初恋の人 再会を望んではいけない でも会いたい

初恋・・

初恋とは、考えてみると何度かとあるかもしれない。

小学生の頃、中学生の頃、高校生の頃、大学生の頃。

小学校の頃は好きな女の子は居た、ただ初恋かと言われれば、?である。

中学校はどうだったかと思い起こせば心には残っていない。

高校生の頃は好きな女の子はと言われれば居たかもしれないが想いでさえもない。

昭和40年代の前半の田舎には恋愛環境は全く無いと言える。

好きな女性が居ても行動に移せない自分、どうすれば良いのか解らない自分。

聞くにも、聞く人も近くには居なく、そんなこと恥ずかしくて聞けない。

高校までは女性が私の家に来た事も、私が行ったことも有りません。

違う、小学校の頃に一人だけ家に行ったことがある。

歩いて4㎞程を一人で行きました。

名前も覚えています、面影も浮かびますが再会の機会は有りませんでした。

幼友達だったのでしょう。


初恋 それは大学2年生


大学は東京の大学でした。

東京の大学にしたのは理由がありました。

親戚のおじさんが戦後引き上げて来た時に家族でお世話になったので

恩返しをしたいとの申し出でお世話になることにしたのです。

東京で会社を経営していたおじさんは信用金庫の保養寮も管理していました。

全国14庫の保養寮の管理の管理人が私の仕事でした。

宿は5階建てのマンションの5階、2階~4階が保養寮、1階がおじさんの会社。

宿代は無料、管理人として月に1万円の手当でした。

もう1つは父の兄が強力に従兄と同じ大学を勧めたからです。

従兄は経済学部4年生で北池袋に住んでいました。


一年次は教養課程で三島か大宮でした、私は三島でした。

東京の自宅から三島まで通う事になりました。

朝4時半に起きて5時過ぎの地下鉄馬込駅発に乗り、五反田駅、環状線で品川駅へ

6時15分の東海道線普通電車に乗り8時30分三島駅到着、2時間15分の通学。

10分ほどで学校に到着、片道3時間の通学の旅です。

帰りも同じ道を逆に辿るのでした。

自宅に帰り着くのが夕方6時過ぎでした。

それまで電車に長く乗ったことのない田舎育ちの私には最初は楽しかった。

しかし途中で苦痛に変わりました。6時間の旅は大変です。

夏休みの最後に三島に引っ越しをしました。8月25日です。

静岡県三島市は伊豆半島の付け根、東海道新幹線三島駅があります。

三島駅から伊豆箱根鉄道が修善寺駅まで通っています。下宿先は二駅先の

田町駅で駅側の下宿家さんでした。

家賃は食事付きで3万円でした。

徒歩で学校までは25分程度掛りました。

三島神社、富士山の伏流水、公園、富士山景色のいい所でした。


秋になり学園祭の季節を迎えました。

学園祭に備えてフォークダンスのリーダーを募集していました。

毎日が暇だったので私も応募しました。

40名以上の人が応募していました。

それから毎日放課後フォークダンスの練習です。

高校の体育で教わったマイムマイム、・・・

炭坑節・・・

知らないダンスが沢山ありました、白い恋人達はその中での一番です。

学園祭当日我々の番です、輪は二重三重となり大盛況に終わりました。

食堂に集まり打ち上げ会が始まりました。

打ち上げ会の終わり頃誰かとなくこのままダンスの会を続けようとの提案がありました。

賛同者は男子十数名、女子十数名合計30名弱だつたと思います。

そこで初めてのダンス同好会が誕生したのです。

部長に選ばれたのは私でした。ダンス経験のない私が部長です。

副部長には熊本出身でダンス経験のあるTがなりました。

顧問にはフォークダンスの指導者だつた女性のT先生が就任しました。

それからは毎日ダンスの練習をしました。

ワルツ、ルンバ、ジルバ、サンバ、マンボ、チャチャ・・・

その後のダンスパーティには助かりました。

3月には東京に帰る事となりました。

三島駅の駅舎の先に見える富士山は最高です。

別れを告げるには惜しい場所でした。

東京の校舎は中央線(総武線)水道橋駅の側、神田三崎町の法学部です。

自宅から徒歩15分旗の台駅、五反田を経由して代々木で乗り換えて水道橋駅へ

自宅から学校まで50分程度の旅です。

4月は三島のダンス部の新入生勧誘のイベントが待っていました。

三島は教養課程の1年生と短大が併設されていたのです。

ダンス同好会のメンバーは男性数名、女性十数名が残っていました。

新入生勧誘のイベント当日、私は勧誘の現場に居ました。

春の晴天の中、沢山の新入生がやって来ました。

その中に女性3人のグループが居ました。

そして昼食も終わり食堂で休憩をしていました。

すると女性3人のグループの中の一人がやって来ました。

テーブル越しに話していました、1時間ぐらい経ったでしょうか

分たことは名前は順子、静岡市出身、次女であること。

そして時間があるならお話しませんかと誘っていました。

初めての事です、2度めの出会いでのお誘いです。


その後三島駅の近くの喫茶店でお話しました。

その間何を話したかは覚えていません。

時間は8時を指していました。

話すこと5時間以上、初めての経験です。

8時過ぎに順子は静岡へ私は品川駅へと新幹線で別れました。

次に会ったのはダンス同好会の練習日、私も東京から参加しました。

そして思い出に残るのが新入生歓迎ハイキングです。

場所は修善寺菖蒲園でした。

三島から伊豆箱根鉄道に乗り修善寺へそこから菖蒲園に向かいました。

私の側には順子が居ました。

菖蒲園に着きましたが、見頃には少し早かったみたいです。

順子はお弁当の他に蜜柑を持って来てくれました。

5月に蜜柑を食べる事などなかつた私は美味しかったのと、珍しかったのを

何時までも思っています。


ダンス部の初めての合宿を河口湖の大学保養寮でしました。

2泊3日のダンス同好会の合宿です、勿論参加しました。

富士山の朝焼けは忘れることの出来ない光景です。

朝早く起きて富士山を眺めていると山が赤紫色に包まれました。

幻想の世界へと誘い込まれました、長い時間では有りません。

こんな事はめったに無い事だそうです。


3日間の合宿も終わり東京に帰りました。

6月6日は私の誕生日、順子は東京にお祝いに来ました。

楽しかった日も過ぎ夏休みを迎えました。

私は大分の実家に帰りました、すると順子は速達で2日置きに手紙をくれました。

手紙を祖父に見せると達筆な字を褒められました。

祖父も字は達筆でした。

夏休みも終わり東京です。

時間があれば三島のダンス同好会へ行っていました。

勿論、順子に会うためです。

ダンスの後は喫茶店、そして新幹線でのお別れ。


静岡の順子の家に行きました。

静岡城の北側にある自宅、お母さんが迎えてくれました。

お母さんは言いました、大分は遠いですね、長男ですか・・・

お母さんと合う前にお姉さんと静岡で会っていたのです。

お姉さんは現在彼と同棲中、家族の反対を押し切っての行動。

これを聞いていたのですが、ショックでした。

これを機会に会うことも少なくなりました。

そして私が卒業して就職、大阪に就職も決まり奈良の宿舎に移動の日

3月31日に順子は結婚式を挙げました。

私が新幹線で静岡駅を通過する時刻が披露宴でした。


初恋は永久の思い出として残るものです。

私がもっと強く求めて行動していれば終生を共に過ごせていたかもしれない・・・


もう一度会いたい。









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