豚の塊肉を触ったように、冷たく硬く、すでにこの身体は僕の知っている妻じゃないと僕に強引にわからせるような意志を感じた。そしてお花に囲まれ、妻は煙になった。
定年後の老後の二人の生活。。あまり具体的なイメージができていなかったのは、もしかして、僕はどこかでこのことを知っていたのかもしれない。
<<18と22の話>>
暫く経って僕は不思議なことに気づいた。皆さんはどう思われるだろう。妻は、高校時代数学がとても好きだったそうだ。亡くなる数年前「数研取ろうかな」と言って、数研の本を買った。
そう、数字が好きなようだ。
妻 小百合は、昭和39年2月22日生まれ
僕 は、7月3日生まれ。5歳違い。
僕たちが結婚式を挙げたのは6月18日
妻が亡くなったのは9月18日
妻の身体が煙になったのは9月22日
妙に18と22が多い気がしませんか?
22日の共通点 妻の誕生日 2月22日 妻が煙になった日 9月22日。9月と2月の差は「7」。
18日の共通点 僕たちの結婚式 6月18日。妻がなくなった日9月18日。9月と6月の差は「3」。
そう、僕の誕生日は7月3日。
ある日、本屋で占いの立ち読みをしていた妻はニコニコしながら「私とパパは永遠のパートナーだって書いてある」と教えてくれた。そういいたいのかな?
で、妻が亡くなってしばらくして僕は娘と買い物に行っていたとき展示されていたAQUAがとても気に入った。URBAN-Xの白い車体に青い屋根のバーとスポイラーがついたおしゃれな車だ。納車してもらうと、ナンバーは「55-80」そう、5+5+8+0=「18」
そして妻の生年月日の昭和39年2月22日をばらして足すと、3+9+2+2+2=「18」
果たして偶然なのか?何か意思が働いているのか?妻が意思疎通ができなくなった日、「ちょっとまってね、ちゃんとするから」は誰に対して言っていた言葉なのか?
今更、誰に聞くこともできないが。。
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