クワイエットルームからの社会復帰ストーリー


学生時代に発病して入院しました。



先生のはからいで半年間学校を休んだまま卒業しました。4月に入社式にはなんとか出席しましたが、翌日仕事場へはどうしても出勤できませんでした。そのまま新幹線で実家まで帰ってきました。すぐに会社から電話が入り、退職しました。休むという選択は、自分でも会社サイドからもありませんでした。人事部の人が心配そうに「これからどうされるんですか?」と聞いてくれました。が、ゆっくり休んで元気になれば、また同じような大企業で普通に働けると思ってました。


元気になるまで一年ほど自宅療養でした。毎日、ラジオをふとんのなかで聞いているだけのニート(当時こうした言葉はありませんでした)生活でした。ただ、昼ご飯は毎日作るように母にいわれてラーメンやチャーハンなど用意していました。子供の頃ラーメンをつくる(インスタントですが)のが好きだったのを改めて思い出しました。夕食も作るように言われて手伝っていました。これが、後になってデイケアでとても役に立ちました。もちろん本当はデイケアで役に立てるのではなくて実生活で役立てるのが大切なんですが、いまだに出来ていません。




一年後、薬を飲まなくていいと当時の主治医にいわれました。その後、通院しなくなって2ヶ月ほどで、インターネットを始めて同時に就職活動も始めました。いろんな大企業のホームページをみたりして、資料請求のハガキをおくりました。ほとんど返事はありませんでした。最初の会社は関東勤務だったがイヤだったので地元にこだわって探しました。私は名古屋近郊に住んでいるのですが、名古屋まで急行で30分弱で、でかけるのすら遠すぎると感じていました。名古屋の小さな会社の面接で「転勤はありませんよね」としつこく聞いて怪しまれたりしました。結局自転車で通勤出来るのをポイントに地元の紡績工場に就職しました。面接では染色の研究をさせると言っていたのですが、入社してみたら機械の掃除とメンテナンスでした。


そのうえ上司に残業、休日出勤、夜勤があると知らされました。当然あるものでしょうが、当時は騙されたように感じました。ほかの先輩には5年以内に出世するつもりで働くように言われました。いつまでも掃除なんかして満足しててはダメだし、会社としてもそんなつもりで雇ったんじゃないと言われました。なんだがプレッシャーを感じました。数年地元で働いて元気になれば、すぐに転職するつもりでしたが、それも見抜かれていたようで、「将来どうするつもりだ?」と何度か聞かれました。「人間関係が弱いんだろ?」とも見抜かれました。そうした中、3ヶ月の試用期間の終わるとき再発しました。


明日の朝、病院に行こうと決めてましたが、その夜のうちに病状が悪化して救急車で入院先に送られました。


その機械いじりの仕事は別に嫌ではありませんでしたが、それが後で問題になりました。薬をのみながら機械は触らせられない。事故が起きたらいけないので辞めてもらおうって話です。


入院は保護室でした。保護室って普通の人は知らないでしょうね。ベッドとトイレだけしかない独房です。「殺される」って思いました。「狂人だからいつでも殺されるんだ」って思っていました。後にデイケアで別の人が「精神障害者にも基本的人権はあるから安心しろ」と言っているのを聞いて、なるほど、と思いました。が、当時は非常事態なので本気で殺されると思っていたのです。それに、保護室の入院は本当にひどい環境です。保護室を出てからも入院中は「一生ここからでれないよ」とニヤニヤした他の患者に言われたり、「インテリ臭い」と怒鳴られたりしました。看護士に「いい年して、こんなところで寝てるなんて情けない」と怒られたりもしました。


退院が決まるとすぐに主治医を探しました。前の主治医は転勤していて通えなかったからです。幸い、その先生の知り合いの、今の福智先生とデイケアを紹介してもらえました。初めての診察で「まず3ヶ月毎日通うこと」と言われました。社会に戻りたいと強く思っていたので約束どおり翌日から通い始めました。この時社会に戻りたいって思ったのが、良かったんでしょう。入院が辛いので病院はこりごりだったのも理由の一つです。自分で稼いで自由にお金を遣える喜びも大きいです。


デイケアスタッフは入院のときの恐い看護士と違い、優しくてかわいらしい美人ばかりに思えました。周りのメンバーも入院してた時よりずっと、まともそうに見えました。


その後、2ヶ月で学校に通うことが決まりました。就職活動はフリーターでは不利だから学生という身分があれば、うまく行くと思ったからです。デイケアを退所して学校に通いました。学校は周りの学生と打ち解けられず苦しかったですが、診察では言えませんでした。仲良く楽しくやってますと答えてました。


学生になった途端にすぐに就職活動の時期でした。が、なかなか進みません。相談できる人がいなかったのもうまくいかない理由の一つです。先生も普通の学生の世話で手いっぱいでよそ者の私には手がまわりません。が、なんとか自力で内定をもらいました。


あとは学生として、やるべきことはなにもないので、毎日図書館で寝て過ごしました。無駄な一年のようでしたが、ゆっくり休めたし、履歴書上は得をしました。


翌年の4月から3回目の会社勤めを始めました。部屋には若手が3人集められていました。その先輩は厳しくてすごく意地悪なひとに思えました。入ったばかりの私はなにをしていいか分からずに困っていました。が、なにも指示してはくれません。「早く一人前になってくれないと俺が困る」と散々プレッシャーをかけられました。5月には2階から外を見て、「飛び降りて足でも骨折したら仕事を休めるかなあ?」などと考えていました。会社を1週間で3日休んだら、上司に呼ばれました。「どうした?」「実はウツ症気味と医者に言われて・・・」と答えました。「ウツ」といえば、楽な部署にまわしてもらえると主治医に言われていたからです。上司は、初めは考慮するといっていましたが、結局、「ウツなんだって?そんなにすぐにウツになるようなひとはウチにはいらないよ。いてもらっては困るしあなたも辛いでしょ?お互いに良くないから辞めてもらう」と言われました。仕方なく退社しました。


翌日から再びデイケア通いです。辞める前は診察のときに赤ペンで困ってることを書き出した紙を見せるほど辛かったのですが、デイケア生活になると途端にラクになりました。以前の知り合いもいるし、スタッフも優しくてとても居心地が良かったのです。一ヶ月ほど通ってなにも考えず、のんびりプログラムを楽しんでいました。しばらくすると主治医から「アルバイトを始めなさい」といわれました。「デイケアのメンバーでパン工場でアルバイトしてうまくいってる人がいるんだ。今度、話を聞いてごらん」といわれました。その人と話してみると、気の弱そうなおとなしい人でした。この人でもできたのなら僕にもできるかな、と思えました。また、看護士さんには「私みたいな馬鹿でなんもできないおばちゃんでも働いてるんだから、あなただったら絶対働けるわよ。きっと合う仕事があるよ」と励まされました。デイケアはプログラムを楽しむために通うのではなくて、仕事が出来るようになるまでの準備なんだと気付きました。


パン工場での仕事は以前に短期で働いたこともあったので抵抗はなかったです。それに、就きたい職業について考えてみると、家から近くて電車で通えて、毎日同じような仕事を繰り返す単調な仕事で、定時に帰れる仕事がいい、と思っていました。パン工場はある意味ぴったりでした。


バイトの面接は、受ける前にはいろいろ心配しました。面接の練習もスタッフの人と何回かやりました。実際には、バイト不足で、夏休みのパン工場は学生を含めて、来た人全員が面接なしで採用でした。正社員じゃなきゃ働く意味がない、などと頑なに思っていた時期もありましたが、簡単なバイトから徐々に・・・でいいんだと分かりました。


決してあきらめない。

自分はモルモットではない。

自分が、社会のための薬になるんだという思いをもって

挑み続けることが一番大事だと思います。



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